現代的なトピック
第二次世界大戦後、戦時における加害や被害に関する事実や記憶は、さまざまな形でよびおこされてきた。そのありようは、戦争にどのように、どの程度関わったかによっても異なるし、戦勝国や敗戦国、宗主国と植民地など、その立場や個人によっても様々だ。
資料 ドイツの「国防軍犯罪展」
永岑三千輝氏「1995年からの『国防軍犯罪展』とそれを巡る対立-国防軍犯罪の歴史的確認、国防軍神話の克服プロセス-」、eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20050830VerbrechenderWehrmacht.htm
■アジア戦線の拡大と人々の生活
国民生活と戦争
総力戦は、国民生活と戦争を一体化させることで遂行される。
ドイツでもアメリカでも、そしてソ連においても、1930年代の恐慌に対抗するため、国家が国民経済に積極的に介入する動きは、世界規模で同時的にみられた政策であった。
それは、ドイツではファシズムと呼ばれ、アメリカではニューディール、ソ連では計画経済=共産主義と呼ばれる。
総力戦の遂行にあたっては、みずからの健康を主体的に守る「健民健兵」を育てることができるよう、国家がさまざまな法制度を通して統制する仕組みが整備されていった。
たとえば日本では1937年には母子保護法が公布され、1942年には妊産婦手帳規程がつくられている。
その一方で、1940年には国民優生法と国民体力法が制定され、戦時体制にとって「無用」のレッテルを貼られた障害者をはじめとする人々は、国民としての権利を享受しえないものとして排除されていった。
資料 国民優生法(1940年)
https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14193604.pdf
日本は軍部が台頭するなかで、ドイツやソ連の計画経済や全体主義的な政治体制が注目された。
すでに1931年に重要産業統制法が制定され、国家の民間経済への介入が促されていたところに、五・一五事件、二・二六事件を経て統制派の地位が高まり、1937年10月には企画院が新設されて経済統制が本格化することになった。企画院においては、国家による統制を推し進める「革新官僚」と呼ばれる人々が執務にあたった。
1937年10月に第一次近衛文麿内閣によって国民精神総動員運動が唱えられ、挙国一致の体制がめざされた。
さらに1938年4月には、企画院が方針案を決定した国家総動員法が公布され、政府が議会の承認を得ることなく勅令によって労働力と物資を独占的に運用・統制することができるようになった。
国家総動員法に対しては、立憲民政党の斎藤隆夫など、既成の政党の中に反対意見もあった。
しかし、社会主義を掲げた無産政党であった社会大衆党までもが、規制政党がこれまで経済を野放しにしてきたよりは国家による統制のほうがましであるととらえ、国家総動員法に賛成している。
1938年10月には、国民精神総動員中央連盟が設置され、民間が主導する形で、国家の動員に対して国民が主体的に参加することを求める運動が起こされていく。
政府の統制を強め、全国民・全政党を一元化しようとする構想に対しては、立憲民政党、立憲政友会、社会大衆党など各政党内にも反対意見があったものの、1940年6月には、近衛文麿のもとで、全体主義的な政治体制をめざす新体制運動がはじめられた。
結果、1940年7月に第二次近衛内閣が成立すると、大政翼賛会が結成され、全政党は解散された。これにより議会は、国家の戦争に協力する機関となった。大政翼賛会は、部落会・町内会・隣組などを指導下においた。国防婦人会(のち大日本婦人会)、在校軍人会など、地域の人々の組織の果たした役割も大きい。
国家総動員法にもとづき、民間人も軍事産業に動員されていった。1940年には大日本産業奉国会が結成されて、労働者にも戦争協力がもうけられるようになった。また、ドイツやソ連をモデルとする計画経済システムが立案され、生産と配給を統制下におく新経済体制が構築されていった。
第二次産業に比重が置かれたため、主食である米の確保が喫緊の課題となり、1942年2月に食糧管理法が公布された。生産者米価よりも消費者米価が低く設定される二重価格制度が導入され、生産者・地主は米を政府に供出し、政府が米を国民に配給することとなった。これにより小作料は事実上金納化されるとともに、政府による小作農の保護と自作農創設の動きが推進された。
こうして明治時代以降、日本の農村に広まった寄生地主生が大きく変化し、旧来の農村部における地域の有力者(地主や上層自作農)のみならず、自作・自小作農が政府の施策を自発的に支持する背景が生まれた(自作・自小作農は、大政翼賛運動(町村長ら地域有力者が中心)を推進する青壮年を結集して組織された日本翼賛壮年団の中心となった)。
これに対し、既成の政党や財界などの自由主義の立場をとる人々からは、反発も見られ、大政翼賛会の求心力はドイツのような独裁的なものとはならなかったが、戦時体制のもとで従来の資本主義に統制・修正を加えたことは間違いない。
戦局が悪化すると、成人男性のみならず、1943年10年には学徒出陣もはじまった。1945年には、朝鮮と台湾の植民地の人々も含め、約720万人が軍隊に召集された。未婚の女性は女子挺身隊として組織され、中等学校以上の生徒・学生とともに軍需工場に勤労動員された。
知識人・作家・芸術家と戦争
日中戦争に対して肯定的な評価をくだしたのは、近衛文麿のブレーン組織となった、昭和研究会というグループだった(1936年設立)。38年11月の第一次近衛内閣が「東亜新秩序声明」を発表すると、蠟山政道、三木清、尾崎秀実らは、「東亜協同体論」を出し、さらに1940年には「近衛新体制」を提示、推進した。
つまり、日本が推進している対外進出は、かつて欧米列強が展開していった帝国主義的な性格ではなく、それとは別種別様の価値を実現するためのものであるという論理が主張されていったのである。
ここにおいて日本の論壇においては、西洋で生まれた「近代」を、アジアに冠たる日本がのりこえることができる(=近代の超克)が叫ばれることになった。
資料 藤田嗣治の戦争画・作戦記録画
女性と戦争
戦争遂行のため、女性たちは社会的な奉仕活動を積極的におこなうことが期待された。民間向けの生活物資の生産・輸入が制限されたため、家庭における消費生活を切り詰めるために、婦人の創意工夫が求められたのだ。
1942年2月2日には、政府により、内務省所管の愛国婦人会、文部省所管の大日本連合婦人会、陸海軍所管の大日本国防婦人会が統合され、大日本婦人会に統合された(会長は山内禎子)。
資料 「パーマメント」をかける女性に対する街中の掲示
植民地・占領地の人々と戦争
満州事変以後の日本の戦争には、実は正式な呼称が存在しない。
1941年12月の真珠湾攻撃以後に決められた「大東亜戦争」という呼び名は、戦後にGHQ/SCAPによって禁じられ「太平洋戦争」と改められた(参照:木坂順一郎「『大日本帝国』の崩壊」歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史 10 近代 4』所収、1985年)。歴史学会では、かつて中国に対する戦争との連続性を重視して「十五年戦争」という呼び名が提唱されたこともあったが、現在ではむしろ太平洋地域のみならずアジアの広範囲が戦場になったことから「アジア・太平洋戦争」と呼ばれることが多い(参照:戦争呼称としての「アジア(・)太平洋戦争」の再検討、『NIDS コメンタリー』第107号、2019年10月17日)。
しかし、戦後の日本人の認識には、戦争によって受けた「被害」意識と、戦争中に周辺諸国に対して与えた「加害」意識、政府・軍部と国民のあいだの「被害/加害」意識など、さまざまな「被害/加害」の記憶が、整理されないまま絡まり合い、残されることとなった。
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人々を戦争遂行のために動員し、生活全般を統制する動きは、日本の植民地や占領地域でも進んだ。
朝鮮
朝鮮では皇民化政策が進められ、1939年頃から日本語の使用が強制され、氏名を日本式に改める創氏改名が行われた。
資料 朝鮮における日本語(国語)教育
資料 1936年のベルリンオリンピックでの孫基禎選手の金メダル獲得報道(『東亜日報』)
東南アジア
太平洋戦争開戦後、日本の占領地域でも総動員体制が強化された。これに対し占領地域の人々による抵抗運動もおこり始める。
1941年にはベトナムで、ホー・チ・ミンがベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、フィリピンでは抗日人民軍、ビルマではアウン・サンによる反ファシスト人民自由連盟が組織された。これらは日本に抵抗しつつ、植民地からの民族独立を求める動きであった。
大戦末期には、日本の統治していた南洋諸島(マリアナ、パラオ、マーシャル諸島)では、アメリカ軍による激しい攻撃を受け、日本軍のみならず、民間人や先住民(チャモロ人、カナカ人)も戦闘に巻き込まれることとなった。
英領インド
映画と戦争
太平洋戦争中には、映画が人々の主体的な動員を引き出す上で、重要な役割を担い、映画制作者のみならず国策による映画制作も、各国でおこなわれていった。
資料 「支那の夜」(1940年)
資料 「チャップリンの独裁者」(1940年)
資料 「パープル・ハート」(1944年)
■大日本帝国の崩壊
大日本帝国の戦局は1942年のミッドウェー海戦をきっかけに不利なものとなっていった。
1944年にアメリカ軍が「絶対国防圏」のサイパンを占領すると、重臣、海軍や陸軍皇道派、さらには自由主義者のなかから反東條英機・反統制派の動きが強まり、天皇や木戸幸一内大臣らもこれに同調して、7月18日に東條内閣は総辞職をした。
後任には小磯内閣(1944.7.11〜1945.4.7)が成立し、1944年には大本営政府連絡会議が、最高戦争指導会議に改組されている。しかし、このころからは本土空襲が頻発し、国民生活も逼迫。太平洋への補給路が寸断されるとともに、輸送船の攻撃も相次ぎ、戦死者の6割以上は1944年以上に集中することとなった。
1944年10月にはフィリピンでレイテ沖海戦がはじまり、武蔵を含む戦艦三隻、空母四隻、その他の艦艇多数が沈没し、連合艦隊はほぼ壊滅した。神風特別攻撃隊による特攻作戦がはじまったのは、このときからである。
1945年2月のヤルタ会談では、ソ連の対日参戦方針や満洲におけるソ連の特殊権益が確保される密約が取り決められた。1945年2月19日以降、アメリカ軍は硫黄島に上陸。1945年3月10日未明には東京大空襲(死者10万人)、3月13日に大阪、3月17日に神戸、3月19日に名古屋、5月25日に再び東京、5月29日に横浜、6月5日に神戸など、全国各地の大都市の工業施設・軍事施設のみならず一般の住宅地がB29による焼夷弾により火の海となり、人々を恐怖に陥れた。
なお、1945年3月23日には国民義勇隊を組織することが閣議で決められ、大政翼賛会、翼賛壮年団、大日本婦人会などが、これに統合されていった。
この間、近衛文麿は2月14日に昭和天皇に対して「近衛上奏文」を提出している。
このとき昭和天皇は、もう一度戦果をあげてから、として和平交渉に入る姿勢はみせなかった。
アメリカ軍は、1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸。54万8000人のアメリカ軍が投入された地上戦と、「鉄の暴風」と呼ばれる艦砲射撃を受け、軍人約10万人、民間人約15万人(1944年当時の沖縄県民人口は59万人)の死傷者を出して、6月23日に組織的な戦闘は終了した。
敵に対する一撃を加えてから和平交渉をすすめようとしていた小磯国昭内閣は、その企図もかなわず、沖縄戦の間に鈴木貫太郎内閣(1945.4.7〜1945.8.17)に交替した。
また沖縄戦の間、1945年5月にはドイツが降伏している。
6月23日には義勇兵役法も発布がされ、徴兵対象が拡大され男(15〜60歳)・女(17〜40歳)に義勇兵役が課されることになった。こののち、空襲の標的は熊本、呉、甲府、浜松など地方都市にも及び、厭戦気分も高まった。
7月〜8月にはポツダム会談が、トルーマン、チャーリル、スターリンのあいだでおこなわれ、そのさなか7月26日にはアメリカ・イギリス・中国の名でポツダム宣言が発表された。
日本軍への無条件降伏と戦後処理方針を示したもので、7月28日の新聞各社はこれを「黙殺」と報道し、首相もそう発表した。
連合国は日本がポツダム宣言を「拒否」したととらえ、すでにマンハッタン計画により人類初の核兵器開発を急いでいたアメリカ合衆国は、8月6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾を投下した。
一方、ソ連は日ソ中立条約を破棄して8日に宣戦布告し、満洲、朝鮮、樺太を占領した。
8月9〜10日にかけて御前会議がひらかれ、国体護持だけをポツダム宣言受諾の条件にかかげる東郷茂徳外相の意見を昭和天皇は支持。12日にアメリカ国務長官・バーンズから以下のような回答が届いた。
この回答における「subject to」の意味をめぐり外務省と軍部のあいだに対立がおこったが、外務省は「従属する」ではなく「制限かに置かれる」と翻訳し、説得を図った。13日にも外相と陸相が対立したが、14日の御前会議で無条件降伏の方針が定まり、15日の正午にラジオ放送で天皇により録音された音声を放送し、戦争は終結した。国民は正午の放送を朝の号外で知らされ、植民地でも放送された。
国民にとって太平洋戦争は、ラジオをもってはじまり、ラジオをもって終わったのである。
それぞれの敗戦
日本が公式に降伏したのは、9月2日に、昭和天皇と日本政府の全権として重光葵外相が、大本営の全権として梅津参謀総長が、アメリカ戦艦・ミズーリ号に乗船し、降伏文書に署名したときのことである。
多くの日本人は、海外で敗戦をむかえることになった。東南アジアで終戦をむかえた日本兵の中には、植民地からの独立闘争に参加する人々もいた。
満洲にいた日本人は、ソ連軍の侵攻や中国の内戦の影響もあって、本土への引揚げは難航した。家族を失い中国人に養育されることになった子ども(中国残留孤児)や、中国人と結婚した女性(中国残留婦人)は、中国人として生きる道を選ぶことになった(あわせて中国残留邦人と呼ぶ)。
ソ連の侵攻した樺太では、8月15日後も、22日まで戦闘が続けられた。国民義勇戦闘隊が召集され、住民を巻き込む地上戦が展開された。
8月9日未明にソ連軍の侵攻を受けた満洲でも、8月15日後も先頭が続いた。満蒙開拓団から「根こそぎ召集」された人々の中には、シベリアに抑留されたり、現地の人々からの暴力にさらされたりした。なかには集団自決をした開拓団もあった。ソ連との停戦合意がなされたのは8月19日のことだった。
引き揚げは1946年4月以降に始まった。国内に帰還した人々の多くは、新たな地域の再開拓に乗り出す必要に迫られた。
ソ連によってシベリアに連行された人々は、極寒の地における強制労働によって多数が命を落とし、引揚げは1956年の日ソ共同宣言までかかった。
南方戦線で戦った兵士の中には、降伏後も密林にこもって戦い続ける兵士もいた。
ヴァルガス大統領の独裁体制における外国語使用制限により、1941年8月までに日本語新聞が発効停止の状態にあったブラジルでは、情報が遮断され、敗戦の情報を信じない「勝ち組」と、敗戦を認める「認識派」(「勝ち組」によって「負け組」と呼ばれた)との間に深刻な対立がもたらされた。下記は「認識派」として正確な情報伝達につとめた農業組合常務理事による演説である。
中国にのこされた中国残留邦人については、1980年代に訪日調査が始まり、日本国への帰還が始まっている。
なお、1942年2月にアメリカ合衆国において強制収容所に収監されていた日系アメリカ人たちは、戦後に解放された。
資料 ジョン・オカダ『ノーノー・ボーイ』(1957年)
また、南米のブラジルやペルーにおいては、日本人の移民のなかで、敗戦後に日本の敗戦をめぐる認識をめぐり、深刻な対立を引き起こした
■大戦の遺産
第二次世界大戦中、各国政府は国家のしくみを、国民の動員と主体的参加が容易なものとなるように変えていった。
すなわち、国民生活の隅々にいたるまででを統制するとともに、人々が主体的に国家のために参加する意識を持つようなしくみの構築である。
大規模な徴兵や労働力の動員のために、各国政府により積極的に社会保障制度が形成され、戦後にも引き継がれていった。
また、統制経済を通じて政府と企業の関係も変化し、日本においては戦後の「護送船団方式」と呼ばれる経済の仕組みにに受け継がれていった。
また、地域や企業において積極的に戦争に参加した女性たちや、植民地や占領地の人々の民族意識なども、戦後の女性解放運動、民族解放運動につながっていく。
多数の人々が命を落とした戦争への通説な反省から、人々の間には人権や民主主義を重んじる意識、平和をもとめる反戦意識が高まった。
これらは、大戦後の世界各地の人々による社会運動にも、引き継がれていくこととなった。
兵士と戦争
第二次世界大戦の死者数は、世界史上最多を記録した。
日本軍の死者は310万人(軍人・軍属が230万人。なお民間人は80万人)であり、その9割が1944年以降、戦争末期のものであると推測されている。日本軍の戦没者のうち、病死・餓死の占める割合は6割強を占め、生き延びたとしても戦後ながらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患う元兵士も少なくなかった。
その経験を書き留めた戦記や手記、さらにそれらをもとにした小説や映画、アニメーション作品などは、戦後、長い時間をかけ、徐々に人々の目に触れるようになっていくことになる。