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10.1.2 機械の発明と交通機関の改良 世界史の教科書を最初から最後まで

拡大するマーケットのニーズに応えるべく大量生産を可能にするイノベーションは、まずアパレル産業(繊維産業)から始まった。

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当時のイギリスにおけるヒット商品はインド原産の綿織物(キャラコ)や、

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東ヨーロッパで作られていた麻布。

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とくに亜麻(リネン)の布は、当時のイギリスの“金のなるビジネス”であった奴隷に着せる服としても重要視されていた。


イギリスの商工業者たちは、イギリス東インド会社が植民地化を進めていたインドが綿花の産地であったことに着目。原料の綿花を輸入し、どうにかしてイギリスで代わりの綿布がつくれないかと思いついた。


その中心地は、マンチェスターという都市だ。



ブリテン島の大西洋側にある港町リヴァプール(18世紀から奴隷貿易で繁栄していた)の東に位置する。もともと毛織物産業が盛んだったマンチェスターで、ニーズの高まっていた軽い綿布(めんぷ)製品の「国産化」を挑戦する人々が現れる。

まず1733年、ジョン=ケイ(1704〜64年頃)という人が、「飛びひ」という道具を発明。


ヨコ糸をすばやくタテ糸に編み込ませることが可能となり、綿織物の生産が増加していった。

しかし、織物をたくさんつくろうとすると、綿糸が足りなくなる。
その結果ハーグリーヴズ(1720年頃〜78年)さんが、いっきに何本もの軸に綿糸を巻きつけ、一度にたくさんの綿糸を生産することができる「多軸紡績機」を開発。生産効率アップが可能となった。


この機械はジェニー紡績機といって、人力だった。
1764年の発明だ。


1769年になると、アークライト(1732〜92年)さんが、人力じゃなくて水の力で機械を動かす機械(水力紡績機)を開発。



さらにクロンプトン(1753〜1827年)さんはミュール紡績機を開発。
ハイクオリティな綿糸を大量生産することが可能となったのだ。


もちろんただ単に綿布をつくればいいというわけじゃない。柄やデザインを染める技術も必要だ。

また、織物の機械を人力でも水力でもない動力で動かせないかということも考えられるようになる。
その新たな動力として浮上したのが、スコットランド人のワットさん(1736〜1819年)によって発明されたスチーム・エンジン(蒸気機関)だ。


スチーム、つまり沸騰したお湯から蒸発する水蒸気が、筒の中のピストンを押し上げる“超強力な力”を利用した動力装置である。


ワットさんは、すでにニューコメンさん(1663〜1729年)が、18世紀初めに石炭の鉱山からじゃまな地下水を組み上げるためにつかっていたポンプの動力として開発されていた装置を1769年に改良。


1785年にはカートライトさん(1743〜1823年)によって、布を織る織機に応用され、「力織機」(りきしょっき;パワー=ルーム)として実用化された。

カートライトが自ら記した文章をよんでみよう。

「1784年の夏、たまたまマトロックに行った時、私は数人のマンチェスターのジェントルマンたちといっしょになったが、その時、話がアークライトの紡績機のことになった。一向の一人は、アークライトの特許がきれたら、たちまちたくさんの紡績工場がたてられ、山のように綿糸が紡がれて、とてもそれを織る人手がみつけられなくなるだろう、といった。この意見に対して私は、アークライトは次には織機の発明に知恵を向けるにちがいない、と答えた。」

じつはこのとき、アークライトの「次には織機の発明に知恵を向けるにちがいない」ということばに、マンチェスターのジェントルマンたちは、「そんなの実現不可能だ」と、みな言っていた、とカートライトは記してる。

しかしその後、織機に必要な工程から、蒸気機関で織機を動かす構造をひらめいたカートライトは、さっそく行動にうつし、「屈強な男2人の力が必要な」頑丈な織機を開発した。

「1785年4月4日、きわめて貴重な財産と思ったこの機械を、特許によって確実なものにした。」(以上、出典は江上波夫監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、108頁)

おどろくべきは、カートライトが、力織機を開発するまで、織機が動いている姿をみたこともなかったということだ。
アマチュアであったとしても、発明をし、「特許」さえ取得すれば、しっかりと権利が保障され、大金持ちになれる
そのようなモチベーションこそが、産業革命を進める上での原動力となったのだ。

***

たったの50年前には「人力の機織機」で織られていた綿布が、短期間で「蒸気機関」によって生産されるようになるという猛烈な進化を遂げたわけだ。


しかし蒸気機関を動かすには大量の石炭が必要だ。

イギリスは幸運なことに、中西部のリヴァプールからマンチェスターにかけてのエリアや、中央部のバーミンガムやシェフィールド、リーズ、ノッティンガム、南西部のブリストル、北部のニューキャッスルやスコットランドのグラスゴーやエディンバラの近くなど、いたるところで石炭が掘れた。



それを運ぶために運河が網のように整備され、その交通手段にもやがて蒸気機関が導入。


1814年にはスティーヴンソン(1781〜1848年)に「車輪」のある客車・荷車を鉄のレールの上を蒸気機関の動力で走る「蒸気機関車」を発明した。その名も「ロコモーション号」だ。


1825年に実用化されたロコモーション号の後、1830年には綿織物産業のマンチェスターと、大西洋に向かう港リヴァプールの間に旅客用の鉄道(ロケット号)が開通している。
最高時速は46.4kmだったけれど、重い荷物を大量に運搬する技術は人々を驚かせたよ。


蒸気機関は海の物流に対しても導入され、大西洋を越えたアメリカ合衆国のフルトン(1765〜1815年)が1807年に蒸気船を試作している。


こうした飛躍的な物流・旅客の拡大を「交通革命」といい、しだいに世界の様々な地域を短時間で結ぶ交通手段が整備されていくことになるよ。
「物流コスト」が下がったことで、世界各地の工業生産地間の競争(価格競争)が、しだいに激しさを増すことになっていく(もちろんイギリスの工業製品が優位に立つ形でね)。


このように、綿織物のアパレル産業からはじまった発明は、糸作り(紡績(ぼうせき))、布を織る工程(織布(しょくふ))、動力(蒸気力の開発)がからみあうように発展し、「布を織る工場」も、かつてのように小型の機械がちょっとだけ用意してあるレベルではなく、大規模な機械がいくつも並べられ、多数の賃労働者に働かせる機械制大工場へと変貌。



こうした機械の原料となる丈夫な鉄鋼をつくる技術は、すでに18世紀前半にダービー(1677〜1717年)によって発明されており、その際に用いられる蒸した石炭(コークス)が、蒸気機関だけではなく鉄鋼の生産でも大量につかわれるようになるよ。

こうした過程でイギリスは、大量の労働力を武器に高いGDPを誇っていた中国やインドを追い抜き、機械による大量生産のテクノロジーを武器に、一躍「世界の工場」の地位を獲得することになっていくんだよ。


その技術ははじめほかのヨーロッパ諸国に対してトップシークレットとされたけれど、ナポレオン戦争が1815年に終結した後、イギリスは独占していた機械の輸出を解禁。
1830年代以降、オランダ王国から独立したてのベルギー王国(1830年に独立)や、フランス王国にも「蒸気機関によって動く機械」はさらに普及していったよ。


しかし、どのような世界にも “先行者利益” というものがある。
はじめにそれを開発したイギリスの立場は盤石だ。


フランスの場合、イギリスの製品に関税をかけてシャットアウトすることで工業生産をすすめようとしたのだけれど、後で勉強するフランス革命によって自分の土地を手にした農民が、給料目当てに工場で働こうとしなかったことや、これまでの資本の積み重ねもイギリスには負けていたので、なかなかイギリスのように「ものづくり産業」によって資本を増やすことはできないままとなったんだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊