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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑭ 800年~1200年の世界

さて、「【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ」をお読みいただきありがとうございます。世界史を26ピースに「輪切り」し、シンプルな図解に落とし込みながら、難しい用語や細かな人名などを省き、やさしい対話形式でお伝えしていくシリーズです。
今回は14番目の「輪切り」である800年~1200年です。先日残念ながら火災の被害に遭ったフランスはパリのノートルダム大聖堂が着工されたのも、この時期にあたります。
各地で個性的な文化の花開く時代を、地球全体を視野に収めながら読み解いていきましょう。

◇この時期の中国の建築 この時代の中国に建てられたお寺の建築(华林寺大殿)。なじみ深く感じるのは、日本の建築様式が中国の影響を強く受けたためです。

  ◇この時期のヨーロッパ(西ヨーロッパ)の建築(ノートルダム大聖堂) この時期終わりに着工が始まる。天にそびえたつ尖った塔が、当時の気風をよくあらわす(注:ゴシック様式

◇この時期の南インドの建築ブリハディーシュヴァラ寺院) ヒンドゥー朝の寺院である。

* * *

 

◆800年~1200年の世界

いったんバラバラになった世界が再びまとまる時代②

―前の時代から、広い地域をまたぐ大きな“まとまり”が各地で生まれ、それに基づく多数の人間の“結束”が強まっていったよね。



ヨーロッパはキリスト教、北アフリカから西アジアはイスラム教、インドから東南アジアはヒンドゥー教、中国を中心とする東アジアは儒教・仏教・道教(注:三教、アメリカではマヤやメキシコの神々というような色分けでしたね。

―そうそう。で、この時代にはそういった“まとまり”の中でも各地でいろんな“個性”が生まれていく時代なんだ。

どんなふうに?

―たとえば、ヨーロッパではキリスト教の考え方が正義とされたわけだけど、各地の支配者によって細かい部分には差が目立つようになっているよ。


広い範囲を一人の支配者がコントロールするのは、やっぱり難しいってことですね。

―スタートアップ当初は威勢が良くても、その勢いをキープするのはなかなか大変だ。
どんな組織にも「伝統を守ろう」とする人だけでなく「実情にあわせて新しいことにトライしよう」という人がいるもの。
画一的」なやり方は長続きしないものだ。


数えられるくらいの人ならまだしも、数万人・数十万人もの人たちを納得させるのは難しそうです。

―言葉が同じならまだしも、言葉が通じない人どうしじゃなおさらだよね。だからこの時代の地図を見ると、魚の鱗みたいにたくさんの国がボコボコ出現しているでしょ(820年の世界(wikicommonsより))。

特に北緯20度~北緯50度あたりの中くらいの緯度にほとんどの国が分布していることがわかる。


ほんとだ。

―でも逆にいえば、狭い範囲だけでも十分やっていけるようになっていたってことでもあるね。
この時代は世界的に気候が暖かかった(注:中世温暖期)といわれていて、その分人々の交流も盛んになった。人と人の出会いが増えれば増えるほど、さまざまな人の共同作業を通じてテクノロジーやアイディアはぐんぐん発達するよね。その結果各地で開発がすすんだ時代でもあるんだよ。

なるほど。

―また、定住民だけでなく遊牧民の活動も盛んだ。この時代には「トルコ系の言葉」を話す遊牧民がユーラシア大陸の広い範囲に移動して、定住民の世界で国をつくっている。遊牧民と定住民のコラボレーション国家が形を整えていくのも、この時代の特徴だ(注:ユーラシア型遊牧国家)。こうした国々がどんなところに生まれたか地図を見てみると、だいたい乾燥遊牧エリアと農耕定住エリアにまたがる地域にあることがわかるよ。



◆800年~1200年のアメリカ

―では、アメリカから見ていこう。気候が温暖になっていったこの時代。北アメリカの北部の氷におおわれた世界で、イヌぞりを利用しクジラ猟して暮らすグループが、アラスカ方面からグリーンランド方面へと勢力範囲を広げた。温暖化にともない、クジラ(注:ヒゲクジラ)を追って移動したのだと考えられている(上の地図の矢印)。現在にもこの地域に暮らすイヌイットという人々のご先祖だ(注:テューレ・イヌイット)。



彼らとほかの地域との交流は?

―気候がだいぶ暖かかったおかげで、ヨーロッパからはヴァイキングというグループの一派が、船に乗って北アメリカにたどり着いているよ。


逆に言えば、それまではヨーロッパから北アメリカへは人の移動はなかったんですね?

―おそらくね。北アメリカにヴァイキングの生活した跡(注:ランス・オ・メドー)が残っているのと、ヴァイキングの記した歴史書の記述からアメリカに移住していた事実がわかるんだ。


アメリカを初めに発見したヨーロッパ人はコロンブスっていう人だって習いましたけど…。


―実はヴァイキングのほうが早かったってわけだね。


―さて、北アメリカの乾燥地帯ではこのころ都市が大規模になって、巨大な建造物もつくられている。

東のほうにある北アメリカ最大の川(注:ミシシッピ川)の流域でも、支配者のお墓のサイズが巨大化している。支配者のパワーが強くなった証拠だ。トウモロコシ栽培が本格化したのもこの時期のころだ。


北アメリカ大陸の南の方にあるマヤ文明は、伝統的な都市が見捨てられて、中心が移動していましたね。

―そうだったね。
マヤ文明の中心は従来の中心地よりもちょっと北(注:マヤパンなど)に移動している。


外から別の民族の侵入(注:メキシコ高原のトルテカ人)があったのかもしれないともいわれているけど、記録が少ないのでなんともいえない。

その説をとると、メキシコ高原で何かあったんですかねえ。
―たしかにメキシコの高原地帯ではいくつもの国が建ちならび、“戦国時代”のようになっていた。信仰されていた神々も、マヤ文明の神々とちょっと異なる。この中から次の時代のアステカという大きな国が生まれることになるんだよ。


南アメリカはどうなっていますか?

―いままでの歴史の中では最も広い範囲を支配する国が出現しているね(注:ワリ王国ティワナク王国)。どれもアンデス山脈のあたりの国で、標高の違いを利用して“海の幸”(注:カタクチイワシ、貝)から“山の幸”(注:ジャガイモ、トウモロコシ、リャマやアルパカ)までバラエティ豊かな特産物をコントロールしていたようだ。高い技術を駆使してアクセサリーや建物がつくられていたけど、鉄や車はつくられていない。そこがユーラシア大陸やアフリカ大陸との大きな違いだ。


◆800年~1200年のオセアニア

―この時期のオセアニアでは大きな建物がつくられ、島々を支配するリーダーも現れる。農作物の栽培に適した火山島では強力な支配者も現れているけど、南の島の土地や資源には限界がある。ユーラシア大陸ほどの強いパワーを持つ支配者はそうそう出てこない。ちなみにあの有名なモアイ像が作られ始めるのもこの時代のことだ。



◆800年~1200年の中央ユーラシア

―この時代の草原地帯の主役は「トルコ系の言葉」を話す遊牧民たちだ。

えっ、トルコってもっと別のところにありませんか?

―今はね。でも、トルコ系の人たちは今のトルコという国の中にしかいないっていうわけではないよ。
 日本人が思っているよりももっと、トルコ系の人たちの活動範囲はとっても広いんだ。
 もともとはモンゴル高原のあたりで活動していたんだけれども、しだいに西へ西へと移動。この時期には、各地で定住民エリアを巻き込む国をつくりはじめるんだ。


現在のトルコ系の言語の分布図Thesaurus Indogermanischer Text- und Sprachmaterialienより)


でも、どうやって?

―彼らは、西のほうでは広範囲で“正義”とされていたイスラーム教を柔軟に受け入れた。
 イスラーム教を「共通項」とすることで、ユーラシア大陸で長い歴史を持つ「イラン系の言葉」を話す人々とつながり合うことができるようになったわけだ。


なるほど。宗教が「接着剤」になったわけですか。

―また、トルコ系の遊牧民には高い軍事的な才能がある。これを生かして各地の王様の下に「雇われ兵士」(注:マムルーク)として仕えたんだ。スキをねらって王様を倒し、国を乗っ取る者さえ出てくるようになるよ(注:次の時代にインドで建国される「奴隷」(マムルーク)王朝)。


 インドの北のほうの高原地帯でも、チベット人という民族が広い範囲を仏教的な世界観で統一している(注:吐蕃(とばん))。彼らは「トルコ系の言葉」を話す遊牧民とともに中国の皇帝の国(注:)に対抗した。


そもそも中国(注:唐)の皇帝も、ルーツは遊牧民(注:鮮卑(せんぴ))でしたよね。

―そうそう。遊牧民と農耕民の文化は中国では「天下」の考え方や儒教・仏教・道教を「共通項」として結びついていく。

 この時期の後半になると、かつて遊牧民エリアにまで勢力を広げていた国(注:唐)が滅び、遊牧民がらみの軍人政権(注:五代)や漢人などの地方政権(注:十国)が乱立する。その後、 大河流域に都を置く国(注:宋)が建国され、中国はなんとか統一された。

五代十国の諸国の配置世界の歴史まっぷより)


 混乱の最中、北方で遊牧や狩猟をして生活している人たち(注:タングート人キタイ人ジュシェン人)は豊かな農耕エリアや沿岸の港湾に進出しようと、中国の皇帝を名乗るようなり、中国の大河流域に都を置く漢人の皇帝を困らせるようになるんだ。


◆800年~1200年のアジア


◇800年~1200年の東アジア


―この時代には、黄河流域を中心に広いエリアを支配していた大きな国(注:唐(とう))の支配が弱まる。各地で開発が進み、唐のいうことなんて聞かなくてもやっていける有力者が現れるようになったんだ。


国内が分裂すると、周りの民族にとってはチャンスですね。

―そうだね。
 東アジアでは、中国の皇帝が陸でも海でも「警察官」みたいな役割を果たしていたからね。中国の皇帝の弱体化は、東アジアの混乱の種だ。


結局どうなっちゃうんですか?

―唐という国が滅ぶと、各地の有力者が自分たちの国を建てて栄える。
 黄河流域では遊牧民の軍人(注:突厥(とっけつ))が介入し「皇帝」を名乗る国が現れえう。

 支配層には遊牧民出身者も参加していたんだ。


 また、南の方では地方ごとに、北の皇帝とは独立した国が多数建てられて、なかには「皇帝」を名乗る国もあった。



バラバラですね…

―結局、北の政権側の軍人(注:趙匡胤(ちょうきょういん))が「皇帝」に推挙され混乱をおさめ、宋という国を建てることになった。その後の宋は南の方も含めて統一。しかし、東アジア各地の民族たちは、以前よりも各自の民族文化を尊重する行動をとるようになっていた。

そりゃそうですよね。こんなゴタゴタ続きじゃ…。

―宋は、中国の歴代皇帝の誇る「過去の栄光」にすがろうとするけど、現実の領土はきわめて狭い。しかも、北からは遊牧民が貿易や土地を求めて頻繁に挑発してくる状況。遊牧民の支配者たちも「自分こそが中国の皇帝だ」と主張していたものだから、外交問題も危機的だ。


たとえ中国の南部をコントロール下に置いたとしても、他にまだ「皇帝」を名乗る国があるんじゃ、「統一」もくそもないじゃないですか。

―そうなんだよ。

 でも中国にだって強みはある。

 長江流域ではたくさんお米がとれるし、巨大な港町がいくつもあって貿易がさかんだ。


経済力ですね!

―そう、それを武器に、「欲しいものならあげるから、お願いだから手は出さないでくれ」と、周りの民族にお願いをしたわけだ。


かなり下手(したて)に出ていますねえ。

―「平和を金で買う」という現実的な政策(注:和平派。主戦派と対立した)だ。これにより無駄な戦争を回避したのだ。
 ベトナム、朝鮮、日本などの支配者も、この時代には中国とは今までよりも“距離”をとって活動ができるようになっているよ。



◇800年~1200年のアジア  東南アジア

―大きな川のある場所では、有力者が中国の進出をブロックする動きも起きている。特に、中国が支配のために軍隊を派遣していたベトナム北部では、土地の有力者が中国を追い出すことに成功。
 いろんな面で中国文化の影響を受けつつも、独自の国を建てることに成功する(注:李朝)。

 一方、前の時期に西アジアでイスラーム教徒によって広い国(注:ウマイヤ朝、アッバース朝)が生まれると、ビジネスマンが船でひっきりなしに訪れるようになっている。

 東南アジアに行けば特産品のスパイスが、中国製のシルクや食器といった入手困難な商品が手に入るからだ。


南の島々の港町も栄えていますか?

―現在のインドネシアには巨大な仏教モニュメント(注:ボロブドゥール)が建設された。おそらく東南アジア一帯の貿易を一挙ににぎった王様(注:シャイレンドラ朝)が、自分のパワーを誇って尊敬を集めるために仏教の神秘性を利用したのだろう。

 これだけ巨大なモニュメントがつくられた背景には、この時期に農業が非常にさかんになったことがある。インドネシアのあたりには大きな火山がたくさんあって雨も多いので、米づくりに適していたのだ。内陸で広い田んぼを支配下においておけば、港町のホテルに船乗りやビジネスマンがたくさん滞在しても、十分な量のお米をレストランに提供できるわけだ。


港町だけではなく、お米の産地も支配下に置くことで、支配者はさらにリッチになっていったんですね。

―そうだよ。通行料や入港料をとり、貿易をコントロールして栄えたわけだね。
安全に貿易してもらうためには積荷を狙う「海賊」退治が欠かせない。重要な海上ルートをめぐって、各地の支配者はしのぎを削ったんだ。

 いくつもの港町が力をあわせて同盟することもある。
スマトラ島という大きな島の国々(注:三仏斉(さんぶっせい))が、中国との貿易をスムーズに進めるため、皇帝の「お墨付き」を得るために共同して使いを送ることもあった。


当時の東南アジアは貿易の「先進地帯」だったんですねえ。

―位置的にも中国とインドを挟むところにあるからね。
交易は、生産地と生産地が「交わるところ」で発達する。行き来するのが困難だけれども、落ち合うのに都合のいい「中間地点」が選ばれるんだ。
そういう意味で東南アジアは、ユーラシア大陸の東にある中国と、西のほうの世界を結ぶ役割を果たしたといえるね。


南アジアとのつながりはなかったんですか?

― “お隣さん”の南アジアの沿岸地帯にも、貿易で栄える国がたくさんあった。
国をまとめるための「共通項」はヒンドゥー教だ。各国の支配者はせっせと農地を増やし、貿易の利益をもとに豪華な寺院建てた。ある国(注:チョーラ朝)の王様は、この時期に東南アジアの王様にもコントロールを及ぼそうと軍隊を送っているよ。

 それに対抗した東南アジアの強国がカンボジアの王国だ。この国の王様は西はベトナム、東はタイのほうに進出し、大きな川の流れをコントロールして巨大なため池を建設し、大量の米を生産することのできる大都市をつくった。そのど真ん中に建設した巨大なお寺がアンコールワットだ。


 西のほうではビルマでもビルマ人の王様が、お米の生産と貿易をコントロールし、仏教を保護することでパワーと尊敬を集めているよ(注:パガン朝)。


◇800年~1200年のアジア  南アジア

―さて、この時期の南アジアには広い範囲を統一する国は現れず、各地で港町や畑を支配した国々が同盟・対抗しながら発展している。



「バラバラ」って、必ずしも「めちゃくちゃ」っていう意味ではないんですね。

―そうだよ。「バラバラ」でもやっていけるほど、開発が進んでいるということでもあるからね。それぞれの地域の個性も磨かれていくよ。この時代にはヒンドゥー教の聖地巡礼がブームとなって、インド各地で人の移動も盛んになる。


北のほうはどんな感じになっていますか?

―やはり、仏教やヒンドゥー教を保護する支配者が領土をめぐって競っているよ。
 そんな中、西のほうからはイスラーム教を旗印にインドの人々を支配しようとした軍人の国(注:ガズナ朝、ゴール朝)が進出してきたから大騒ぎだ。
 今でもインドにイスラーム教徒が暮らしているのは、これがルーツなんだよ。



◇800年~1200年のアジア  西アジア

―西アジアでは「イスラーム教徒」という共通項の下、各地で支配者が個別に活躍するようになっている。


イスラーム教には「まとめ役」はいなかったんですか?

―開祖の「代理人」であるカリフというアラブ人の「まとめ役」がいたんだけど、イラン人やトルコ人にとっては「自分たちとは違う民族」の人間という思いもある。もちろんイスラーム教では「民族の壁」なんてない、「みんなおんなじ人間だ」っていう考えがあるわけだけど、言語の壁や心理的な抵抗はなかなかぬぐえないものだ。

 とくに草原地帯からは「トルコ系の言葉」を話す遊牧民が移動してきて、「イスラーム教を守るから言うことを聞け!」とあちこちに国を建てるようになっていた。
でも彼らは定住民を支配することには慣れていなかったから、書類仕事は「イラン系の人々」に任せた。


イスラーム教という「共通項」に合わせて、いろんなバックグラウンドをもつ人たちが協力をしていたわけですね。

―そういうこと。
アラブ人中心の「カリフ」とは別に、イスラーム教を「共通項」にまとまる動きが自由に生まれていったわけだ。初めの頃は、「カリフ」を建てていた各地の民族の中には、みずから「カリフ」を名乗ってしまう民族も現れるようになるよ。


ここでもやはり宗教がさまざまな民族の「接着剤」となっていますね。

―別々の場所でみんながてんでバラバラのことをやっているよりも、「共通点」をもとにまとまったほうが、いろんな分野でコラボレーションが進みやすいよね。だから、学問も芸術もどんどん発展していくんだ。
 西アジアにはもともと昔のギリシャ人やローマ人の研究所がたくさん残されていた(注:外来の学問イスラーム科学)。彼らは躊躇(ちゅうちょ)することなく先人のハイレベルな研究を下敷きにしたので、ゼロから研究する手間も省けたわけだ。


なるほど。ギリシャやローマというと“お隣さん”のヨーロッパが受け継いでいるイメージがありますが…。

―逆だね。当時のヨーロッパの人たちはイスラーム教の人たちよりも「頭が固い」。キリスト教の考え方に縛られるあまり、ギリシャやローマの時代の自由なものの考え方をおおっぴらに研究することが難しかったんだ。


なんだか意地の張り合いというか…。

―そんな中、ヨーロッパの人たちは人口拡大に対応して、イスラーム教徒の暮らす地方に「十字軍」と呼ばれる大遠征を始めていた。そこでヨーロッパ人が出会ったのは、びっくりするほどハイレベルなイスラーム教徒たちの研究成果だった。

 イスラーム教徒たちのレビューの★の多さを思い知ったヨーロッパの学者たちも、イスラーム教徒の本をせっせと翻訳し始めていく。これがのちのヨーロッパの科学の発展につながっていくんだよ。

ヨーロッパの科学の発展はイスラーム教徒のおかげだったんですね!



◆800年~1200年のアフリカ

―東アフリカでは、イスラーム教徒が貿易をしに南へ下がってきている。インド洋の沿 岸には貿易商人の集まる大都市として発展しているよ。


アフリカの中央部から東や南に移動していたバントゥー系の人たちはどんな感じですか?


―よく覚えているね。日本人からみると「黒人だ。」って単純な判断になっちゃうけど、実はいろんな民族に分かれて、アフリカの東や南に広がっているよ。
 牛などをサバンナの草原地帯で放牧して、もともといた狩りや採集をして暮らしていた人々を追いやりながら、南へ南へ移動している。

 彼らは「眠り病」という怖い病気を広めるハエが分布しない安全な所を探して移動していった結果、アフリカの南東の高原地帯は住むのに都合がよいということで、大きな町ができていったよ。金や象牙がとれるから、これを川の下流にある港町に輸出してリッチになる王様も現れたんだ。


西のアフリカはどんな感じですか? まだサハラ砂漠を超えたゴールド(金)と塩の貿易はやっていますか?

―よく覚えているね。
 ラクダをつかった塩金貿易は、サハラ砂漠を流れる“一本川”(注:ニジェール川)流域の王様がコントロール下に置いていたんだけど、この時期にサハラ砂漠の北にいた遊牧民(注:ベルベル人)がの一派が攻めてきて、貿易ルートを支配下に置いたんだ。これ以降は、サハラ砂漠の南のほうにまでイスラーム教が広がっていくよ。


エジプトはどうですか?

―イスラーム教の多数派にとってのリーダー的存在を「カリフ」といったよね。開祖の「代理人」という意味で、イラクにお住まいだった。

 でもこの時期にはカリフがイスラーム教徒からもナメられるようになっていて、エジプト(注:ファーティマ朝)では「われこそがカリフだ」と、カリフを名乗る支配者が現れるようになっていた。


イラクの”本家”のカリフの発行していた金貨(注:ムスタイーン(位862~866)のもの。wikicommonsより)

”本家”に対抗してエジプト(注:ファーティマ朝)で即位したカリフ(注:ハーキム(位996~1021))


スペイン(注:後ウマイヤ朝でカリフを宣言した人物アブド・アッラフマーン3世、位929~961)


どうしてそんなことができたんですか?

ーイスラーム教をはじめに広めた人物(注:ムハンマド)の娘をめとった人物(注:アリー)の子孫をかつぎあげたんだ。
 その血筋からはずーっとカリフが出なかったのだけれど、「カリフにふさわしいのはその血筋だ」という熱烈な運動が起こっていたんだ。その指導者が建てたのが、この国(注:ファーティマ朝)だ。はじめはチュニジアを都とし、のちにエジプトを乗っ取り遷都する。


どうしてエジプトには国力があったんでしょうか?

―まず、位置がいいよね。
 地中海(ヨーロッパ方面)とインド洋(アジア方面)を結ぶ中間地点にある。このころから輸出用サトウキビの栽培も始まったことも後押しになっているよ。



◆800年~1200年のヨーロッパ

―この時期のヨーロッパを一言で表すと「拡大」だ。
 森に覆われていたヨーロッパでは、あちこちで森林伐採がすすみ、畑が広げられ人口も増えた。気候が暖かかったことも関係している(注:中世温暖期)。

「農業」が「卑しいこと」ではないことを広めた修道会(田舎で宗教的な生活をするグループ。図はシトー派修道会はヨーロッパの原生林を切り開いていった。


そうなると、今までヨーロッパで活躍していた民族とは違う、新しい人たちも登場しそうですね。

―今まではケルト人、ギリシャ人、ローマ人とかゲルマン人の活動が目立っていたよね。

 この時代になると、今度は東のほうから、現在のロシア人ウクライナ人ポーランド人チェコ人クロアチア人などのルーツとなる民族(注:スラヴ人)とか、スウェーデンなどの北欧の人たちのルーツである民族(注:ノルマン人)がヨーロッパに入ってくるよ。

 もちろん「これがヨーロッパ人の基準だ!」という縛りはないわけだけど、この時代にはこれら「新入り民族」たちは、こぞってキリスト教を社会の“正義”として受け入れ、文字としてローマ字のアルファベットを使いだすんだ。
 キリスト教をゆるーい「つながり」というか「共通項」として、ヨーロッパという「まとまり」がだんだんと広がっていった時代といえるね。


支配者はどんな人たちだったんですか?

―はじめはゲルマン人という民族の一派であるフランク人の王様(注:フランク王国)が、今のフランスとドイツとイタリアを足したエリアをひろーく支配する国を支配していたよ。

フランク王国最盛期には上の地図コトバンク:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典よりの紫色のエリアにまで領域をひろげた。


 その強さの秘密は、ローマを本部とするキリスト教を保護したことにあった。


ローマを本部とするキリスト教はどうしてフランク人の王様に保護してもらったのですか?

―このころになるとキリスト教はいくつもの教会に分かれていて、そのうち一番発言権の強い教会のひとつはコンスタンティノープルというヨーロッパの東のほうの大都市にあったんだ。由緒ある町で、これまた由緒正しいローマ帝国(東西に分かれたうちの東側。東ローマ帝国)の皇帝が直接支配していたから、実力も十分にあった。

 それに対してローマは当時はもはや辺鄙(へんぴ)な“ど田舎”の町に成り下がっていた。でもローマの教会にも歴史とプライドがあるし、コンスタンティノープルの教会とは教義面でもモメていた。
 だからローマの教会の親分は、フランク王国に泣きついたんだ。
 でも、そのフランク王国はカリスマ的な王様の死後、分裂する。それが現在のフランスとイタリアとドイツのもとだ。

 跡継ぎ国家では血筋が重んじられたけど、乳児死亡率の高い当時、スムーズに跡継ぎを残すことは難しく、国によっては有力な家柄がところかまわず国王・貴族・聖職者などの高い階級を担当するようになっていった。


王様はどうやって国内を支配したんですか?

―王様は家来たちに住民と土地を与え、外から敵がやって来たときに自分に忠誠を誓わせようとした。
 でも実際には言うことを聞かない家来も多く、決して王様の力は強いとはいえないよ。とくにドイツの王様は国内の有力者をまとめるのにもひと苦労で、「自分が偉い」ことをアピールするために、ローマの教会に「キリスト教徒の世界のリーダー」(注:神聖ローマ帝国の皇帝)であることを認めてもらおうとした。


ドイツ人なのに、キリスト教徒の世界のリーダーなんですか?

―まあ、そんなことしたらフランスとかイギリスとか、周りの国の王様は良くは思わないよね。だからローマのキリスト教会が「イスラーム教徒と戦うから、兵隊募集!」(注:十字軍)と声を上げると、各国の王様はわれ先にと戦場に向かったよ。
 手柄を立てて、ローマ教会にほめてほしかったわけだね。


 混乱ぎみの西ヨーロッパに比べ、ヨーロッパの東のほうはアジアと位置的に近いから商業も盛んだった。
 東のほうからは遊牧民(注:アヴァール人マジャール人ブルガール人)がしょっちゅう侵入してきて、各地で国を建てているよ。

ブルガール人wikicommonsより。この時代初頭の戦いを描いた14世紀頃の書より)


 ブルガリアとかセルビアとかハンガリーとか、今につながる国のルーツになっている。
 また、北ヨーロッパから貿易ルートを求めてノルマン人も南に下がってきている。
 当時の貿易の中心がアジアのほうにあった証拠だね。

 彼らはローマの教会ではなくて、コンスタンティノープルに本拠地のあるキリスト教徒の教会のいうことをきいている。そのほうが貿易に有利だからだ。
 今でもヨーロッパの文化が西と東で違うのは、こういう事情からなんだよ。


ブルガリア、セルビア、ハンガリー…どれも馴染(なじ)みがありません。

―それもそのはず。
 日本人はどちらかというと、明治時代以降、西側のヨーロッパの影響を強く受けてきたから、あまりブルガリアセルビアのような東のほうのヨーロッパとのお付き合いがないからなんだよね。

 代わりにイギリスには親近感があるでしょ。
 当時のイギリスは、わりかし王様のパワーはほかのヨーロッパの国々に比べると統一感がある。
 「島国」ってまわりから孤立しているイメージがあるかもしれないけど、古来さまざまな民族が上陸を繰り返して来たいきさつがある。


上陸なんてカンタンにできるんですか?

ーフランスから泳いで渡ろうと思えば渡れるほど近いんだよ。

 だから、この時期には「フランス」と「イギリス」には、明確な線引きはしにくいね。

 例えばこの頃には、フランスから軍隊を進めて征服した王様が、イギリスで王国をつくっている(注:ノルマン朝)。

  
 その後もフランスの有力者が王様になって、イギリスとフランスにまたがる巨大な国を建設するなど、当時はまだイギリスとフランスの線引きはハッキリしているわけではないよ。


スペインのほうはどうですか? イスラーム教徒が上陸しているんでしたよね。

―そうだったね。
 この地方の王様たちは「キリスト教徒の土地を取り返すんだ!」という使命感を抱いて、イスラーム教徒退治に乗り出している(注:レコンキスタ)。ちょっとずつ領土を奪っていくんだけど、この時期にはイスラーム教徒の国のほうが面積が広いね。


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