6.3.2 元の東アジア支配 世界史の教科書を最初から最後まで
後継争いを経て「大ハーン」に即位した第5代のフビライ(クビライ、在位1260〜94年)はチンギス=ハンの末っ子トゥルイの家系。
西方を支配するチャガタイ家に対抗するため、自分は東方に支配の重点を移そうとした。
そこで建設したのが、現在の北京(ぺきん;ベイジン)に置かれた大都(ダイドウ;だいと)だ。
遊牧民の君主である「ハーン」(大ハーン)だけでなく、中国の君主号である「皇帝」を称し、国名も「元」(ユェン;げん)とした。
そして中国南部の宋(南宋(ナンソン;なんそう))を滅ぼし中国すべてを支配する。
こうしてフビライは、遊牧民の君主「ハーン」(大ハーン)と中国の君主「皇帝」を兼務する、超大国の支配者となったのだ。
中国の支配に際しては、中国の伝統的な役人をそのまま用いたけれど、政策自体は政権の中枢にいるモンゴル人たちによって担われた。
また、各地からの資金集めや運用については、中央アジアや西アジアの、イラン・トルコ・アラブ系の事情通が、財務業務のブレーンとして採用。
いわば、外資系コンサルタントとして、国家財政を担当した彼らは「色目人」(しきもくじん)と呼ばれ、軍人としての採用もあった。
今でいう「多国籍企業」のような組織(オルトク)の重役が、色目人として国家のブレーンに就くことも珍しくなかったんだよ。
モンゴル人の軍事・経済重視のあらわれのひとつだね。
民族に関係なく“役に立つもの” “抵抗しないもの”はなんでも受け入れたモンゴル帝国。
大ハーンの鎮座する元(大元ウルス)の都である大都(だいと)には、王宮中心部にまで運河が伸び、北中国の遊牧世界と南中国の海港が結び付けられた。
ユーラシア大陸東西を結ぶ「陸ルート」と「海ルート」の“結び目”として機能していたのだ。
陸ルートを“道の駅”で結んだ駅伝制(ジャムチ)が整備され、オフィシャルなパスポートがあれば、安全な移動が保証された。
また、大都は黄河・長江と大運河(改修されて新運河も開かれた)や東シナ海の海運によって直結していて、中国南部沿岸にやってきたさまざまな商人のもたらす富が流れ込んだ。
そもそもモンゴル帝国の支配層は、国を動かすための資金を「土地からとる税」によってまかなおうとは考えていない。
イラン人やトルコ系ウイグル人の大商人に特権を与えてサポートすることで、ビジネスをしやすい環境を整備。
そして彼らの売上げから「商業税」を取り立てたのだ。
彼らから吸い上げた銀は、モンゴル帝国の支配層に流れ込み、彼らはさらにその銀をイラン人やトルコ系ウイグル人の“多国籍企業”(オルトク)に投資。
彼らは中国で陶磁器や絹織物、そして長江下流域で生産が盛んになりはじめていた綿織物を買い付け、中国経済も潤った。
その商業活動を通して、モンゴル帝国は中国からも商業税を吸い上げることができる。
ビジネスが盛んになればなるほど、モンゴル帝国の財政が潤う仕掛けだ。
しかし、当時の東アジアには十分な銀の量は確保できず、モンゴル帝国はしばしば「塩との引換券」を発行し、これを大商人たちに販売した。
今でいうところの “国債” のようなものだ。
この「塩引」(えんいん)がそのまま貨幣としても機能し、銀の不足分を補う役割を果たしたのだ。
モンゴル帝国の歳入の大部分は、「塩引」を発行することによる塩の独占販売(専売)によってまかなわれていた。
さらに、銅銭・金・銀のほか、交鈔(こうしょう)と呼ばれる紙のお札も発行された。交鈔の使用のほうが一般的になってくると、日本には不要な銅銭が「商品」として流れ込むことになる。
特に、イスラーム教徒は、陸からはキャラバン(隊商)で、海からはダウ船でさかんに来航。イスラームの天文学を取り入れた、郭守敬(かくしゅけい)による授時暦(じゅじれき)など、中国は文化や学問の分野でも影響を受けることになる。
そもそも中国人の役人たちは、科挙という儒学の素養をベースに採用されているから、実務能力は高くない。
モンゴルは科挙を一時停止し、儒学一本でやってきた中国の役人(士大夫)たちは冷遇された。
そのエネルギーは逆に水墨画(文人画)などのアートや、
さまざまな出版物の発刊へと向かっていったよ。
モンゴル人は中国の人々の考え方そのものには干渉しなかったので、ユーラシア大陸東西を結ぶ商業がさかんになったことで、かえって商工業者の文化が発展。
都市の人々の感性にあった庶民文化が栄え、歌と劇を組み合わせた「元曲」という “ミュージカル”が、歴史物やラブストーリーなどを題材に大流行したよ。
『西廂記』(シーシァンジー;せいそうき)や『琵琶記』(ピーパージー;びわき)、『漢宮秋』(ハンゴンチウ;かんきゅうしゅう)が有名だ。
なお、元によってチベットと朝鮮半島の高麗も属国化されている。
日本の鎌倉幕府、
陳朝(チャン;ちんちょう)の支配する北ベトナム、
チャンパーの支配する南ベトナム、パガン朝の支配するビルマ、シンガサリ朝の支配するジャワにも遠征軍をおくったけれど、いずれも失敗するか、長期的な支配には至らなかった。
陸での戦いでは負け知らずのモンゴルも、海戦となると話は違ったのだ。
また、服従させた民族を軍人として使ったことも敗因のひとつだね。
ただ、海ルートへ乗り出し、ユーラシア大陸東西にわたる貿易の利益を目指そうとしたところに、モンゴル帝国の “新しさ”がある。
日本の九州北部を攻めたのも、博多(はかた)という国際貿易港をねらったからに違いない。
このように、「経済を回す」ことによって「利益を生む」仕組みを作ろうとしたモンゴル帝国の支配システムは、ユーラシア大陸・アフリカ大陸周辺の歴史に多大なるインパクトを与えたのだ。
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