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15.1.3 中華人民共和国の成立と朝鮮の分断 世界史の教科書を最初から最後まで

第二次世界大戦の最終局面において,ソ連は満洲・千島列島・南樺太を占領した。

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すでに,アメリカ合衆国とソ連の,東アジアの覇権をめぐる角逐がはじまっていた。

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1945年8月,日本の朝鮮総督府は,ソウルにまでソ連が南下することを恐れ,民族運動家に治安維持を任せる動きをみせていた。
アメリカ合衆国もソ連が朝鮮半島を全部占領してしまうことを恐れ,8月16日に「北緯38度線」をソ連とアメリカによる占領の分割線にしようと提案したようだ。

しかし結局,日本が植民地化していた朝鮮は,北緯38度線以北はソ連,以南はアメリカが占領。


8月中には北朝鮮と南朝鮮における日本軍の武装解除が完了し,1945年中には当時の朝鮮半島にいた日本の民間人・軍人の「引き揚げ」がほぼ完了した。


一方,1943年に〈蒋介石〉が出席していたカイロ会談カイロ宣言,朝鮮は「自由且独立ノモノタラシムル(自由で独立のものにさせる)」とされていたのを覚えているだろうか。

この宣言の内容をたよりに,朝鮮総督府から治安維持を任された朝鮮人の独立運動家は,8月15日に朝鮮建国準備委員会を設立。
しかし委員会の中身はというと,左派から右派までの寄せ集め。分裂を経て,9月に「朝鮮人民共和国」の建国が宣言された。

ここでは当時アメリカ合衆国に滞在していた〈李承晩〉(イスンマン;りしょうばん)が主席に選ばれたのだが,アメリカ合衆国もソ連もこの国家を承認せず,“幻”の統一国家となった。


すでにゲームは,アメリカとソ連が握っていたのだ。

ソ連とアメリカ合衆国は北朝鮮と南朝鮮に,それぞれ支配を及ぼそうとしていた。
1945年12月のモスクワ外相会議(米・英・ソ)において,朝鮮の信託統治(国連の取り決めによって,一定期間,住民を代わりに統治すること)と,その後の「朝鮮民主主義臨時政府」樹立のプランが検討される。

それに対し,中国の重慶で臨時政府を築いていた〈金九〉(キムグ)は信託統治に反対,それに朝鮮共産党も反対した。


しかし,冷戦の激化にともない,その後のアメリカ合衆国とソ連の話し合いは決裂が続き,南朝鮮におけるアメリカ軍政庁による共産党の弾圧や,ソ連の支援する共産党の活動も激しくなっていく。

インフレと食料不足により南朝鮮では大規模な民衆暴動が起きる中,〈李承晩〉はアメリカの軍政と共産主義に反対しつつ北朝鮮を除き「南朝鮮」だけの独立を主張するようになった。

一方,北朝鮮では,「満洲で抗日パルチザン部隊を指導した」という“伝説”によりなかば理想化された〈金日成〉(キムイルソン,1912~1994)が,朝鮮共産党北部朝鮮分局(のち北朝鮮労働党)における頭角を現し,1946年に北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任する。

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彼は実際には中国共産党の東北人民軍幹部として戦っていたとされ,「「聖地白頭山(ペクトゥサン)で生まれた」とされる息子の〈金正日〉(キム・ジョンイル)は,実際には父の軍事訓練時代に沿海州のハバロフスク近郊で生まれたという。
“革命のために命を捧げて戦った”という伝説や,朝鮮人・女真人の発祥の地である“聖地”白頭山で生まれたという神話は,その後の〈金日成〉・〈金正日〉の指導体制における個人崇拝の中でつくられていったものだ。


人民委員会は小作農に土地を分け与えつつ,アメリカ合衆国の軍政下に置かれている南朝鮮の解放を目指すことに。
1947年に北朝鮮人民会議と北朝鮮人民委員会が組織されると,北朝鮮には南朝鮮とは別個の政権が事実上成立することとなった。


これが,現在の北朝鮮と韓国の原型だ。


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というわけで、国連の信託統治案にはすっかり現実味がなくなっていた1947年秋,国連総会で南北朝鮮で総選挙を実施するべきとの提案が可決された

しかしこれを受け,アメリカ合衆国は南朝鮮単独で選挙を実施,1948年8月15日に大韓民国(韓国)の建国が宣言される。


憲法公布後に〈李承晩〉(イ=スンマン;りしょうばん,1875~1965)が大統領に選ばれた。
なお,南朝鮮だけの単独選挙に対し〈金九〉(キム=グ;きんきゅう,1876~1949)は,北朝鮮の〈金日成〉らと提携して統一朝鮮の樹立を目指たが挫折,1949年に暗殺されている


一方,1948年2月には朝鮮人民軍が創設,9月ににソ連軍にバックアップされる形で〈金日成〉(キム=イルソン) が朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言した。

こうして朝鮮半島の北部にソ連の後押しを受けた社会主義国家が誕生したことに,アメリカの政権首脳は衝撃を受ける。
1948~1949年までにソ連・アメリカ合衆国軍は朝鮮半島から撤退したが,ソ連・中華人民共和国の支援を受けた北朝鮮の軍事力が増強されていった。



中国の国共内戦


戦争中,中国では“共通の敵”である日本に対して,国民党と共産党とがタッグを組んで戦った(第二次国共合作)。

とはいえ,そもそも国民党が支持基盤としていたのは,沿岸部の工業地帯に過ぎず,貧しい内陸部のほとんどは,共産党にとっての潜在的な支持基盤だった(すでに清朝中頃以来,貧しい内陸部と豊かな沿岸部という対立構図ができあがり,今に至るのだ)。

日本軍が占領したエリアは,満洲+沿岸部,いずれも工業地帯。広大な農村部で戦う余裕はなく,共産党の攻勢によって追い込まれ,敗戦となった。

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第二次世界大戦集結時の日本軍の支配エリア(タテ線は中国共産党の拠点)


その後,一時的に成立した停戦が崩れると,国共内戦に突入。

富裕層である財閥に支持されていた〈蒋介石〉(1887~1975)の国民党政権に対して,農村部の貧困層に支持されていた〈毛沢東〉(1893~1976)率いる中国共産党が攻勢を強めていった。

「お金持ちには貧乏人の気持ちがわからない!」「政治にカネが絡んでいる!」という批判も強まり,国民党政権の支持は下がっていった。

史料 台湾の教科書の一つより

「台湾は50年間の日本統治を受け、人々の生活、文化は日本的な色彩を帯びていたが、8年にわたる抗日戦争を経て来た接収要因は、反日感情と戦勝国意識を持っており、それらを「奴隷化」支配の害毒だとして、払拭に躍起となった。
しかし一方の台湾の人々は、当時のアジアでは上位を占める教育レベルを持ち、しかも公務は法に基づいて行われるべきだという考えがあったため、政府の政策や官吏の態度、そして行政の「人治」ぶりには納得できなかった。」

薛化元編(永山英樹・訳)『詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書』雄山閣、2020年、169頁。


〈毛沢東〉は 「中国には中国の共産主義のやり方がある!農民と労働者は,手を組むことができるはずだ!」という新民主主義論を主張して,中国の農村部を中心に「解放区」(共産党の支配地域)を増やしていった。
国民党の支配から人民を解放するために、農村から都市を囲い込むという戦術だ。

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第二次世界大戦中から,連合国は中国で社会主義革命が起きないように,〈蒋介石〉の国民党政権を政府と認め,これを援助してきた。


アメリカのトルーマン政権も,毛沢東が政権をとるわけがなかろうと,楽観的な見方をしていた。

しかし,1949年に〈蒋介石〉は台湾島に逃げ,〈毛沢東〉が北京を首都とする中華人民共和国を宣言

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これにより,国連の五大国の一つでありながら,中華民国政府は中国本土を支配することができないという状況になってしまうのだ。




〈毛沢東〉は国家主席,〈周恩来〉が首相(正式には国務院総理)という役職に就任。

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周恩来(動画は1965年のもの)



内戦に敗れた〈蒋介石〉の国民党政権は,台湾に渡って,政権を維持することになった(台湾)。

清の宮殿である紫禁城(しきんじょう)にあった宝物や文化財は,〈蒋介石〉によって南京や四川に運び出されていたが,国共内戦が始まると一部は台湾に移送されたため,現在では主に北京の故宮博物院と台湾・台北の国立故宮博物院に分かれて保管されている。

当時はまだ日本国籍をもっていた台湾にいた中国人は,蒋介石ら国民党政権のに抵抗。それを国民党政権が厳しく弾圧し,多くの人が犠牲となった(2・28時事件)。
以来1987年までの間,台湾では戒厳令(非常事態宣言)が発令され続けることになるよ。


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台湾の国立故宮博物院には,周代の青銅器,南宋代の龍泉窯(りゅうせんよう)の青磁,明代にイスラーム諸国向けに輸出されたペルシア語入の染付(そめつけ,青花)の青花波斯文蓮花盤,清代では豚肉の煮込みそっくりの肉形石や,白菜そっくりのヒスイ製の翠玉白菜(すいぎょくはくさい)などが展示されている)。

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成立後の中華人民共和国では,1950年に土地改革法によって地主制を廃止
戦争中には日本と日ソ中立条約を結ぶなど敵対勢力であったソ連との間に,1950年,中ソ友好同盟相互援助条約(1950発足,1980解消)を結んだ。

建国時の中華人民共和国は,ソ連をパートナーとして選んだのだ。相互援助条約とは敵国(“敵国”は日本とその同盟国と想定されていました)から進出を受けたら,相互に援助することを約束した条約のことだ。
なお,このとき〈毛沢東〉は,モスクワのクレムリン(ソ連共産党の中枢があるロシア帝国時代の宮殿)の〈スターリン〉(1878~1953)に直々に会いに行っている。



朝鮮戦争

1949年の中華人民共和国の成立を見た朝鮮民主主義人民共和国の〈金日成〉(キム=イルソン,きんにっせい,1912~94,首相48~72・国家主席72~94,朝鮮人民軍最高司令官50~91,朝鮮労働党中央委員会委員長49~66・総書記66~94)は,この勢いで朝鮮半島の統一を目論(もくろ)んだ。


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〈金日成〉の朝鮮民主主義人民共和国は南の大韓民国に対し1950年6月25日に軍事進出し,ソウルを占領。瞬く間に朝鮮半島南部のプサン(釜山)に到達しました (1950~53,朝鮮戦争)。




この事態を受け,連合国を中心とする集団的安全保障機関である国際連合の出番がやってきた。
侵略行為をした北朝鮮に対し,アメリカの〈トルーマン〉大統領は安全保障理事会の招集を要求し,武力制裁を提案。


イギリスとフランスは1949年に成立していたNATO(ナトー,北大西洋条約機構)の加盟国でもあるし,中華民国の〈蒋介石〉政権も同じ連合国側の立場のアメリカの意見に同調。


それに対しソ連は,安全保障理事会を「欠席」。五大国には拒否権があるので,1か国でも反対すれば安全保障理事会の決議は成り立たないわけだが,ソ連は「欠席」したわけなので拒否権を発動したわけではなかった(朝鮮戦争の際、ソ連は拒否権を発動した)。


結局ソ連抜きで決議は可決され,アメリカ軍を主体とする「国連軍」が組織されました。国際連合憲章の7章には,「平和に対する脅威,平和の破壊及び進出行為に関する行動」という項目があって,本来は安全保障理事会が指揮をとることになっているのですが,ソ連が出席していない中での可決という例外事態がいきなり発生してしまったこともあり,アメリカ軍が指揮をとることになりました。
そんなイレギュラーな事情で編成された軍なので、カッコ(「 」)つきの「国連軍」と表すのだ。


当時,日本を占領していた在日アメリカ軍や,フィリピンとタイも派兵している。
アメリカ合衆国軍はまず7月1日に南部の釜山(プサン)をに上陸し,連合国軍最高司令官の〈マッカーサー〉率いる「国連軍」の派遣も7月7日に決定。


しかし北朝鮮は8月18日に釜山を占領し,朝鮮半島のほぼ全域をおさえた。


しかし,9月15日に「国連軍」は,ソウル(6月28日に北朝鮮が占領)に近い仁川(じんせん,インチョン)への上陸作戦を成功させ,

9月28日にソウルを奪回。朝鮮民主主義人民共和国は北へ北へと追い詰められる。


無抵抗な市民が犠牲となったことを主題に,立体派の画家〈ピカソ〉は「朝鮮の虐殺」(1951)を描いている。


「国連軍」は朝鮮半島を北上。

すると,その先に待ち構えるのは中華人民共和国だよね。

しかし,中華人民共和国は正式に参戦することはなく,代わりに100万人もの「義勇軍」という名目の軍が派遣された


建国間もない中華人民共和国は,正面切ってアメリカ相手に戦うのを避けたのだ。



しかしその後,ソ連の最高指導者〈スターリン〉が死去(1953年)。
これをきっかけに,1953年7月に板門店(はんもんてん,パンムンジョム)で朝鮮休戦協定が結ばれた。


板門店は北緯38度上にある。
南北の軍事境界線は“ほぼほぼ”北緯38度線上に設定された方(一直線ではない)。


締結時のアメリカ合衆国大統領は〈アイゼンハウアー〉,

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ソ連は〈フルシチョフ〉第一書記だ。

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1953年10月にはアメリカ合衆国が韓国との間に米韓相互防衛条約を結び,米韓同盟を発足させている。



この間,大韓民国の〈李承晩〉は大統領に権限を集中させる新憲法を公布し,1952年に直接選挙により大統領に就任。
1952年には「海洋主権宣言」を発表し,一方的に設定した李承晩ラインの内側の漁業管轄権を主張し,ラインを超えた日本漁船を拿捕(だほ)する強硬策に出た。



経済的には朝鮮戦争中に激しいインフレが起き,1950年に経済を安定させるために韓国銀行(朝鮮銀行から改称)の権限を強化し1952年にはデノミネーション(通貨単位の変更)も行っている



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊