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【みんなの世界史】古代ローマはだれのもの? イタリア・フランス・ドイツ:記憶をめぐる対立

「ゲルマン人の大移動によって、ローマ帝国が滅んだ」
「蛮族であるゲルマン人によって、ローマの文明が傷つけられた」

このように語られることは、現代でも少なくありません。

たとえば18世紀後半の歴史家ギボンは、ベストセラー『ローマ帝国衰亡史』で次のように書いています。

ローマ人は、迫る危険の深刻さや敵の規模について、皆目知らなかった。しかし実は、ライン河やドナウ河のかなたに広がるユーラシア北方の国々には、勤労の果実を掠めとろうとはやる、貧しく貪欲で、しかも勇ましい、遊牧や狩猟の民が無数にいたのだ。かれら蛮族は、ひとたび干戈の響きを聞くや、これに刺激された。そのため、遠く支那でおこった変動がしだいに伝わって、ガリアやイタリアは蛮族侵寇の脅威にさらされたのである。

エドワード・ギボン(中倉玄喜・編訳)『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP文庫、2020年

ここで蛮族(ばんぞく)、つまり野蛮な民族とみなされているのはゲルマン人です。


 当時のローマ帝国とゲルマン人の境界はリーメスとよばれた国境線があり、その近辺には軍団が配置されていました。現在のような国境線のようなものではありません。ドナウ川のレーゲンスブルグ上流から、ライン川のコブレンツまで、全長約600キロの堀と土塁が築かれ、土塁の上には木柵が設けられていました。各所の城塞にローマ軍団が駐留し、ゲルマン人の動向を監視していたのです。

 かれら兵隊が駐屯するために建設された町のなかには、現在のヨーロッパにおける大都市のルーツとなっているものもあります。
たとえば、イギリスのロンドンはロンディニウム、パリはルテティア、ドイツのケルンはコロニア・アグリッピナ、そしてオーストリアのウィーンはウィンドボナという都市ですね。

日本大百科全書「ローマ史」の項目より、https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%8F%B2-153356


 では、どうしてこれらの都市をむすぶ線が国境線となったのでしょうか。第一の要因は、ライン川とドナウ川という大河川があったということです。そしてもう一つは、この地図をみていただければわかるでしょうか。

https://www.boredpanda.com/interesting-maps-data/?media_id=2506641

 茶色い部分は標高の高いところにあたりますから、ローマ帝国に侵入しようと思っても、そういった山地は自然の障壁となるわけです。
 たとえば、現在のルーマニアにあたる「ダキア」という地域だけ、ポコっと領土が北に飛び出ていますよね? これは、平原であるダキアを、北方にあるトランシルバニア山脈が弓形で守る形になっていたからです。

 ローマ帝国は、共和政時代に政務官を務めていたオクタウィアヌスが、前27年に元老院からアウグストゥスという称号をいただき、全土の軍指揮権を獲得するところからはじまります。
 「内乱の一世紀」とよばれた混乱をおさめることのできた彼をもってして、ゲルマン人の侵入をとめることができなかった理由も、地形をみればわかります。 

 ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスは紀元後9年のトイトブルクの戦いに敗北。この激戦地は今のドイツに位置し、ロシア方面から西に続く広大なヨーロッパ大平原がオランダ方面に入り込む地であったといわれています。
 ゲルマン人の諸部族を率いていたのは、ケルスキ族のアルミニウス。降り頻る雨のなか、ローマは2万人の兵を失い、ゲルマン総督で総司令官のウァルスは自死にいたりました。
 ローマはこの敗戦によってライン川とエルベ川間の支配を諦め、ライン川をローマ帝国とゲルマニアの軍事境界として守りに転じることとなります。

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 さて、ここからが本題。このトイトブルクでは、2009年に戦いの再現イベントがひらかれ注目をあつめます。トイトブルクの戦いは紀元後9年ですから、ちょうど2000周年を記念してのことでした。


 このイベントは単に古代のミリタリーマニアや歴史好きが集ったという側面もありましたが、少なからずドイツのナショナリズムの高まりも関わっています。
 このアルミニウスをドイツを守護した”軍神”とみなし、ローマを追い払ったゲルマン人=ドイツ人を称えようとする意識です。

 しかし、古代の民族対立を、現在の国民間の対立と読み替えるのはまちがっています。古代の戦争は、近代以降の主権国家、国民国家どうしの戦争とはまったくちがいます。ゲルマン人が侵入したのも、飢餓などにより生存がおびやかされたためで、なにも領域を奪い侵略をしようとしたわけではありません。

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 ドイツでいうアルミニウスにあたる英雄はフランスにもいました。ウェルキンゲトリクスです。
 ガリア(現在のフランス)にいたケルト人ガリア人)の一派・アルウェルニ族に出自を持ち、ガリアの諸部族を結集して迎え撃ちましたが、最終決戦のアレシアの戦いで降伏し、ローマに引き渡したのち、処刑されました。2007年に放映されたアメリカ・イギリスによるテレビドラマ『ROME[ローマ]』にも登場し、話題を呼びました。

 敗退してしまったものの、ウェルキンゲトリクスは近代フランスにおいて、国土をローマの侵略から守ろうとした功績がたたえられ、物語や絵画の題材としてさかんにとりあげられています。


アルミニウスはナチスのプロパガンダにもさかんに使用された。



 近世から近代にかけて、領域内の住民の結束をまとめるために、古代の英雄がもちだされることはよくあることでした。 日本では明治時代に神武天皇や神功皇后、ヤマトタケルがとりあげられたのも、こうしたヨーロッパにおける英雄の表象化の影響をうけてのことです。

 フランスの場合、古代のガリア人がフランス国民のルーツであるという「物語」が、すでに16世紀に生まれています。
 19世紀半ばの第二帝政の時代には、皇帝ナポレオン3世が巨像を建てさせました。意匠には、どこか皇帝の面影が反映されているともいわれています。


 第二次世界大戦後にフランスで製作された「アステリックス」というコミックも、フランス=ガリア起源説が大衆文化の形で受け継がれた一例ですね。アステリックスのモデルはガリアの英雄ウェルキンゲトリクスで、カエサルによる侵略にたいして、コミカルな描写で応戦していく作品です。

 一方、ドイツでも19世紀に入り、アルミニウスが祖国の英雄として讃えられるようになりました。ナポレオンに支配され、ナショナリズムが高まり、ドイツ魂が古代の英雄アルミニウスに向けられたのです。当時はプロイセンやバイエルンのように、いくつもの政治体が併存する状態にあったドイツにとって、ゲルマン諸部族を「統一」したとされるアルミニウスは、まだ存在しないドイツを象徴する格好の人物であったわけです。

 かつてアルミニウスが戦ったのはローマですが、1870〜71年の普仏戦争でフランスを破ると、ローマは「フランス」と読み替えられ、反フランス・ナショナリズムの高まりから寄付によって1875年にデトモルト市郊外には今でも高さ54メートルの巨大な「へルマン記念像」が建設されました。「ヘルマン」とはアルミニウスのドイツ名です。 
 デトモルトは、当時トイトブルクの古戦場跡と考えられていましたが、1987年の発掘調査で本当はもっと北のほうにあったことが判明。一帯は自然公園に指定されていますが、これは森が「聖地」化するのを避けるためともいわれます。ところが、2009年に前述のイベントが開催されるなど、ヘルマンをめぐる記憶の政治は依然として続いています。古代ローマはその意味で、いまだ滅んではいないのです。


参考文献

  • 木村靖二『ドイツ史』(新版 世界各国史)山川出版社、2001

  • 河崎靖「Germania-Romana(2) : 「ゲルマンvs.ローマvs.ケルト」と いう図式」、『ドイツ文學研究』46、39-62頁、2001

  • 渡辺和行「ガリアの英雄とナショナル・アイデンティティ : 第三共和政フランスの歴史教育と国民形成」、『阪大法学』 55 (3・4)、263-289頁、2005

  • 鈴木将史「ドイツ近代国民記念碑について(その1) —「フリードリヒ大王記念像」から「ヘルマン記念像」まで」、『小樽商科大学人文研究』111、43-65頁、2006

  • 原聖『〈民族起源〉の精神史 ブルタニューとフランス近代』岩波書店、2003

  • 原聖『興亡の世界史07 ケルトの水脈』講談社、2007




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