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3.3.2 唐代の制度と文化②文化 世界史の教科書を最初から最後まで

唐の文化っていうと、

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「中国っぽい」文化を思い浮かべるかもしれないけれど、実はかなり国際色豊かな文化だったんだよ。
特にイラン文化の影響を強く受けている。


それも当然。唐の領域は、あとちょっとでイラン高原に到達しそうな勢いだったからね。

首都の長安にはイラン人が多数居住し、イラン人の宗教であるゾロアスター教や、キリスト教の異端であるネストリウス教、それにイランでは禁じられたマニ教という宗教のお寺も、仏教と道教のお寺に交じって建てられた。

それぞれゾロアスター教は祆教(けんきょう)、ネストリウス教は景教(けいきょう)、マニ教は摩尼教(まにきょう)のように呼ばれた。

ゾロアスター教のまつる善神をアフラ=マズダという。
中国にまで伝わりユーラシア大陸をまたにかけたアフラ=マズダにあやかって、自動車メーカーのマツダは英語名をMazda(マズダ)としているそうだ。

一方、7世紀前半(今から1400年ほど前)に、アラビア半島発祥のイスラーム教がイラン高原にまで広がると、その影響は唐にも及ぶ。

まずイランのササン朝がイスラーム教徒によって滅ぼされたため、多くのイラン系の人々が長安に移住したのだ。

特に、アム川上流のソグディアナ地方を拠点に、ユーラシア大陸をまたにかけた国際ビジネスに従事していた”商業民族” ソグド人は、ますます中国商人との結びつきを強めていくこととなる。

”イラン人の移動”によって、長安のイラン色は強まり、ポロという乗馬と球技を組合せたスポーツや、

イランのダンス(胡旋舞)がもてはやされた。


いわゆる世界三大美女に数えられる楊貴妃(ようきひ、719~756)も、イラン式ダンスで皇帝を魅了したという。

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イラン人は、当時流行していた鮮やかな焼き物(唐三彩(とうさんさい;タンサンツァイ))のテーマにも登場している。

アラブ人やイラン人のイスラーム教徒の商人(ムスリム商人)は船に乗って、中国南部の港町の広州(こうしゅう;ゴワンジョウ)や、長江下流で大運河の交差する揚州(ようしゅう;ヤンジョウ)にやって来たのだ。


外国人であっても、才能があれば見込まれて役人に取り立てられることもあった。
例えば、ベトナムで安南節度使という高いランクにまで出世した、日本人留学生の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が良い例だね。

このように、唐の都の長安は「遣唐使」として渡った日本人の留学生をはじめ、

周辺の様々な民族がごった返すインターナショナルな都市だったんだ。


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そんな長安を出発し、お経の原典を求めてインドに旅したお坊さんには、三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう;シュェンヅァン)や、義浄(ぎじょう;イージン)がいる。



すでに南北朝時代には、各地に白蓮社のような信者グループや研究機関もできて、道教との対立も勃発するようになっていた。
ただ、彼らの研究していたお経というのは、クマラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳した漢訳のものだった。彼の翻訳はとってもわかりやすく、いくつもの研究グループ(学派)が生まれ、やがて特定のお経に書いてあることが「ブッダの一番言いたかったことなんだ!」と主張するグループ(宗)へと発展。たがいに競い合うようになっていく(教相判釈)。

例えば智顗(ちぎ;ヂーイー)というお坊さんは天台宗の開祖。「法華経」(ほけきょう)を重んじた。天台宗は日本の仏教に大きな影響を与えることになる。あの盲目のお坊さん鑑真(がんじん;ジェンヂェン)もこの天台宗を学んだ人だよ。

杜順(とじゅん;トゥーシュン)さんの華厳宗。「華厳経」(けごんきょう;ホァイェンジン)を重んじた。
ほかにも、戒律を決めようとした律宗(りっしゅう)や、「大切な教えはお経の文字にはない!心で伝えるもんや」(不立文字、以心伝心)とする菩提達磨(ボーディダルマ)による禅宗、さらに阿弥陀仏にすがって極楽行きをひたすら願う浄土教が生まれている。

しかし、研究が進むにつれ中国独特の解釈も増えていき、「原典には何が書かれていたか」が問題となっていった。
玄奘や義浄がインドに向かったのも、それが動機だ。

彼らが持ち帰ったインドのお経は、その後の仏教に大きな影響を与えたよ。玄奘自身は、「唯識」という概念を研究する哲学的な法相宗(ほっそうしゅう)という新しい宗派を開いているね。日本では奈良の薬師寺が有名だ。


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また、国公認の教えとして認められ、科挙の試験科目となった儒教では、教えを統一するために訓詁学(字句の解釈を重んじる学派)が重視される。
孔頴達(くようだつ、574~648)によって、『五経正義』(ごきょうせいぎ)という儒教の"公式解説ガイドブック"も編纂された。

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しかし、科挙の試験科目となったのは「五経」の暗記だけではない。
お題をもとに、当意即妙に詩を読むテクニックも重んじられたんだ。教養をベースに、頭の回転とセンスが問われるわけである。
当時たくさんIPPONをとっていた詩人として、”詩の仙人(詩仙)” 李白(701~762)や、”詩の神様(詩聖)” 杜甫(とほ、712~770)がいる。

白居易(はくきょい、772~846)の『長恨歌』は、運命に翻弄された皇帝の玄宗と楊貴妃との間の悲しいラブストーリーをうたったもの。ファンの多い一品だ。

彼らの作品は「唐詩」(とうし)と呼ばれるけど、学校では中国の詩ということで「漢詩」としてまとめられることが多いね。
「詩」といっても、米津玄師のようにメロディーに合わせるための「詞」ではない。メロディーはついていない点に注意しよう。


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さて、これだけ”巨匠”が次々に現れ、金字塔が打ち立てられた。
でも、基本形が定まったら定まったで、だんだんと面白みのないものになってしまうのはアートや文学の世界の常。

現代風に言えば、コント55号・ドリフ→漫才ブーム・ひょうきん族→お笑いスター誕生→ボキャブラ天国→M-1・エンタの神様・オンエアバトル→レッドカーペット→お笑い第7世代...
固定されたフォーマットやコンテンツを、真似したりアレンジしたりすることで受け継ぎつつも、新しい価値観や手法打ち破る。
「わかるわ~~」と「その手があったか!」のぶつかり合いによって、文化というものは発展させていくのだ。


というわけで、唐中期(766年~835年)になると、しだいに形式化していった文化にドロップキックを浴びせるようなニューカマーが登場。
じじくさい貴族趣味をやめ、個性と感情あふれる漢以前の文化を復活させよという動きが訪れる。

そのような流れの中、詩ではなく古典的な文章を復活させようとしたのが韓愈(かんゆ;ハンイー、768~824)や柳宗元(りゅうそうげん;リウヅォンユェン、773~819)の古文復興運動だ。

また、書の世界では顔真卿(がんしんけい;イェンヂェンチン、709~785頃)の、それまでの常識を打ち破るような力強い書体、画の世界では呉道玄(ごどうげん;ウータオシュェン、8世紀頃)の山水画が代表例だよ。



初めは拒否反応を起こした貴族たちも、「これが最先端のアートか」としだいに彼らの新風を受け入れていった。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊