遊牧民との戦争と森林破壊との関係
対外戦争をくりかえし、積極的に領土の拡張をめざした秦や前漢と異なり、後漢は匈奴との和睦を重視し、戦争を控えた。
歴史学者・上田信氏は、”戦争を控えると、黄河の氾濫が減り、農業生産が安定する” という意外な事実を指摘する。
まるで、”風が吹くと桶屋が儲かる” のような因果関係である。
一体どういうことだろうか?
人間どうしの戦争が、めぐりめぐって自然環境に影響を及ぼし、農業生産の増減として跳ね返ってくる。
ここからわかるのは、過去の歴史的事象を見る際、自然環境と人間社会の連関に着目することの大切さである。
中国では、黄河流域の華北には、黄河中華流域に分布する落葉樹の夏緑林が分布する。
太陽光がさしこみ、冬は幹のみが残される。ナラを中心とする明るい森林で、東日本に分布するものと同じだ。
一方、長江下流域には、カシ、クス、シイ、ツバキなど、葉がつやつやした照葉樹林が拡がる。
こちらは、鬱蒼と茂った森であり、生態学で極相とよばれる段階である。
不気味で、神秘的な、人を寄せ付けがたい暗い森林であり、西日本に分布する森林である。
なお、高校生の現代文の定番、中島敦の『山月記』において、主人公が発狂して虎になるのは、後者の照葉樹林の茂る撫河の森である。
おなじ森林でも、南北でこのような違いがあることも、知っておいてよいだろう。
冊封と朝貢
漢王朝は、周辺諸国に対して、いたずらに武力をもちいて服属させようとしていたわけではない。
国際秩序を維持するために漢がとったのは、冊封と朝貢による外交である。
前漢の武帝は、周辺諸国に対して、国内の諸侯と同様の肩書きを与えてて支配権をみとめ、形式上は臣下としてとりあつかった。
これを冊封(さくほう)という。
冊封を受けた側は、貢ぎ物を皇帝に送る義務があった。
こちらを朝貢という。
天下をおさめているのは皇帝(漢代から再び「天子」の称号も併せて用いられるようになった)のみなのだから、他の国との外交関係というものは理念上、存在しない。
したがって、周辺の民族との外交関係は、冊封と朝貢によって取り結ばれることになったのだ。
しかし、だからといって、中国の皇帝が絶対的な権力を維持していたとはいえない。あくまで「そういう設定」ということである。
現実的には、北方の騎馬遊牧民のほうが、よっぽど軍事的に優位に立っていたことを忘れてはならない。
豪族の台頭
漢は秦の制度を継承し、皇帝を中心とし、法家にもとづく統治体制をとった。
しかし後漢には、儒教が統治に都合の良い思想として採用されるようになっていった。
しかも、皇帝支配が、地方の末端まであまねく及んでいたわけでもない。
たしかに当初は、前漢では封建制と郡県制を併用した郡国制がしかれ、徐々に諸侯の権力を削いでいき、武帝の代には実質的に郡県制がしかれた。
秦と漢を成り立たせていたのは、5人前後の家族単位で小規模経営を行う自作農(小農民)であった。前漢末の戸籍に登載された戸口数、すなわち戸口(ここう)統計によれば、その数5770万人。
しかし武帝のおこなった度重なる対外戦争と領土拡大は、農民を疲弊させ、しだいに大規模な農地経営をおこなう豪族が台頭していくこととなった。
大土地経営をおさえる限田策といえば、古代ローマの共和政末期のグラックス兄弟の改革が思い出されるだろう。
同時期の中国でも、やはり大土地所有が問題となっていたのだ。
資料 豪族の邸宅を描いた漢代の画像石
中央でも皇帝側近の宦官(かんがん)や外戚による腐敗が問題となるなか、外戚の王莽(おうもう、「大」の部分は正しくは「犬」。在位8〜23)が帝位を奪い、新という王朝を立てた。
王莽がめざしたのは周の政治におこなわれたとされる儒学にもとづく公正な政治だ。土地の国有化などが豪族や農民の反発をまねき、反乱によって短期間で滅んだ。
王莽亡き後、前漢の一族であった劉秀(洪武帝)が豪族の支持を得て漢を再興。豪族を地方長官が推薦する形で中央政界に進出する郷挙里選という仕組みによって、豪族の影響力は前漢にも増して高まった。
後漢の滅亡
2世紀後半、気候の寒冷化によって旱魃や飢饉がおこり、遊牧民の侵入が相次ぐようになった。
モンゴル高原では1世紀に匈奴がおとろえ、東北地方の森林地帯から鮮卑(せんぴ)が進出し、2世紀中頃には草原地帯の東部の勢力を支配下に入れるようになっていた。
しかし鮮卑の王国は分裂し、中国の東北部、華北、西北部へと移動し、各地に定着するようになっていった。
華北において黄巾の乱がおきると、各地で豪族や武装勢力が自立。後漢は220年に滅んだ。
秦と漢を通して成立した、皇帝を中心とする官僚機構を通した統治は、以後の歴代王朝が継承するものとなった。