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東と西のあいだ “今”と“過去”をつなぐ世界史のまとめ⑥ 前800年〜前600年

前800年頃、ギリシア各地にポリスとよばれる都市国家が誕生した。約400年つづいた混乱時代がおさまり、英雄をたたえる聖域が築かれ、都市にあつまって暮らす人々が増えたのだ。

ギリシアは、現代のヨーロッパ文明にとってのルーツである。ヨーロッパの民主主義や文化の源流はギリシアにある。その思いは、近代以降、ヨーロッパ諸国がいかに自国の国威発揚のために建設した博物館や美術館に、無数のギリシア文化のコレクションが所蔵されていることからも明らかだ。

かつて、当時のギリシアの人々は黒人だったのではないかという論争があった。「黒いアテナ論争」という。アメリカの政治学者バナールが、ギリシア文明はエジプトとフェニキアからの植民者によって成立したのであって、ヨーロッパの人々の主張するように、ギリシア文明をオリエントの文明と対比させるのは誤りだと主張し、論争となったのだ。ギリシア語のなかに、エジプトやフェニキア由来の語彙がふくまれているとするバナールの立証にも、あまいところがあったようだ。

しかし、論争は、それまで隠されていた対立軸を明確化することがある。ギリシアとヨーロッパを短絡させる考え方(パラダイム)への見直し、これである。

その点に関し、『黒いアテナ』論争よりもずっと早い時期から別の見方をとりあげていた日本人を2人紹介しよう。

一人は人類学者の梅棹忠夫氏である。梅棹氏の慧眼は、人類学者としてモンゴルのフィールドワークを重ねるうちに生まれた。世界を西洋と東洋に二分してしまうと、ユーラシアの大部分を占める乾燥地域が削ぎ落とされてしまうのではないか、東洋と西洋があるとして、その間には「中洋」とでもいうべき広大なエリアが広がっているのではないか。このエッセイは雑誌掲載後『文明の生態史観』として刊行され、広く読まれた。

もうひとりは地理学者、飯塚浩二氏である。飯塚氏には『東洋史と西洋史のあいだ』(岩波書店1963)という名著がある。少し長いが、冒頭部分を引いておこう。

「中国の歴史、インドの歴史、これを西洋の歴史ではないという意味で東洋史の両分におくことから、何も不都合は生じないだろう。だが、西アジアの歴史は、いわゆるヘレニズムの時代を待つまでもなく、地中海地域の歴史から切り離しては扱えない。むしろ、その一翼をになう、不可欠の構成部分である。一方には、西洋史、すなわちヨーロッパの従属部分だったろうか。むしろ、後世におけるヨーロッパ優勢の故に、地中海地域、或いはもっと広く、オリエント=地中海世界の歴史が、世界史の取扱いにおいて、ヨーロッパ史へ「横流し」されているのではないか。」

(同書、3頁。太字は筆者による)

世界を西洋や東洋にきりわけ、その優劣や影響関係を解く議論には、時局の議論が混じりやすい。梅棹氏は「中洋」の歴史に共産党政権を重ねていた。飯塚氏はブラーシュの人文地理学をとおしてヨーロッパ近代を相対化する一方、戦中には大東亜共栄圏の位置付けをめぐる認識の揺れもあった(岡田俊裕「15年戦争期の飯塚浩二」)。

それでも、問題をどうみるかということは、対象をどう切り分けるかによって、大きく左右される。

現在の世界史Bの教科書は、どうなっているだろうか。
じつはよく読んでみると、ギリシアやローマを、単にヨーロッパの源流として位置づけているわけではない。「東地中海沿岸では、オリエントからの影響のもとにヨーロッパではじめての青銅器文明が誕生した。」とはっきり書かれている。

ところが、同時に「その独創的な文化遺産はのちのヨーロッパ近代文明の模範となった。」という記述もある。このあたりの記述は、今後もみなおされていくことだろう(ちなみに、次の「世界史探究」の目次では、西アジアとの接続がしやすい箇所に、古代ギリシアをとりあつかう位置が引っ越されることになった)。古代ギリシア文明が東方からの影響に建設された事実が、ずいぶんと明らかになっているからだ。



たとえば、ヨーロッパの知の伝統に連なるギリシア哲学の起源は、ギリシア世界のなかでも、オリエントに近い側にあった。前600年にさしかかるころ、ミレトスの哲学者タレスは、東方のオリエントの先進諸地域の幾何学、代数、天文学を、ギリシアにもちこんだ。ヘロドトスは、タレスはフェニキア人であったという説を何度もあげている。古代ギリシアの東方日下部吉信氏が、オックスフォード大学のギリシア古典学者E・ハッセイの「この時期はバルバロイが先生で、ギリシア人は一般に覚えの早い生徒であった」ということばを引くように、ギリシア哲学は、ギリシアの特殊性の発露であると考えるのは誤りなのだ(日下部吉信『ギリシア哲学30講(上)』)。


それでもミロのヴィーナスは、パリのルーヴルに立っている。場所の宿す力が、われわれにギリシアとヨーロッパのイメージを、思わず短絡させる。飯塚氏のいう「横流し」の威力は、なかなかに手強いものだ。



追記
近藤和彦氏の『近世ヨーロッパ』(山川出版社)より抜粋

[…]「ヨーロッパ」という語の源は、ギリシア神話の女神エウロペ(Europe)である。これによると、地中海岸フェニキアにいた美しい王女エウロペに心を奪われた好色の神ゼウスが、白い雄牛に化けて王女を誘拐ゆうかいし、クレタ島に連れてきて三人の子を産ませたのだった。エウロペの長男はクレタの王となり、迷宮をつくり、アテネを降伏させ、冥府では使者を裁く判事になった。次男はリュキアの王となり、孫はトロイ戦争の英雄となった。三男は知恵と正義により法を制定したという。こうした神話は、古代ギリシア人の世界観とその範囲を象徴的に示していた。
 それ以来、ヨーロッパという概念は、時代と関心によって伸び縮みしてきた。

ティツィアーノにフェリペ2世が委嘱した《エウロペの誘拐》


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