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14.3.8 アフリカの民族運動 世界史の教科書を最初から最後まで

アフリカ大陸は、20世紀の初頭までにごく一部をのぞくすべてのエリアが植民地化・保護国化の対象となった。




そりゃアフリカの人々が、何も声をあげなかったわけじゃない。
19世紀から各地で抵抗運動が組織され、あちこちで火の手があがった。



しかし、ヨーロッパ諸国の統治方法は巧みだ。

従来は意識化されていなかったような「部族」を設定し、特定の「部族」を率いる指導者を「首長」に認定。
「首長」に支配の片棒をかつがせたのだ。

また、ヨーロッパの文化 イコール 「文明」という意識を振りかざし、ヨーロッパの支配に協力する「部族」を「文明」的な部族として同化の対象とする一方、反発する「部族」は「野蛮」な部族とされた。



こうして生み出された「部族」対立は、のちに勃発するアフリカ各地の内戦のルーツとなっていくよ。



ヨーロッパ諸国がアフリカを欲しがったのは、交通・軍事の拠点としての必要性のほか、ピーナッツや熱帯性の農産物のプランテーション農園のビジネス、ダイヤモンドや金といった鉱物の採掘の生み出す利益がもたらされたからだ。


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20世紀末のアフリカの主要な鉄道路線が、内陸から沿岸部にかけて伸び、地域を超えるネットワークが形成されていないのには、こうした鉄道が植民地時代に内陸の農産物・鉱産物を港に運ぶ目的でつくられたことが影響している。



20世紀にはいると、ヨーロッパ式の教育を受けたアフリカの人々の中から、「アフリカ人だから、黒人だからといって支配・差別するのはおかしい」という言論も盛んになっていく。
1912年につくられたアフリカ民族会議(略称はANC)はその一例だ。


第一次世界大戦(1914〜18年)が終わると、世界中で「ヨーロッパ諸国・アメリカ・日本の植民地支配に抵抗しよう」という民族運動のムーブメントはアフリカにも伝わり、独立や自治をめざすさまざまな組織がつくられていった。



さらに運動の舞台は、アフリカ大陸の枠を飛び越えるようになる。

15世紀以降、ヨーロッパ諸国によってアメリカ大陸に連行されたアフリカ系住民の子孫たちも、声をあげるようになったのだ。



主に、アメリカ合衆国とカリブ海エリアで、ヨーロッパ式の教育を身につけたアフリカ系の知識人が、ヨーロッパやアメリカ合衆国を舞台に、「アフリカの独立をめざす運動」を展開。

セネガル出身でパリで活動したサンゴール(のちの初代セネガル大統領)


カリブ海のマルティニーク島出身でパリで活動したエメ・セゼール


1900年にはパン=アフリカ会議が開催され、ヨーロッパ諸国による植民地化と人種差別に対する反対がさけばれた。


第一次世界大戦が終わった後の1919年に開かれたパン=アフリカ会議では、アフリカの植民地が一歩一歩、段階的に自治を認められるようにがんばっていこうということが決議された。

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アフリカ大陸内外の2つの運動は、第二次世界大戦が終わるとがったい。
しだいにアフリカの解放だけでなく「統一」をめざす運動に発展することとなる。


ただ、「自治」や「独立」を目指すといっても、その指導者の多くはヨーロッパで学問を修めた知識人たち。
経済的にも文化的にも、ヨーロッパ諸国との結びつきを完全に断ち切るのは難しく、逆に「ヨーロッパとの結びつきを維持しよう」という意見も少なくなかった。




なお、アフリカ諸国の多くがヨーロッパ諸国から独立できるのは、1960年代になってからのこととなる。




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