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【ニッポンの世界史】第9回:アジア・アフリカ会議の衝撃

「世界史」には決まりきった、客観的な構成があると思っていませんか? 
そんなことはありません。その構成は、いわば繰り返し訂正されつづける物語のように、長い歴史の中で何度も定義されなおし、いまなお変身の途上にあります。

日本人の描く世界史には、日本人が世界や歴史を見るときに突き当たる「困難」が色濃く反映されている
そして、日本における「世界史」は、教科書を中心とする”公式”世界史と、それに対抗する”非公式”世界史のせめぎ合いのなかで再定義されてきた。

——このような視点、そして世界史をトータルに扱う高校教員である私の立場から、「ニッポンの世界史」をよみとく文脈を明らかにすることで、国内外、専門家・非専門家のいずれの著者に関わらず分け隔てなく世界史を批評する観点を提示し、世界史の描き方の現在地と未来を探る試みです。


 前回は飯塚浩二と上原専禄が、”公式”世界史に代わる世界史を構想しようとしていたのを確認しました。
 では、2人をそこに駆り立てる動機となったものは一体何だったのか?
 それは、当時同時代的に進行していたアジア・アフリカの植民地の独立であり、その立役者でもあったネルーです。


ネルーのインパクト


 ジャハルワル・ネルー(1889〜1964)は、インド独立運動の指導者で、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで自然科学を修めたうえで、弁護士資格を取得したエリート中のエリート。


ネルー首相(Public Commons, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Jnehru.jpg)


 しかし、だからこそというべきか、インドに帰郷すると、植民地の窮状を嘆き国民会議派の政治家に転身。マハトマ・ガンディーとともに独立運動の第一線で活躍するとともに、分泌の才能も遺憾なく発揮しました。『父が子に語る世界歴史』(1934年)、『ネルー自伝』(1936年)、『インドの発見』(1946年)は、いずれも獄中で書き上げた著作です。

 今でこそ、アジア人がこうした著作を書き上げるのは至極当たり前です。しかし、1950年代初頭は、いまだインドもインドネシアも独立し立ての状況で、いまだガーナもアルジェリアなど多くの植民地は独立を達成していなかった時代です。

 「欧米諸国の科学技術を前にして、独立を達成するのは困難だ」
 「アジアやアフリカの人々が、国家を建設できるわけない」

 そうした考え方が主流であった当時の世界において、ネルーの文才は傑出したものと受け止められました。

 インド初代首相のネルーによる『インドの発見』(上・下、原書は1946年刊)は岩波書店から1953年に刊行、1954年には同じくネルーの『父が子に語る世界歴史』も日本評論新社より出されています。
 『インドの発見』は上巻の第4章以下、下巻にいたるまで、インドの通史を叙述したもの。この翻訳には飯塚も関わりました。

 とくに『父が子に語る世界歴史』は、のちのインド首相であるネルーの娘・インディラに対して、獄中から200通におよぶ回数も送った手紙で構成された、古代文明から第二次世界大戦直前までの世界歴史です
 「お誕生日がくると、おまえは贈りものをもらったり、お祝いのことばを受けたりするのがならわしだった。けれども、このナイニー刑務所から、わたしはなにを贈りものにしたものだろうか?」
 ヨーロッパ人によって書かれるのが当たり前であった世界史を、ネルーは愛娘にむけた親しみやすい文体で、見事に「ひっくりかえし」てみせたのです。 

 なおほかにも、エジプト革命を率いて大統領に就任し、スエズ運河を国有化し、第二次中東戦争を戦ったナセル大統領の『革命の哲学』(平凡社、1956年)もこの頃翻訳され、話題となっています。

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 ネルーの言葉により媒介された世界史の転換を前にして、前回紹介した、上原専禄の関わった『世界史講座』(全8巻、江口朴郎、尾鍋輝彦、山本達郎とともに監修、1954〜56、東洋経済新報社刊)には、次のように記されています。

「私たち日本人は、アジアに母胎をもち、昨日のアジアと同様の政治的条件におかれながらも、とりわけて意識や観念の世界においてはヨーロッパ的たろうとし、国民の多数がすなおにアジア人と共感し、みずからをアジア人として自覚しえないような、なにかしらもどかしいものを自己の内部にもっている。そのかぎり、私たちの世界史像形成も、ヨーロッパ的に、ある意味ではヨーロッパ以上に、受動的な仕方をたどる面をもっているのではなかろうか。」


 じつにするどい指摘です。

 敗戦直後の日本人にとっても、ネルーの著作はアジア人の手によるアジア人の視点から書かれた「主体的」な世界史として、少なからぬ影響を与えたのです。

 そして、この「アジアの不在」の認識のままでは、本当の意味で、いまの日本人にとって必要な世界史など描くことなどできないのではないか
 「人類史」などという客観的な世界史を気取ってみたところで、それは切実な生活実感に基づく世界史になっていない!

 こうした上原の問題意識をさらに深く掘り下げさせたのは、1955年にインドネシアのバンドンにおいて開かれたアジア・アフリカ会議でした。
 これは世界史史上はじめて非ヨーロッパ諸国の首脳が一堂に会した国際会議であり、「現実の世界」が「世界史の認識」に追いついていないことを強く印象付ける出来事だったのです。




 その後、1957年10月にはインド首相のネルーが来日。岸首相ら日本側の要人と会談しただけでなく、奈良・京都、広島の原爆資料館(平和記念資料館)にも訪れています。上野動物園でネルーから1949年に寄贈されていたインドゾウに、ネルーの娘の名をとって「インディラ」と名づけられたのも、このときのことです。


 しかし、アジアに注目した世界史の見方は、じつは戦中にもありました。
 「京都学派」の知識人の描いた新しい「世界史」像です。
 そこには、ヨーロッパ中心主義に代わる世界史の描き方を構想したとき、どのような落とし穴が待っているのか、その答えが隠されています。


(続く)

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊