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6.1.3 トルコ人のイスラーム化 世界史の教科書を最初から最後まで

8世紀初め(今から1300年ほど前)以降アラブ人イスラーム教徒は、イランをこえてアム川・シル川上流部(トルキスタンの西南部)に進出。


ここにいたトルコ系の遊牧グループを退け、751年には天山山脈の北西部のイッシク湖から流れるタラス川の河畔で、中国の軍と一線を交えた。この戦いをタラス河畔の戦いという。


ここでアラブ人たちは唐を破るけれど、それ以上東への侵攻は果たせなかった。


しかし、変化はあった。

アラブ人たちがアム川・シル川上流部(西トルキスタンのオアシス地域)進出すると、ソグド人をはじめとする住民は伝統的なゾロアスター教から、イスラーム教に改宗するようになっていったのだ。



そのほうが税負担も少なく済むし、イスラーム教のほうが教義面においてゾロアスター教よりもずっとシンプルで合理的だったのだろう。

しだいに「ソグド人」という意識は薄れていき、現在ではソグド語を用い「ソグド人意識」を持つ民族は存在しなくなっていった。



一方、すでにアラル海周辺部にまで進出していたトルコ系の騎馬遊牧民・農耕民も、イスラーム教の商人と出会うことで、はじめてイスラーム教と接触。

イラン系の民族によって初めて西トルキスタンに建てられたイスラーム国家は、サーマーン朝(875〜999年)だ。
この王朝朝のもとで、トルコ系の騎馬遊牧民・農耕民の多くもイスラーム教に改宗していくことになる。



イスラーム教を受け入れたトルコ人は、トルキスタンでも10世紀前半にカラハン朝を建国。
10世紀末にはサーマーン朝を滅ぼして、西トルキスタンと東トルキスタンの両方をまとめることに成功した。



なお、トルコ人イスラーム教徒の騎馬遊牧民グループは、さらに西の方に広がっていった。

その一派を率いていたセルジューク朝のトゥグリル=ベグは1054年、夜空に突如として現れた強烈な光を目撃する。

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カニ星雲誕生のもととなった超新星爆発だ。

この不吉な天体ショーの1年後、1055年にバグダードを都とするアッバース朝に、トゥグリル=ベグは侵入。支配者「スルターン」の称号を、カリフに認めさせることに成功した。



ホラズムシャー朝、ティムール朝、白羊朝黒羊朝、オスマン帝国、サファヴィー朝なども、その後の西アジアに現れる強国の支配層のほとんどは、こうしたトルコ人騎馬遊牧民のイスラーム教徒だったんだ。



こうして中央アジアから西アジアの広域に広がったトルコ系の人々。
しかしそれでもイラン人の文化は根強く残り、トルコ系の言葉だけでなく、イラン系のペルシア語が広く用いられ続けた。

国家運営や文化の面では、やはり歴史あるイラン文明に軍配があがったのだ。

東アジアに例えれば、トルコ語は北方の騎馬遊牧民の言葉、ペルシア語は中国語に例えることができるだろう。


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