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2.1.7 インド古典文化の黄金期 世界の教科書を最初から最後まで

4世紀に入ると、インドに再び広範囲を支配する王国が現れる。

実質的な建国者であるチャンドラグプタ1世は、パータリプトラに都を置いて諸国を支配。チャンドラグプタ2世(在位376頃~414頃)のときに最盛期を迎え、インド全域を直接支配エリア、従来の支配者を残して臣下とするエリア、貢ぎ物のみを要求する属領エリアに分けて統治した。

仏教とジャイナ教の信仰が盛んとなり、中国からは仏教の原典を求める研究僧である法顕(ほっけん)も訪れている。
どうして中国のお坊さんがインドにお経を求めに来たかというと、中国では鳩摩羅什(くまらじゅう)というインド人の訳した「中国語(漢字)に訳されたお経」しかなかったからだ。
現代風に言えば”吹替版しかない外国映画”みたいなもの。
「本当は何て言っているんだろう?」って原文のセリフを知りたくなったわけだ。
翻訳することによって、失われるニュアンスや誤訳だってありうるからね。

都市の商業活動が盛んであったため、商人は競ってお寺に寄付をしたのだ。この時期には王の像が描かれた金貨や、タカラガイという貝でできた貨幣など、さまざまなお金が発行されているよ。


その一方でバラモンも重んじられ、バラモンの使う言葉であるサンスクリット語が公用語化されたほか、バラモンのために村から得られた収入の一部が寄付されていた。


当時のバラモン教は、シヴァやヴィシュヌといった地域の神々が崇拝の対象となり、より親しみやすい信仰となっていた。のちに「ヒンドゥー教」と呼ばれることになる多神教だ。


「宗教を信じる」というよりは、生活や染み付いた「価値観」そのものといったほうが良いだろう。特定の教義や聖典があるわけではないのだ。

ただ、この時代には4つの身分であるバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラにとっての正しい生き方が、『マヌ法典』にまとめられた。人類の始祖であるマヌという人が述べた設定になっていて、バラモンがいかに偉いかが強調されているのが特徴だ。


また、古代インドの史実や伝説をもとにした『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』には、さまざまな神々や英雄が登場し、インド人のものの考え方に大きな影響を与えたよ。



宮廷では、詩人カーリダーサのプロデュースした『シャクンタラー』という戯曲がつくられ、好評を博した。

これらはすべてサンスクリット語で書かれたものだ。

学問の研究も盛んになり、天文学、数学、文法学が発達。「ゼロの概念」が「ゼロという記号(数字のゼロ)」の形であらわされたことで、10進法の表記による筆算も可能となった。
ゼロ記号はのちにイスラーム教徒の世界に伝えられ、さらに複雑な計算や自然科学の発達に貢献することとなる。


また、グプタ朝の時代は、従来のギリシア風の美術(ガンダーラ様式)から、インド独特の美術(グプタ様式)へと発展した時期でもある。仏像の見た目や服装は明らかにインドっぽくなっていくよ。

そんなグプタ朝が滅んだのは、中央アジアから侵入した騎馬遊牧民エフタルや、言うことを聞かなくなってしまった地方の勢力などが原因だ。
結局、6世紀には滅亡してしまう。


しかしその後、ガンジス川中流域のカナウジという都市を中心に、ハルシャ王(在位606~647)がヴァルダナ朝を建国。北インドの大半を支配した。
ハルシャ王はヒンドゥー教だけでなく、仏教やジャイナ教にも保護を与えた。
中国人の僧侶である玄奘(げんじょう、602~664)さんがインドに訪れて、ナーランダー僧院という研究施設で学んだのもこの時代だ。

 彼は旅行記である『大唐西域記』(だいとうさいいきき)にインドの様子を詳しく書き残しているよ。彼の日記は後にの冒険フィクションの『西遊記』(さいゆうき)となる。


史料 玄奘によるナーランダー僧院の記録(7世紀後半)
インドには数えきれないほど多くの伽藍があるが、このナーランダー寺院ほど壮麗崇高なものはない。僧侶の数は客僧を含めてつねに一万人もいて、みな大乗を学び、あわせて小乗十八部も学んでいる。そして経典以外の文献やヴェーダなどの書物、因明(論理学)、声明(音韻学)、医方(薬学)、術数(数学)にいたるまですべて研究している。…寺内の講座は毎日百余か所で開かれ、学僧たちは寸暇を惜しんで修習する。…国王もこの寺院を篤く尊敬し、百余の村を荘園としてその供養にあてている。荘園の二百戸から毎日、米や乳飲料が数百石も奉納され、これによって学徒は求めずとも四事(衣・食・寝・薬)おのずから足り、学業を成就させることができる。

慧立・彦悰『大慈恩寺三蔵法師伝』第3巻

しかし、ハルシャ王死後、ヴァルダナ朝は急速に衰退してしまう。
中国の僧侶である義浄(ぎじょう、635~713)がインドを訪れたときには、すでにインドは諸国に分裂した状態に(旅行記として『南海寄帰内法伝』を著した)。




都市の商業活動が衰退していくのにともない、仏教やジャイナ教の教団はパトロンを失い、信者はさらに減っていった。
代わって南インドを中心に、シヴァ神やヴィシュヌ神に対する信仰が強まる。それを後押ししたのが、歌やダンスによって神への愛を表現する「バクティ運動」だ。6世紀半ば(今から1480年ほど前)に盛んとなったこの運動により、仏教やジャイナ教はさらに打撃を受けた。

その後、8世紀になると、西アジア方面からイスラーム教の勢力がインド近くに拡大。
10世紀にイスラームの王国が北インドを支配するまでの間、インド各地にはヒンドゥー教を保護する王国がいくつも立ち並び、互いに戦う時代が続いた。

王族たちは自分のことを、高貴で誉れ高きクシャトリヤの子孫という意味の「ラージプート」と呼び、互いに勢力を争った(ラーシュトラクータ朝、プラティハーラ朝など)。

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また、ガンジス川下流のベンガル地方の支配者(パーラ朝など)は、ヴィクラマシーラ寺院などの大きな寺院を建造したり、ナーランダー僧院を仏教研究の中心として復興させようとしたりと、仏教を守ることで人々を支配しようとした。

しかし、それがインドにおける仏教の”最後の輝き”。


その後の仏教は、発祥地のインドでは信者がほとんどいなくなってしまったんだよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊