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16.1.3 ユーゴスラヴィア連邦の解体 世界史の教科書を最初から最後まで

冷戦が終わり、ヨーロッパに平和が訪れると人々が期待した矢先、ヨーロッパを舞台に内戦が勃発。

その震源地は、第一次世界大戦の震源地と同じ、バルカン半島だった。


バルカン半島の小国は、小国どうしの争いが大戦を誘発したとの反省から、第一次世界大戦後には「セルヴ=クロアート=スロヴェーン王国(のちユーゴスラヴィアと改称)」としてまとまって統一した。
しかし、セルビアの力関係は強く、統合はいびつだった。

そして、第二次世界大戦中にはドイツとソ連による占領を受けることとなる。

戦後のバルカン半島は、今度はアメリカとソ連の対立の舞台となり、ギリシアとトルコ(バルカン半島に一部領土を持つ)は、アメリカ陣営に組み込まれ、ルーマニアとブルガリアはロシア陣営に立つこととなった。
そんな中、ユーゴスラヴィアはソ連・アメリカとの距離を置く独自外交を展開し、ある意味、ソ連側とアメリカ側の「クッション」としての機能を果たしたのだった。

しかし“七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家”を持つともいわれるユーゴスラヴィア連邦の内部構造は複雑だ。

枢軸国との武装闘争を率いた独立の父〈チトー〉(ティトー、1892~1980)が死去すると求心力が失われ、連邦の結束は揺らいでいく。

)内戦のルーツと言われているのが、1989年に連邦政府首相に就任した、クロアチア出身のアンテ・マルコヴィチによる経済改革だ。彼はGDPの5%に該当する財政削減を条件に、アメリカ政府の圧力とIMFの指導によって経済の自由化政策を次々に断行。「ショック療法」的な市場経済化によって、ユーゴスラヴィアをグローバルな資本主義経済に直結させようとする改革だったのだが、長年の社会主義体制で築き上げられた社会の制度を次々に破壊し、経済はたいへんな混乱をもたらした。改革自体は好意的に受け止められた側面があったものの、連邦を構成する各共和国で複数政党選挙がおこなわれると、しだいに各共和国は「民族」色を強めるとともに、連邦政府から距離をとるようになっていくのである。

スロヴェニア、クロアチア

先手を切ったのはイタリアに接するスロヴェニア。
1991年6月にスロヴェニアが10日間の戦争(十日間戦争)でユーゴスラヴィアから独立したのだ。


1991年6月には、スロヴェニアに接するクロアチアも独立宣言。クロアチア内戦が勃発し、1995年まで続くが、独立を達成した。


スロヴェニアもクロアチアともに、西ヨーロッパとの歴史的つながりが深い。
ローマ=カトリック教会を信仰する国民的が多く、アルファベットもラテン文字が使用されている。ただクロアチア語は、キリル文字系のセルビア語とほとんど変わらない言葉。キリスト教の宗派で用いられる文字の違いが、現代まで受け継がれているのだ。


マケドニア

一方、1991年9月にはギリシャの北方にあるマケドニアもマケドニア共和国として独立を宣言。大きな紛争におちいることはなかった(なお、2001年にマケドニアでは、後で説明するコソヴォ紛争の影響を受けて国内北部のアルバニア人が蜂起している)。


)なおマケドニアは国際連合加盟をめぐり「マケドニア」という国名がギリシャによる反発を生み、「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という国名での登録となった。「マケドニア」の名称は、かつて〈フィリッポス2世〉(前382~前336)とその子〈アレクサンドロス3世(大王)〉(前356~前323)のマケドニア王国による支配の歴史を思い起こさせ、ギリシャ政府が「マケドニアがギリシャ内の領土を主張するのではないか」と恐れたのだ。この問題は2019年に解決している。


内戦が激化していくきっかけとなったのは、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ地方だ。
先ほどのクロアチア(西ヨーロッパ文化圏とのつながりが深くカトリック教徒が多い)と、セルビア(東ヨーロッパ文化圏とのつながりが深く、ギリシア正教徒が多い)に挟まれた位置にあるボスニア=ヘルツェゴヴィナは、かつてオスマン帝国の支配下で改宗が進んだことからイスラーム教徒の存在感も大きい。

そんなボスニア=ヘルツェゴヴィナが1992年3月に独立を宣言すると、新たな国をどの民族・宗教のアイデンティティを持つ人が運営していくかをめぐり対立が勃発。
内戦は深刻化し、イスラーム教徒とクロアチア人とセルビア人たちの対立が政治的に生み出され、三つ巴(どもえ)の構図に発展した(ボスニア内戦、1992年4月~1995年12月)。


対立構図が生まれる過程でマス=メディアを通した広告の果たした役割が大きいことが指摘されており、国際社会においてセルビア=悪玉という構図が支持された背景にはアメリカ合衆国の企業の関与があったといわれる。



元・サッカー日本代表監督でドイツ系の〈オシム〉(1941~)は1992年のセルビアの侵攻以前に国外に移動していたが、妻子はサライェヴォに残され、1994年に再会するまで別離を余儀なくされた。
1995年7月にはスレブレニツァでセルビア人が8000人のムスリムを虐殺する事件も起きている
同年12月にはアメリカ合衆国の仲介でデイトン合意(和平合意)が結ばれることになった。背後には、バルカン半島をめぐるロシアとアメリカ合衆国の対立も見え隠れしている。


)独立後のボスニア=ヘルツェゴヴィナでは、民族紛争中に崩落したネレトヴァ川のイスラーム教徒地区とクロアチア人地区を結ぶ橋が修復され、2005年に「モスタル旧市街の石橋と周辺」として世界文化遺産(負の遺産)」に登録され“和解の象徴”となっている。


コソヴォ

アルバニア系住民の多いコソヴォは1991年に独立宣言を出したが、セルビアが独立を認めずコソヴォ紛争に発展。


1999年にはNATO軍が国連安全保障理事会の決議のないままセルビアを空爆する事態となり、ユーゴスラヴィア側に立つロシア・中華人民共和国との対立を生んだ。
コソヴォ共和国は2008年に独立宣言したが、ロシア・中国などは承認せず、セルビアの一部とみなしている。

バルカン半島は21世紀になっても、大国の思惑渦巻く場であり続けているのが実情だ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊