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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑬ 600年〜800年の世界

いったんバラバラになった世界が再びまとまる時代①


―この時代のユーラシア大陸では、いったんバラバラになった国が、新しい秩序によって再びまとまっていくことになる。

「新しい秩序」ってなんですか?

―前の時代にはユーラシア大陸の各地に遊牧民が移住していったよね。

この時代にユーラシア大陸東部で勢力を誇っていたトルコ系民族(現在のキルギス(Daily Sabahより))


どうして移住して行ったんでしたっけ?

ー環境の変化や人口の増加が背景にあるよ。

 彼ら遊牧民は厳しい環境ゆえ、同じ場所に定住して生活することができない。
 降水量が少ないために、農業をすることができないからだ。


 農業のできるところはどこにあるかというと、もう少し温暖で降水量に恵まれ、けわしい山脈のふもとにある湧き水(オアシス)や、大きな湖や川の流れるところだ。


でも、移動先には定住民がいますよね?

ーそうそう。
 定住民にも長い歴史の積み重ねがあり、知識・情報・技術・生産力の上では遊牧民はとうていかなわないわけだ。
 だからケンカばっかりしているわけにはいかないし、お互いそれぞれ強みも弱みもある。


定住民の弱みは何でしょう?

ーたとえば「感染症」だ。
 ずっと同じところで生活するわけだからね。遊牧民との交流が活発になればなるほど、別のところで流行っていた病気が広まるおそれもあった。


遊牧民と農耕民のコンタクトが強まると問題も起きそうですね。

ーまったくの異文化だものね。

 そもそも、前の時代に発展した定住民の国家は、前の時期にいったんバラバラになっていたよ。
 定住民どうしの争いが各地で増える中、優れた軍事力を持つ助っ人として採用されたのが遊牧民だ


遊牧民には馬がありますもんね。

ーでも、軍事力を武器に、しだいに遊牧民が定住民の組織で上り詰めていく現象も起きる。


あら。じゃあ、定住民のところで遊牧民的な国をつくっていったわけですか。


ーううん。
 遊牧民のやり方を定住民に押し付けようとしても、うまくいかないよね。
 これからはテントで寝るように!っていっても困るでしょ(笑)



 つまり、新しい支配の仕組みをつくっていくにあたっては、従来の遊牧民の常識も定住民の常識も通用しない。
 どちらも「納得」するような新しい仕組み、あるいは、それぞれの共存が可能になる新しい仕組み必要になる。
 「不公平だ」と感じる人が多くても社会はギクシャクするし、支配するのに都合が悪くなっても困る。


っていうか、そもそも定住民は遊牧民が来ないようにシャットアウトすればいいじゃないですか。そうすれば平和に…。

ーそうもいかない事情があってね。

 これを見て。
 定住民の暮らす農耕エリアは、ユーラシア大陸の南部沿岸地方に分布しているのがわかるよね。

この地図の「緑色」の部分が農耕に適するエリアだ。

 それぞれの農耕エリアには、それぞれの特産物がある。
 つまり、中国でとれる物がインドでとれるとは限らない。
 ということは、中国でとれた物をインドに持って行き、それがインドで「価値のあるもの」として認められれば、”もうけ”を得ることができるわけだ。


なるほど。商売ができるわけですね。

ーでも困ったことに、異なる農耕エリアの間にはきまって乾燥エリアが立ちはだかっているんだ。
 例えば中国とインドの間には、雨がほとんど降らないタリム盆地(タクラマカン砂漠)が立ちはだかっている。
 人が全く住めないわけではなく、周辺の高山からの雪解け水が地下水となって湧き出た場所(オアシス)が点々としていて、そこにさまざまな出身地から来た人が集まるようになっていった。

 こうした都市と都市は、複雑な人間関係によって結ばれ、やがてユーラシア大陸を貫通する「道」となっていった。
 これをシルクロードと言ったよね。

ーその乾燥エリアから少し北に移動すると「農業はできないけど、草なら生える」エリア(注:ステップ)が広がっている。



 ここが遊牧民の主戦場だ。

 遊牧民は農業ができないかわりに、移動手段である馬や牛といった家畜を商品として売ることができるよね。

 さらに武力を使って商人たちのSPになることだってできる。

 一歩すすんで、商人の集まる都市の支配に手を出すことだってあったんだ。


ユーラシア大陸では人や物の流れがどんどんさかんになっていったんですね。

ーそう。だから、遊牧民と農耕民が出会うのは必然だった。
 そして、彼らの接触する地点、つまり遊牧エリア(乾燥エリア)と定住エリア(農業エリア)の「」に、強力な国が生まれることになっていくわけだ。

 こうした国はユーラシア大陸を東西(北を上にした地図では左右)に移動するぜいたく品中心の遠距離交易をおさえることに躍起になった。

でも遊牧民と農耕民という異質なキャラをミックスするって、なかなか難しいですね。

―だよね、特定の民族や文化だけに限られるような仕組みでも困るしね。
 民族や場所に関わりなく、なるべく多くの住民が「共感」するようなストーリーが必要になるわけだ。

 その例が、キリスト教、イスラーム教、マニ教、仏教といった宗教だよ。いずれも特定の民族や場所を超え、ユーラシア大陸の広い範囲に広まった宗教だ。


 詳しくは地域別にみていくことにしよう。



◆600年~800年のアメリカ

―北アメリカで南西部の乾燥エリア(注:フレモントモゴヨンホホカム)でトウモロコシなどの農作物の栽培が発展して人口が増え、大きな町が発展するようになった。

 でも南部のマヤ地方では今まで栄えていた都市が見放され、中心都市は別の場所に移動している。


 現在のメキシコの高原にあった大都市も衰退した。
 開発のしすぎが環境破壊につながり、資源の取り合いになったと考えられているよ。

 南アメリカのアンデス山脈には広い範囲を支配するリーダー(注:ワリ王国ティワナク王国)も現れている。


ユーラシア大陸のようにエリアを超えた交流はあったんですか?

ーマヤ地方でしかとれない鉱物が、現在のアメリカ合衆国南西部の遺跡で見つかるなど、南北交流がなかったわけではない。

 でも、交流にとってネックとなることが3つある。

 1つは移動手段に適した家畜の不在。

 2つ目は船での移動を容易にする季節風の不在。

 3つ目としては、南北に移動しようとすると、気候区分が激しく変わってしまうこと。

赤は熱帯雨林気候、濃いオレンジ=サバナ気候。ピンク=砂漠気候、オレンジ=乾燥した草原。茶色=夏乾燥・冬に雨降る。薄い緑=冬でも温暖な気候。濃い緑=亜熱帯。灰色=高山気候。


 また、南北に山脈が走り、大河がないために平野部が少なく、また海岸沿いに平地を移動しようとしても熱帯気候のためにマングローブ林などが行く手を阻む。

そういうわけで、ユーラシア大陸ほどには交流が盛んにはならなかったんですね。


◆600年~800年のオセアニア

―太平洋ではポリネシア人が東へ東へと拡大し、なんとハワイやイースター島にまで到着している。


そんなに遠くまで!?


ーポリネシア人は人類史上もっとも広い範囲に拡大した民族といわれているよ。

 そのまま南アメリカにたどり着いた人もいたのではないかともいわれている。オセアニアの島々で南アメリカにしかなかったサツマイモが見つかっているからだ。




◆600年~800年の中央ユーラシア

遊牧民たちの活動はどんな感じですか?

―この時代には定住民エリアに大きな国がつくられていくんだけど、負けず劣らず遊牧民の草原地帯にも大きな「まとまり」ができているよ。

 ユーラシア大陸の東のほうでは、トルコ系の言葉を話す民族が大連合を形成していて、貿易ルートをめぐって中国と戦っている。


じゃあ草原地帯はトルコ語が話せなければやっていけないってことですか?

―そんなことはない。
 遠距離間のビジネスで活躍していたのは、イラン系のソグド人という民族だ。彼らは西アジアから中国にいたるまで各地に支店を張り巡らせていたプロ貿易グループ(注:ソグド人)だ。
 ユーラシア東西をつなぐ長距離交易をスムーズにおこなおうとすれば、彼らのネットワークを頼るしかない。
 そう考えた乾燥エリアの有力者は、このプロ貿易グループを保護下に置くように。
 ユーラシア大陸各地に拠点がつくられるようになった。

下図でいうと、黄色の矢印がタリム盆地のオアシス都市国家をリンクするルートにあたる。その北の赤色矢印を生活エリアとする遊牧民は、しばしば黄色ルートに進出し、プロ貿易集団(注:ソグド人)と”もちつもたれつ”の業務提携関係を築くようになっていく。



◆600年~800年のアジア

◇600年~800年のアジア  東アジア

―東アジアでは、遊牧民が「中国人」化したグループが、中国の分裂状態にピリオドを打ち新しい王国を完成させた。国の名前を隋(ずい)というよ。 

 隋は従来の支配システムを受け継いで強国を目指したけど、厳しい支配に対して反乱が起き、これをおさめた王族が唐(とう)という国を建国した。
 唐もやはり遊牧民が「中国人」化したグループだ。 
 唐は西の砂漠エリアにも進出し、朝鮮やベトナム、山岳地帯にも影響を及ぼした。
 この頃、朝鮮に進出しようとした日本は唐にブロックされ、その拠点を失っているよ。




◇600年~800年のアジア  東南アジア

東南アジアは、農耕エリアのインドと中国の「間」ですから、貿易が盛んなんですよね。

―そうだよ。
 季節風を利用する貿易だったよね。

 でもこの時期にはそのメインルートが変更するんだ。
 東南アジアからインドのほうに渡るには、いままではマレー半島の港で一旦降りて、山を渡って向こう側に人やモノを運んでいくのが主流だった。
 でも船の技術がレベルアップして、マレー半島の先っぽをまわるルートが実用化されるようになったよ。


 すると今までは人がよりつかなかった現在のインドネシアの島々にも、貿易ルートや貿易品をコントロールしようとする支配者が現れるようになった。



支配者はどうやって人々を「納得」させようとしたんでしょうか?

―貿易の中心地だから、インド人や中国人などさまざまな人たちがやってくるよね。だから海外からの刺激を強く受けたわけだ。
 インドネシアでは特にインドの影響を受け、「仏教」の「すごいところ」「カッコいいところ」が取り入れられ、王様の支配に利用されるようになるよ。
 当時の中国のお坊さんの中には、インドに「オリジナルのお経」を探しに行った帰りに、インドネシアの島にあったお坊さんの大学で、多くの学生さんたちと一緒に仏教の研究をした人もいる。


貿易ルートをめぐって戦争にならなかったんでしょうか?

―起きた起きた。
 とくにユーラシア大陸のほうのベトナムやカンボジアの港町の国と、現在のインドネシアが位置する島々の王様たちとの間は仲が悪かった。
 これら国々は重要な取引先である中国との関係を良くするために、中国の皇帝にちゃんとした使節を送って「貿易をする権利」を獲得しようとしたんだ。
 当時の中国は、周辺の国に位を与えて「家来」にすることで、はじめてちゃんと貿易することができるというルールをもうけていたんだよ。


なんでそんなめんどくさいことするんですか?

―事実上、このエリアでもっとも強い軍事力を持っているのが中国だからだ。

    農民たちを軍隊として採用するシステムを整備していた(注:府兵制)。
   
    また、経済的にも強い力を持っている。
    軍事力を背景に、その農民たちが生産する農産物・畜産物、また各地でとれる鉱産物を集めることが可能だったからだ。


なるほど、周りの国としても、そんな中国に歯向かっていたららちがあきませんね。

ー歯向かったら武力行使されるおそれもあるからね。
    しかも中国には魅力的な特産品が、陸からも海からも集まる。
    ぜひとも取引したいところだ。

    中国の皇帝にとっても、長江と黄河の2つの流域をおさめるだけでもひと苦労のところ、それ以外のエリアまでおさめる余裕なんてさらさらないわけ。

    周りの国が中国に敵意を持つような関係よりも、適度ににらみをきかせながら、上下関係のある提携関係が結ばれていた方が安心でしょ。


たしかに。でもどうやって周りの国を従わせたんですか?

ー周辺エリアの王様が仮に「皇帝の言うことなんでも聞きます!」って名乗り出てきたとしよう。

    でも、その数年後、その王様が別の有力者に倒され、代わって王様になってしまう可能性だってあるよね。

    そうしたらまた「ゼロ」から関係を築かなければならない。

    その王様が本当に力のある人物なのか?
    中国との外交ルールがしっかりわかっているのか?


じゃあ、外交のルールを決めておく必要がありますね。

ー例えば、学校で各部活の部長が集まる会議が開かれたとしよう。

    そこに一般の部員が出席するのは、ちょっと場違いな感じがするかもしれないね。

    会社の社長が集まる会議に平社員が出席したら、その人は周りの社長からちゃんと相手にしてもらえると思う?


難しいかもしれませんね…。

ー外交にも同じようなルールがあってね、ある一定のポジションに就いている人と話すためには、それ相応のポジションの人でないと相手にとって「失礼な話」になりかねないわけだ。

    つまりね。中国と外交しようと思ったら、その国の組織にも、中国の国家組織のランクと同じようなランクをつくらなきゃならないよね。
    そうしないと「お前はどれくらいのランクなんだ?」っていうことがわからなくなってしまうからね。

    この時代、奈良県を拠点とする日本(注:当時は中国から「倭」(わ)と呼ばれていた)も中国との外交をスタートさせるため、

     このように、この時代には以上のような国際関係のしくみ(注:冊封(さくほう)体制)が中国を中心とする各国によって共有されていったわけだ。
    中国から「お墨付き」を得た国によってコントロールされていたほうが「平和」になるでしょ。


まるで中国が「国家を承認」しているみたいですね。

ーたしかにそうだね。
    内戦状況のため複数の支配者が並び立って別々に貿易を中国に求めてきたら、それはそれで争いのもとだからね。
    「ベトナムではあんたが一番偉い」「日本ではあんたが一番強い」っていうように窓口を指定することで、効率よく地域の秩序をコントロールしようとしたんだよ。


◇600年~800年のアジア  南アジア

南アジアはどうですか?

―バラバラの状態の続いていた南アジアでは、北インドが一時期統一されたけど、基本的には地方によってバラバラの政権が建てられる。
 地方色の強いバラエティの豊かさが、インドの特徴だ。

 この時期にも中国から「本物のお経」を求めにお坊さんがやってくるけど、一般人は基本的に地元の神様を信じているよ。神様はたくさんいるけど、人気のある「推し神」は限られている(注:シヴァなど)。


インドの神々を中心とする信仰によってまとまっていたわけですね。

ーそうだね。土地ごとに支配者も言葉もバラバラだけど、似通った文化を共有していたんだ。
    インドには「15マイルごとに方言が変わり、25マイルごとにカレーの味が変わる。 100マイル行けば言葉が変わる」ということわざがあるそうだ(笑)。今のインドのルーツとも言えるよね。えるよね。



◇600年~800年のアジア  西アジア

―アラビア半島っていう乾燥エリアがあるよね。古来、ラクダを連れた遊牧民が暮らす”のんびりとした”ところだったんだけれども、沿岸地帯にいろんな国からビジネスマンが入り込むようになると、そういうわけにもいかなくなっていった。



「お金なしには生きていけない」社会になっていったんですかね。
―そうだね。そもそもユーラシア大陸の貿易ルートは、地中海~シリア(地図)~イラク(地図)~イラン(地図)のルートがメインルートだったんだけど、このころ東に分かれたほうのローマとペルシアとの間で戦いが絶えない状況になっていて、海を通ってアラビア半島の南側にまわらざるをえなくなっていたんだ。 

 特に大きな都市では、人間関係よりもお金の関係が優先されるようになっていった。
 「不公平だ」という意識は、いつの時代でも社会を変えるパワーになる。 

 このときに立ち上がったのはお金持ちの家柄の人物で、「これからはみんなが平等で平和にやっていける世の中の仕組みをつくろう」と訴えたんだ。


お金持ち出身ってすごいですね。

―そうだね。みんなが平等で平和にやっていくには、「そもそもこの世界のすべてが神様によってつくられ、その終わりに向かってすべてが定められている」ってことを認めることからはじめようじゃないかと訴えた。

その「神」ってどんな神ですか?新しくつくった神なんですか?
―彼によるとその神は、ユダヤ教徒やキリスト教の神と同じ神だ。でもユダヤ教徒にしろキリスト教徒にしろ、彼らは神について正しく理解できていなかったというんだ。

 アラビア半島の人たちは自分たちが「ど田舎」だっていう劣等感を持っていたんだけど、これからはこの神をまつるために、ユダヤ教徒やキリスト教徒のマネをする必要はない! これからはアラビア半島の大都市メッカにある神殿に向かって祈ればいいんだ! と主張したんだ。


じゃあ、彼の考えはアラビア半島の人向けってことですかね?

―そういうわけでもないよ。人間は神の下では平等なんだという考えには、場所を選ばれずに信仰される要素があったからね。
 それに、ユダヤ教徒やキリスト教徒などに対しても、存在を認めなかったり弾圧をしたりということはしなかったんだ。
 だからこそ彼の考えはアラビア半島の遊牧民にしだいに受け入れられ、短期間のうちに広まっていくことになる。
 この新たな宗教をイスラーム教というよ。



開祖が亡くなると、「代理」が信者の選挙で選ばれたけど、「誰を代表にするべきか」をめぐって仲間割れが起き、最終的に力ずくで軍人が「代理人」の地位を勝ち取り、その地位は選挙ではなく彼の一族(注:ウマイヤ家)に受け継がれることになってしまった。
 このころには、アラブ人の支配エリアはイラン、シリア、エジプト(地図)にまで広まっていたから、かなり広い範囲だね。

 でもこの一族がアラブ人を「ひいき」したことに対する反発も、日に日に強まっていった。すでにイスラーム教はさまざまな民族の地域に広がっていたからね。

 そこでウマイヤ家の遠い親戚にあたるアッバース家が立ち上がり、新しい国をつくって、イスラーム教徒ならみんな平等という制度をつくったよ。


ほんとうに平等になったんですか?

―制度的にはね。
 イスラーム教徒の国では、支配者にもイスラーム教徒の正義にかなった支配をすることが求められる。
 支配者はイスラーム教の平等で平和な世界をつくることで、人々を「納得」させることができるわけだ。
 そうやってはじめて支配者は、開祖の「代理人」としてのパワーと尊敬を集めることができる。

 でも、そもそも誰が開祖の「代理人」としてふさわしいかをめぐっては対立もあって、はじめから数えて四代目の「代理人」の一族こそが「代理人」にふさわしいというグループが、根強く残っていくよ(注:シーア派)。



◆600年~800年のアフリカ

―この時期、北アフリカにはアラビア半島の遊牧民がイスラーム教という新しい秩序を掲げて進出し、支配をしようとしている。

 でもここにはもともとベルベル人という遊牧民がいて、サハラ砂漠を超えたラクダの貿易をコントロールした支配者が各地で力を蓄えていた。


またどうしてわざわざ砂漠を超えて貿易するんですか?

―砂漠の南で金がザックザクとれるからだ。
 砂漠では岩塩(がんえん)がとれるから、その岩塩を持っていけば金と交換できるというわけだ。


ベルベル人はイスラーム教を受け入れたんですか?

―ほとんどの人はイスラーム教を受け入れた。ビジネス上、そのほうが有利と考えられた面もある。
 そしてアラビア半島の人たちといっしょに、ヨーロッパにわたって現在のフランスやスペインのあるところを攻撃し、スペインの大部分を支配下に置くことに成功した。


えっ、ヨーロッパってキリスト教ってイメージがありますが…

―だよね。スペインはイスラーム教徒が支配した経験を持つ地域だから、旅してみると「ちょっと違った雰囲気」が建築や文化から感じられると思うよ。
 どこの地域もそうだけど、文化っていうのはたった一種類の純粋な成分でできているっていうのはありえなくて、ミルフィーユみたいに、古い時代からいろんな要素が積み重なったり混ざり合ってできていくものなんだよ。



◆600年~800年のヨーロッパ



ローマが分裂した後、ヨーロッパはどうなってしまいましたか?

―西側のローマでは、ゲルマン人はあちこちで国を建てるけど、キリスト教の教会やローマ人の有力者と協力するようになる。住民たちを支配するためには、軍事力による脅しだけでは難しいからね。
 でもすでに前の時代には、ゲルマン人の軍人によって西ローマ皇帝は殺され、西側のローマは滅んでしまっていたよね。

 現在のイギリス(地図)では、ゲルマン人の一派が海を渡って複数の王国を建てている。

 寒い北ヨーロッパでは、一年を通して農業ができないので船を出して貿易をおこなうヴァイキングという民族も活動を始めるようになっているよ。

 一方、東側のローマは、ゲルマン人の進入に関して言えば、大きな痛手はそんなに受けなかった。経済力もあるし、皇帝は依然として強いパワーを持ち続けるんだ。
 でも、この時代には東のほうでアラビア半島の人たちがイスラーム教を掲げて広まると、東ローマの皇帝は対応に追われた。シリアやエジプトを奪われてしまったからだ。

 また、アジアの方面からやってきた遊牧民(ブルガリア人)や、ゲルマン人の東隣にいた人たち(スラヴ人という)の活動もさかんで、彼らの退治にもひと苦労だ。

 東側のローマ皇帝は権力と尊敬を集めるために、キリスト教の教会を保護し、ローマのほうの教会もコントロール下におさめようとした。ローマの教会との間には「キリスト教の教え」の解釈をめぐって対立も起きているよ。

 そうなると、ローマの教会は「東側のローマ」の皇帝とは別の”親分”を欲しがるようになった。
 そこでその代わりの親分として白羽の矢が立ったのは、ゲルマン人の一派が現在のフランス(地図)に建てたフランク人の王様だったんだ。

 フランク人の王様は、ローマの教会によって「お願いします。”西ローマの皇帝”になって、東ローマと対抗してください」と頼まれたんだ。
 フランク人にとったら「おいおい俺はゲルマン人なんだけど、いいのかよ」って話で寝耳に水だったけど、権威を認められるのは悪くない話だ。
 そういうわけで新たな”親分”を手に入れたローマの教会は、ますます存在感を高めていくことになるよ。

 ヨーロッパにキリスト教の要素がプラスされるのは、この時代以降というわけなんだ。

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