見出し画像

11.2.4 フランス第二帝政と第三共和政 世界史の教科書を最初から最後まで

1848年の二月革命によって王政が終わったフランスでは、「次はどういう国づくりをするべきか」をめぐって、国内対立が続いた。

「平等」な社会を重視するか「自由」な競争をめぐる争いの中、これらをうまくまとめたのは、あのナポレオンの甥っ子、ルイ=ナポレオンだった。

画像1

敗北したとはいえ、フランス人に夢を見させたナポレオン一族への人気は根強い。

おじさん譲りの戦略で、皇帝に即位したナポレオンは、国内のさまざまなグループの支持を変幻自在にとりつけた。この農民、資本家、労働者など、さまざまなグループの人気を総取りする政策のことを「ボナパルティズム」と呼ぶよ。

「産業化を推し進める必要がある」という強い意志を持っていたナポレオン3世は、イギリスとの間に1860年に英仏通商条約を締結。
フランスの製品を保護しているだけでは産業化は進まない。
保護貿易ではなく自由な貿易が競争を生むのだと考え、独断で結んだのだ。
このとき締結したイギリスの担当者は穀物法廃止で知られるコブデン
これによって関税を引き下げたことで、イギリス製品がフランスにドバドバ入り込むことに。
中小の企業は倒れ、競争に勝った大企業が生き残ることになった。



さらに、植民地を獲得するために、海外に積極的に派兵。
敵を外に設定することで、国内を団結させようとしたんだね。

・1853〜56年 ロシアの南下に対抗するためのクリミア戦争


・1856〜60年 中国の貿易に参入するためのイギリスの中国出兵に、フランス人宣教師の殺害事件を口実に参戦したアロー戦争

画像2


・1859年 イタリアの独立戦争に介入。このときの戦場における惨状に衝撃を受け、スイスの実業家アンリ=デュナンはのちに、敵味方関係なく負傷兵を手当するために国際赤十字を設立する。


・1858〜62年 ベトナムの阮朝(げんちょう)を植民地化するための戦争

画像3




こうした戦争の他にも、地中海からインド洋に船に乗ったまま通過することができる「スエズ運河」の建設プロジェクトも開始。レセップス(1805〜1894年)が提案し、エジプト国王にも資本金を出させている。


「経済力が国の命運を分ける」と認識していたナポレオン3世は、1855年(ロンドン万博の水晶宮を意識した「産業宮」)と

画像4

1867年にはパリで万国博覧会を開いているよ。

画像5

1867年パリ万博の会場

画像6

幕末の日本からも参加している



しかし、アメリカで南北戦争(1861〜1865年)が起きていたスキをねらったメキシコの侵略が1867年に失敗すると、状況は一変する。

画像8


東方で「ドイツ統一」のためのプロジェクトを進めていたプロイセン王国が1870年にフランスに対して開戦。
準備不足で負けが重なり、あっという間にナポレオン3世は捕虜になってしまった。

画像7

画像9

プロイセンの宰相ビスマルクに謁見する、捕虜になったナポレオン3世


トップが捕虜になったのだから、もうお終い。
パリで蜂起が起こり、ナポレオン3世の帝政は崩壊する。


代わって、1870年9月に国を防衛するための臨時の国防政府が成立したものの、混乱は収まらなかった。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊