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新科目「歴史総合」をよむ 2-3-9. 連合国の占領政策と冷戦

メイン・クエスチョン
冷戦の始まりは、日本の占領政策にどのような影響を与えたのだろうか?

■冷戦の始まり

サブ・クエスチョン
冷戦は、どのように始まったのだろうか?

 第二次世界大戦が終わった時点では、アメリカ・イギリス・ソ連の緊密な協力はその後も続くと期待され、国際連合や安全保障保障理事会に対する期待も大きかった。

資料 第二次世界大戦後のアメリカのコミック(1951年)


 しかし、ポーランドにおける自由な選挙をソ連が行わなかったことをきっかけに、アメリカのトルーマン大統領はソ連のスターリンに疑いを抱くこととなる。結果的にポーランドには、国民はみずからが望む政府ではなく、ソ連の影響下にある政府が発足することになった。

 まもなく米ソの対決姿勢が強まることとなり、とくに東西ヨーロッパをめぐる米ソの対立は「冷戦」(the Cold War)と呼ばれるようになった。
 人々がその兆候を意識することとなったのは、1946年3月、イギリスの元首相チャーチルが、ヨーロッパを南北に走る「鉄のカーテン」が存在すると発言したことが大きい。

資料 チャーチルの「鉄のカーテン」演説(1946年3月5日)
バルト海のシュテティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸をまたぐ鉄のカーテンが降りてしまった。その線の向こう側に、中・東欧の古き諸国の首都が並んでいる。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、そしてソフィアである。これらすべての有名な諸都市、そしてその周辺の人々は、私がソヴェトの圏域と呼ばねばならないものの中に位置し、それらすべては何らかのかたちで、ソヴェトの影響力に従属しているばかりか、とても強固で、多くの場合においてますます強まるモスクワのコントロールの下にあるのだ。(中略)共産主義がまだ未発達な状況である英連邦やアメリカをのぞいて、共産党、あるいは第五列部隊は次第に、キリスト教文明への勢いを増す脅威、そして危険となっているのだ。

(出典:細谷雄一・訳『世界史史料11』63-65頁)


 1947年初めにイギリスがそれまでおこなってきたギリシアとトルコに対する支援を打ち切ると、トルーマン大統領は、1947年に次の政策を表明する。

資料 トルーマン・ドクトリン(1947年3月)
 現在の世界が直面する事態はきわめて重大であるため私が両院合同会議に臨む必要を生じた。問題は米国の外交政策と国家安全保障に関連するものである。
 私が今回諸君の考慮と決定を求めるため提出する現事態の一面はギリシァとトルコに関するものである。
 米国はギリシァ政府から財政および経済上の援助につき緊急要請に接した。目下ギリシァにある米国経済使節団の中間報告および駐ギリシァ米国大使の報告はいずれもギリシァが自由国家として存立するためには援助が絶対必要であるとのギリシァ政府の言明を裏書している。
 (中略)
 今日ギリシァは共産主義者に指導された数千の武装員によるテロ行動に脅かされてその存立をすら危くしている。これら共産主義者は数地点とくに北部国境方面において政府の権威に反抗している。国際連合安全保障理事会が任命した一委員会は目下北部ギリシァの混乱状態およびギリシァとアルバニア、ブルガリア、ユーゴースラヴィア三国双方の国境侵犯申立につき調査中である。
 その間ギリシァ政府は事態に対抗することができない。ギリシァ陸軍は兵力も少く装備も悪い、ギリシァ全領土にわたって政府の権力を回復するには兵站と装備を必要とする。
 ギリシァは自立自尊の民主主義国となるためには援助を受けねばならない。
 この援助は米国が与えねばならない。われわれはすでにいろいろの救済や経済援助をギリシァに供与して来たが、これらはまだ不十分である。民主的ギリシァが頼り得る国は他にはなく、民主的ギリシァ政府に必要な支援を与える意思をもちこれを実行し得る国は他にないのである。
 英国政府は従来ギリシァを助けて来たが、3月31日以降財政的、経済的いずれの援助もつづけることができない。英国はギリシァを含む世界数地域において自国の受持つ負担を減少あるいは整理する必要に当面したのである。
 われわれは国際連合がこの危機に際していかに援助するかについて考慮した。しかし事態はただちに行動を必要とするほど切迫しており、かつ国際連合およびその関係諸機関は要求される種類の援助を供しうる立場にはない。
 ギリシァ政府が米国からギリシァに与えようとする財政その他の助力を効果的に利用し、国内行政を改善するために援助を求めている点に注目することが重要である。さらに重要なことは米国がギリシァに与える資金の使途について1ドルといえどもそれがギリシァの自立化達成と健全な民主主義が成長し得る経済建設に役立つよう費消されることを米国が監督するという点である。
   (中略)
 ギリシァの隣国トルコもわれわれの注意を要する。世界の自由愛好国民にとつて、独立しかつ経済的に健全な国家としてのトルコの将来はギリシァの将来に劣らず重要である。今日トルコが置かれている環境はギリシァとはかなり異つている。トルコはギリシァに加えられた破滅から免れた。戦時中米英両国はトルコに物的援助を与えた。それにも拘わらずトルコは今日われわれの支援を必要としている。
 戦後トルコは米英両国に対し国家の独立維持に必要な近代化を達成する目的で、財政援助の追加を求めた。かかる独立は中東の秩序維持に不可欠である。
 英国政府は自国の諸困難からこれ以上トルコに財政的または経済的援助を供与できなくなつた旨を米国に通告した。ギリシァの場合と同様、もしトルコが必要とする援助を受けるべきだとすれば、米国がこれを与えねばならないのである。米国だけがこの援助を与え得る国である。
 米国がもしギリシァおよびトルコに援助を与えた場合、それがいかに広汎な意義をもつかについて私は十分承知しており、ここにその意義について諸君とともに論じよう。
 米国外交政策の主要目標の一つはわれわれが他の諸国とともに強制から解放された生活を営むことができるような条件をつくり出すことである。これは日本とドイツに対する戦争においても根本目的であつた。われわれの勝利は自国の意思と生活様式とを他国に強制しようとした国々に対して得られたものであった。
 強制から解放された国家間の平和的発展を保障するために、米国は国際連合の創設に指導的役割を演じてきた。国際連合はその全加盟国に永遠の自由と独立とを可能ならしめるよう設計されたものである。しかしながらわれわれが、全体主義体制を課そうと試みる侵略的行動に対して自由な政体と国家の独立を維持しようとする自由国民を援助しないならば、われわれはその目的を実現できないであろう。われわれは直接間接の侵略によって自由な国民に強制された全体主義的体制が国際平和をおびやかし、ひいては米国の安全をそこなうにいたることを率直に認めるほかない。
 若干の国家の国民が最近その意思に反して強制され全体主義体制をとった。米国政府はポーランド、ルーマニアおよびブルガリアにおいてヤルタ協定を侵犯して強制と恐喝が行われたことに対し再三抗議して来た。またそれ以外の二、三の諸国においても同様の事態が発展しつつあることを私は言及しなければならない。
 世界史の現瞬間においてはほとんどすべての国が相異る生活方式のいずれかを選ばねばならないが、その選択が自由に行われていない場合が非常に多い。
 一つの生活方式は多数者の意思にもとづき、自由な政体、代議政府、自由選挙、個人的自由の保障、言論、信教の自由および政治的抑圧からの自由を特徴としている。
 第二の生活方式は多数者に対し強制的に加えられる少数者の意思にもとづく。その手段はテロ、弾圧、出版ならびに放送に対する統制、自由ならざる選挙および個人的自由の抑圧である。
 私は武装少数派または外部からの圧迫による奴隷化に反抗しつつある自由国民を支持することこそ米国の政策でなければならないと信ずる。
 私は自由国民が独自の方式で彼等自身の運命を解決するのを米国が援助せねばならないと信ずる。
 私はわれわれの助力が第一に経済的安定と秩序ある政治過程にとって不可欠な経済的、財政的援助によって行わるべきものであると信ずる。
 世界は静止したものではなく、現状維持はかならずしも聖なるものではない。しかしわれわれは圧制のごとき方法により、あるいは政治的浸透のごときごまかしによって国際連合憲章が侵犯され現状に変更が加えられることを黙過することはできない。自由かつ独立の諸国の自由維持を援助するに当り、米国は国際連合憲章の諸原則を実現せしめるつもりである。
 ギリシァ国家の生存と保全とがより広汎な事態の中できわめて重要性を持つていることは地図を一見しただけで明らかである。もしギリシァが武装少数派の手中に落ちたならば、その影響はたちまち直接に隣国トルコに及ぶであろうし、重大な混乱と無秩序が中東地方全域に波及するに違いない。
 それ以上に独立国家としてのギリシァが姿を消すことは、戦争による被害を復旧しながら自由と独立を維持するためにその国民が大きな困難と闘いつつある欧州諸国に深刻な影響を及ぼすであろう。もし長期にわたり圧倒的なハンディキャップに対して闘って来たこれら諸国が、多大の犠牲を払って獲得した勝利を失うこととなれば、これはたとえようもない悲劇であろう。自由な政体の崩壊と独立の喪失とは単に彼等にとつてのみでなく世界にとって破壊的であろう。自由と独立の維持に努めつつある隣接諸国民もたちまち失望とおそらくは失敗の運命に陥るであろう。
 もしわれわれがこの宿命的な時にギリシァとトルコを援助し得なかったならばその影響は東方に対すると同様西欧に対してもはかり知れないものがある。われわれは即時かつ断乎たる行動をとらねばならない。
 したがって私は、ギリシァおよびトルコ援助のため1948年6月30日までの期間に4億ドルの支出権限を与えるよう議会に対して要請する。これらの資金を要請するに当り、私は戦災諸国の飢餓と苦難を防止すべく最近私が議会に権限付与を要請した3億5000万ドルのうちから、ギリシァに供与さるべき最大限度の救済援助額を考慮した。
 (後略)(出典:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19470312.O1J.html、重引:現代国際関係の基本文書(上),一般財団法人鹿島平和研究所編,日本評論社,467-473頁)

資料 「マーシャル・プラン」をめぐる風刺画(1947.6.27)

左手にトルーマン、右手にスターリンが見える


資料 信じるか、鞭打たれるか(『パンチ』1950年)

Leslie G. Illingworth, 'Believe It or Knout', Punch, 12 July 1950、https://www.researchgate.net/figure/Leslie-G-Illingworth-Believe-It-or-Knout-Punch-12-July-1950-C-Punch-Ltd-All_fig3_286558957「戦争屋のトルーマンが無防備な北朝鮮の人々に攻撃を仕掛けている」


 1949年、ドイツは東西ドイツに分かれて独立し、同年にはアメリカ、イギリス、フランスなどの西側諸国がNATO(北大西洋条約機構)を結成したのに対し、東側諸国はソ連を中心に経済相互援助会議(COMECON)を組織した。

 冷戦が激化するとともに、西ヨーロッパ諸国は統合への動きを強めていった。



 一方、アジア諸国では、各国内の勢力が、西側諸国と東側諸国の間に切り裂かれ、互いに対立して実際の戦い(熱戦)に至るケースも見られるようになった。

 たとえば、中華民国では、連合国により常任理事国に認められた蒋介石率いる中国国民党と、ソ連の支援を受けた中国共産党との間に内戦が勃発。結果的に小作人の解放を主張して農村部で支持を固めた中国共産党が勝利し、1949年に中華人民共和国の成立を宣言した。
 中華人民共和国は、1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、東側に立った。

資料 中ソ友好同盟相互援助条約
 ソヴィエト社会主義共和国連邦最高会議幹部会及び中華人民共和国中央人民政府は、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国間の友好及び協力を強化し、日本帝国主義の復活及び日本国の侵略又は侵略行為についてなんらかの形で日本国と連合する国の侵略の繰り返しを共同で防止することを決意し、国際連合の目的及び原則に従って極東及び世界の長期にわたる平和及び全般的安全を強化することを希望し、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国との間の善隣及び友好の関係を強化することが、ソヴィエト連邦及び中国の人民の基本的利益に合致することを深く確信して、この目的のためにこの条約を締結することに決定し、次のとおりその全権委員を任命した。
(全権委員氏名省略)
 両全権委員は、その全権委任状を交換しそれが良好妥当であると認めた後、次のとおり協定した。
第一条
 両締約国は、日本国又は直接に若しくは間接に侵略行為について日本国と連合する他の国の侵略の繰り返し及び平和の破壊を防止するため、両国のなしうるすべての必要な措置を共同して執ることを約束する。
 締約国の一方が日本国又はこれと同盟している他の国から攻撃を受け、戦争状態に陥つた場合には、他方の締約国は、直ちに執ることができるすべての手段をもって軍事的及び他の援助を与える。
 また、締約国は、世界の平和及び安全を確保することを目的とするあらゆる国際的行動に誠実な協力の精神をもって参加する用意があることを宣言し、かつ、これらの目的の最もすみやかな実現のために全力を尽す。
(出典:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19500214.T1J.html。重引:日本外交主要文書・年表(1),108‐109頁.多数国間条約集・上,641‐645頁.)

Q. この条文中の「日本国又はこれと同盟している他の国」とはどのような国を示すのだろうか?


 内戦に敗れた蒋介石は台湾に移ることとなり、中華民国は、国連代表権を持っているにもかかわらず、中国本土を支配しえない状況が生まれた。

史料 台湾の教科書の一つより

「台湾は50年間の日本統治を受け、人々の生活、文化は日本的な色彩を帯びていたが、8年にわたる抗日戦争を経て来た接収要因は、反日感情と戦勝国意識を持っており、それらを「奴隷化」支配の害毒だとして、払拭に躍起となった。
しかし一方の台湾の人々は、当時のアジアでは上位を占める教育レベルを持ち、しかも公務は法に基づいて行われるべきだという考えがあったため、政府の政策や官吏の態度、そして行政の「人治」ぶりには納得できなかった。」

薛化元編(永山英樹・訳)『詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書』雄山閣、2020年、169頁。

史料 米国の政策の変化
1949年、米国「中国白書」
合理的範囲内で米国が採ったいかなる措置も、中国情勢を変える可能性はない。米国がまだ実施していないことを実施しても、情勢には影響を及ぼし得ない。それは中国の内部勢力がもたらした結果であり、中国内部が決定づけたものであり、原因はその職務怠慢にある。

1950年、トルーマンの声明
「共産軍の台湾占領は、太平洋地域の安全と、その地域で合法的かつ必要に応じた活動を展開する米軍に対する直接的な脅威になるため、私は米国第7艦隊に対し、台湾に対するいかなる攻撃も防ぐよう命じた。」

(薛化元編(永山英樹・訳)『詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書』雄山閣、2020年、176頁)


 朝鮮半島でも、1948年に南北に2つの政府が樹立されていたが、1950年に北部の朝鮮民主主義人民共和国が北緯38度線をこえ、南部の大韓民国に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。
 アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、すぐに韓国を防衛する方策をとった。国連の安全保障理事会は、北朝鮮軍の行動を侵略であると認め、その勧告のもとで、アメリカ軍を中心とする国連軍が派遣された。
 北朝鮮側にはソ連、大韓民国側をアメリカが支援したほか、中華人民共和国からは、義勇軍が派遣された。


 結果的に戦線は北緯38度線付近で膠着し、1953年に板門店で休戦協定が制定され、休戦状態は現在にまで続いている。




■日本の主権回復

サブ・クエスチョン
講和によって国際社会に復帰した日本は、冷戦の進行にともない、どのような課題に直面したのだろうか?

占領政策の転換

サブ・サブ・クエスチョン
占領政策の転換は、日本にどのような影響を与えたのだろうか?

 1949年の中華人民共和国成立や1950年の朝鮮戦争勃発を受け、アメリカ合衆国政府は、日本を占領する目的を、経済復興と自立的な国家建設へと変更した。
 財閥解体をゆるめるとともに、官公庁の労働者の争議権がGHQの命令によって奪われた。
 
 経済面では、日本の国際的競争力を高めるため、銀行家のドッジを日本に派遣し、財政支出を大幅に削ることでインフレーションをおさえようとした。また、1ドル=360円の単一為替レートが設けられた。金融引き締めによりインフレーションはおさまったが、不況が深刻化した。


 また、アメリカは、日本を再軍備させることで、共産主義の防壁としようと企図するようになった。1950年にはGHQの支持で、官公庁・民間企業で共産主義者を追放(レッド・パージ)するとともに、公職追放の解除も始まった。また、同年GHQは日本政府に治安部隊として警察予備隊を組織させている。


サブ・サブ・クエスチョン
サンフランシスコ講和条約と主権回復をめぐり、日本ではどのような対立が生まれたのだろうか?

 
 1951年に吉田茂内閣のもとでサンフランシスコ平和条約を締結し、植民地であった朝鮮、台湾・澎湖諸島、南樺太、千島列島を放棄した。さらに奄美群島、小笠原諸島、沖縄をアメリカ合衆国の施政権下におくことを認めた。

 この条約によって日本は主権を回復したが、同時に締結された日米安全保障条約では、日本国内におけるアメリカ軍の駐留が認められることとなり、日本の再軍備も認められた。沖縄や小笠原諸島はアメリカの施政権下におかれ、とくに沖縄に多数の米軍基地が置かれることとなった。

 1950年代には、アメリカ軍基地に反対する闘争が、石川県の内灘うちなだや、東京都の砂川|《すながわ》で高まった。




 とくに日米行政協定において、アメリカ軍人・軍属が刑事裁判をおこしたばあい、裁判の管轄権はアメリカにあったことに、日本政府は強く反発。1953年に日米行政協定は修正さられ、裁判管轄権はNATO(北大西洋条約機構)軍と同様、公務執行中の事件に限定されることになった。この規定はのち、1960年の新たな日米安全保障条約締結の際にかわって結ばれた日米地位協定にうけつがれている。



 なお、朝鮮戦争により生まれたアメリカ軍向けの物資や役務の需要は特需とよばれ、日本経済の復興のきっかけとなった。


資料 吉田茂首相の施政方針演説(1954年1月23日)
(前略)隣邦諸国を顧みますれば、中国の政情はなはだ安定を欠いておるのみならず、その外交関係はしきりに粉糾を加え、東南アジアもまた共産分子の活動に非常な脅威を感じておるのであります。極東の平和のために、まことに憂うべき事態であります。この間、ひとりわが国は、復興再建の曙光に一層の希望を抱き、新年を迎えて新日本建設の決意を新たにするの状あるは、まことに邦家の大慶であるのであります。国民は講和実現、国家の復興、東洋の平和のために相率いてます\/努力をいたすべきときと私は信ずるのであります。幸いに講和条約成り、国際団体の一員として再び国際間に活動の自由を得るにおきましては、国民は一段と矜持を高むるとともに、新たなる希望に燃えて、政治経済活動に一層の光彩を添うることと考えます。その機会の一日もすみやかに至らんことを私は切望いたしてやまないものであります。(後略)

データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pm/19500123.SWJ.html


 こうして東アジアも、アメリカ合衆国による安全保障体制下に組み込まれていくこととなったのだが、サンフランシスコ講和会議には中華民国と中華人民共和国は招かれていないし、インドやソ連も不参加あるいは署名しなかった。

 したがって、こうした諸国との平和条約締結については、個別に対処していくほかなくなったが、冷戦の影響がアジアにもおよぶと、和解を積極的におこなう機会は失われていった。


 保守勢力はその調印を支持したが、日本社会党は全面講和を主張した左派と、講和を支持した右派に分裂した。
 安全保障条約についても、社会党左派・右派、共産党が反対し、保守勢力のなかでも国民民主党(のちの改進党)や、与党・自由党の鳩山一郎、岸信介らが条約の内容が対等ではないとして、憲法の改正や再軍備を唱えた。
 朝鮮戦争が起こると、海上警備隊(のち警備隊)が設置され、警察予備隊は保安隊に改組された。さらに1954年にはMSA協定(日米相互防衛援助協定などの4協定)が結ばれ、日本はアメリカの援助を受ける代わりに防衛力を増強することとなり、保安隊と警備隊を統合し、陸海空の自衛隊が発足した。



資料 サンフランシスコ講和会議でのフィリピン代表(カルロス・P・ロムロ将軍)の発言

(出典:『サン・フランシスコ会議議事録』外務省訳、1951年。https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/sf3_03.pdf

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/sf3_03.pdf



沖縄

サブ・サブ・クエスチョン
冷戦の進行は、沖縄にどのような影響を与えたのだろうか? また、日本本土のアメリカ軍基地と、沖縄のアメリカ軍基地の間には、どのような共通点・相違点があったのだろうか?

資料 沖縄の日本復帰期成会(1951年)
9月のサンフランシスコ平和条約調印に先立ち、1951年4月には米国民政府布告にうより琉球臨時中央政府が設立された。

これに対し、同じ4月には、日本復帰促進期成会が結成された。

http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/?attachment_id=18701&touch-device=true


(出典:沖縄県公文書館所蔵資料、https://www3.archives.pref.okinawa.jp/RDA/ryusei/R00000477B/index.html?title=政党に関する書類綴%201948年1月~&page=88

「会則によると、同会の目的は、「琉球の日本復帰促進のため琉球列島内に居住する二〇歳以上の男女の署名を作成して、関係方面へ陳情すること」で、趣意書には、「全面講和や基地提供反対等の主張をせず此の運動を単に琉球の帰属問題に局限する」とあります。」

https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/histories/1952/?vpage=2


 結果的に1952年4月に南西諸島は、日本本土と明確に区別され、アメリカによる施政権の下、琉球政府が樹立された。
 アメリカ軍は住民に十分な自治権をあたえなかったことから、日本への復帰運動がさかんとなった

https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/histories/1956/?vpage=1


 1953年には奄美のみ返還された。沖縄ではアメリカ軍基地を建設するために、強権的に土地接収が実施された。家を失う人々が相次ぎ、土地接収に対する激しい反対闘争がおこされた。1956年には島ぐるみ闘争と呼ばれる、一括払いの反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対の4原則を掲げた大規模な闘争がおきた。これをきっかけに土地接収の条件は見直されたものの、基地はその後も拡張されていった。

資料 琉球政府法務局総務課『プライス勧告とその反論 沖縄軍用地問題 四原則貫徹実践本部編集発行』(1956年)
まえがき
「軍用地問題は、沖縄における最も基本的な而も住民の日常生活に直結する問題であつて、これが根本的な解決なくしては住民の生活を維持し権利を全うすることは到底できない。従ってわれわれは、採算に亘り地料の適正補償及び毎年拂等所謂「土地問題に関する四原則」を堅持し且つ要望しつゞけてきたのであるが、今回突如としてブライス勧告を見るに至つたことは、まことに遺憾千万である。ブ勧告によると米国憲法の基本的要素である「文官優位」とは反対に「沖縄の場合、軍事的必要性が断固として優先する」と公言している以上、これはまさしくブ勧告の結論であると思われる。
そのために米国議会は治療の一括拂並びに新規接収を決定することは明らかである。
これは全く住民の意思を無視した非民主的行為であつてわれわれの絶対に容認できないところである。よつてわれわれは、あくまでも「四原則」貫徹のために断固たる決意を新たにし更に一糸乱れぬ住民組織を強化し、その態勢の上にたつて無抵抗の抵抗をつづけなければならない。そしてこの際、この抵抗は何か強力な思想的支えが絶対必要であると思われる。かつてガンジーが英国の印度植民地化政策に対して常に生命を賭して反対し、英国の人間的覚醒による印度解放を望みつゝ秩序を保ち、権威を発揮したためにその実現を見るに至つたことは実に彼の強力な思想をその支えとしていたからである。この時に臨み、われわれはこれにならい、鉄の団結をもつてこれに対処しあくまでもわが国土を死守すべきである。しかも事態は今その困難を堅く身につけたまゝ白日の下にさらされているが、この土地問題はどうしても勝たねばならない。よつてこの際、ブ勧告によつてもたらされた而もこれから派生する諸種の問題点を被れきし、又今後この問題に対するよりよき理解と協力を求めるために本書を発行することにした。
沖縄軍用地問題対策実践本部長 与儀達敏」


「1952年4月1日、米国民政府布告第13号「琉球政府の設立 / Establishment of the Government of the Ryukyu Islands」によって琉球政府が発足しました。琉球政府は、琉球における政治の全権を行うことができるものの、米国民政府の布告・布令・指令に従うこととされました。立法院議員は公選でしたが、行政主席(初代主席は比嘉秀平)は任命制であったため、自治権の拡大を目指す沖縄社会において、主席公選の実現が大きな課題となりました。(1968年に実現)」

https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/histories/1952/?vpage=2

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊