■冷戦の始まり
第二次世界大戦が終わった時点では、アメリカ・イギリス・ソ連の緊密な協力はその後も続くと期待され、国際連合や安全保障保障理事会に対する期待も大きかった。
資料 第二次世界大戦後のアメリカのコミック(1951年)
しかし、ポーランドにおける自由な選挙をソ連が行わなかったことをきっかけに、アメリカのトルーマン大統領はソ連のスターリンに疑いを抱くこととなる。結果的にポーランドには、国民はみずからが望む政府ではなく、ソ連の影響下にある政府が発足することになった。
まもなく米ソの対決姿勢が強まることとなり、とくに東西ヨーロッパをめぐる米ソの対立は「冷戦」(the Cold War)と呼ばれるようになった。
人々がその兆候を意識することとなったのは、1946年3月、イギリスの元首相チャーチルが、ヨーロッパを南北に走る「鉄のカーテン」が存在すると発言したことが大きい。
1947年初めにイギリスがそれまでおこなってきたギリシアとトルコに対する支援を打ち切ると、トルーマン大統領は、1947年に次の政策を表明する。
資料 「マーシャル・プラン」をめぐる風刺画(1947.6.27)
資料 信じるか、鞭打たれるか(『パンチ』1950年)
1949年、ドイツは東西ドイツに分かれて独立し、同年にはアメリカ、イギリス、フランスなどの西側諸国がNATO(北大西洋条約機構)を結成したのに対し、東側諸国はソ連を中心に経済相互援助会議(COMECON)を組織した。
冷戦が激化するとともに、西ヨーロッパ諸国は統合への動きを強めていった。
一方、アジア諸国では、各国内の勢力が、西側諸国と東側諸国の間に切り裂かれ、互いに対立して実際の戦い(熱戦)に至るケースも見られるようになった。
たとえば、中華民国では、連合国により常任理事国に認められた蒋介石率いる中国国民党と、ソ連の支援を受けた中国共産党との間に内戦が勃発。結果的に小作人の解放を主張して農村部で支持を固めた中国共産党が勝利し、1949年に中華人民共和国の成立を宣言した。
中華人民共和国は、1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、東側に立った。
内戦に敗れた蒋介石は台湾に移ることとなり、中華民国は、国連代表権を持っているにもかかわらず、中国本土を支配しえない状況が生まれた。
朝鮮半島でも、1948年に南北に2つの政府が樹立されていたが、1950年に北部の朝鮮民主主義人民共和国が北緯38度線をこえ、南部の大韓民国に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。
アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、すぐに韓国を防衛する方策をとった。国連の安全保障理事会は、北朝鮮軍の行動を侵略であると認め、その勧告のもとで、アメリカ軍を中心とする国連軍が派遣された。
北朝鮮側にはソ連、大韓民国側をアメリカが支援したほか、中華人民共和国からは、義勇軍が派遣された。
結果的に戦線は北緯38度線付近で膠着し、1953年に板門店で休戦協定が制定され、休戦状態は現在にまで続いている。
■日本の主権回復
占領政策の転換
1949年の中華人民共和国成立や1950年の朝鮮戦争勃発を受け、アメリカ合衆国政府は、日本を占領する目的を、経済復興と自立的な国家建設へと変更した。
財閥解体をゆるめるとともに、官公庁の労働者の争議権がGHQの命令によって奪われた。
経済面では、日本の国際的競争力を高めるため、銀行家のドッジを日本に派遣し、財政支出を大幅に削ることでインフレーションをおさえようとした。また、1ドル=360円の単一為替レートが設けられた。金融引き締めによりインフレーションはおさまったが、不況が深刻化した。
また、アメリカは、日本を再軍備させることで、共産主義の防壁としようと企図するようになった。1950年にはGHQの支持で、官公庁・民間企業で共産主義者を追放(レッド・パージ)するとともに、公職追放の解除も始まった。また、同年GHQは日本政府に治安部隊として警察予備隊を組織させている。
1951年に吉田茂内閣のもとでサンフランシスコ平和条約を締結し、植民地であった朝鮮、台湾・澎湖諸島、南樺太、千島列島を放棄した。さらに奄美群島、小笠原諸島、沖縄をアメリカ合衆国の施政権下におくことを認めた。
この条約によって日本は主権を回復したが、同時に締結された日米安全保障条約では、日本国内におけるアメリカ軍の駐留が認められることとなり、日本の再軍備も認められた。沖縄や小笠原諸島はアメリカの施政権下におかれ、とくに沖縄に多数の米軍基地が置かれることとなった。
1950年代には、アメリカ軍基地に反対する闘争が、石川県の内灘や、東京都の砂川|《すながわ》で高まった。
とくに日米行政協定において、アメリカ軍人・軍属が刑事裁判をおこしたばあい、裁判の管轄権はアメリカにあったことに、日本政府は強く反発。1953年に日米行政協定は修正さられ、裁判管轄権はNATO(北大西洋条約機構)軍と同様、公務執行中の事件に限定されることになった。この規定はのち、1960年の新たな日米安全保障条約締結の際にかわって結ばれた日米地位協定にうけつがれている。
なお、朝鮮戦争により生まれたアメリカ軍向けの物資や役務の需要は特需とよばれ、日本経済の復興のきっかけとなった。
こうして東アジアも、アメリカ合衆国による安全保障体制下に組み込まれていくこととなったのだが、サンフランシスコ講和会議には中華民国と中華人民共和国は招かれていないし、インドやソ連も不参加あるいは署名しなかった。
したがって、こうした諸国との平和条約締結については、個別に対処していくほかなくなったが、冷戦の影響がアジアにもおよぶと、和解を積極的におこなう機会は失われていった。
保守勢力はその調印を支持したが、日本社会党は全面講和を主張した左派と、講和を支持した右派に分裂した。
安全保障条約についても、社会党左派・右派、共産党が反対し、保守勢力のなかでも国民民主党(のちの改進党)や、与党・自由党の鳩山一郎、岸信介らが条約の内容が対等ではないとして、憲法の改正や再軍備を唱えた。
朝鮮戦争が起こると、海上警備隊(のち警備隊)が設置され、警察予備隊は保安隊に改組された。さらに1954年にはMSA協定(日米相互防衛援助協定などの4協定)が結ばれ、日本はアメリカの援助を受ける代わりに防衛力を増強することとなり、保安隊と警備隊を統合し、陸海空の自衛隊が発足した。
資料 サンフランシスコ講和会議でのフィリピン代表(カルロス・P・ロムロ将軍)の発言
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/sf3_03.pdf
沖縄
資料 沖縄の日本復帰期成会(1951年)
9月のサンフランシスコ平和条約調印に先立ち、1951年4月には米国民政府布告にうより琉球臨時中央政府が設立された。
これに対し、同じ4月には、日本復帰促進期成会が結成された。
結果的に1952年4月に南西諸島は、日本本土と明確に区別され、アメリカによる施政権の下、琉球政府が樹立された。
アメリカ軍は住民に十分な自治権をあたえなかったことから、日本への復帰運動がさかんとなった
https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/histories/1956/?vpage=1
1953年には奄美のみ返還された。沖縄ではアメリカ軍基地を建設するために、強権的に土地接収が実施された。家を失う人々が相次ぎ、土地接収に対する激しい反対闘争がおこされた。1956年には島ぐるみ闘争と呼ばれる、一括払いの反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対の4原則を掲げた大規模な闘争がおきた。これをきっかけに土地接収の条件は見直されたものの、基地はその後も拡張されていった。