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新科目「歴史総合」を読む 2-3-7. アジア・太平洋戦争と日本の敗戦 

メイン・クエスチョン
「戦争は、政府や軍部の暴走によって引き起こされたのであって、国民の多くも被害者である」という主張は、どの程度まで正しいといえるだろうか?

現代的なトピック


 第二次世界大戦後、戦時における加害や被害に関する事実や記憶は、さまざまな形でよびおこされてきた。そのありようは、戦争にどのように、どの程度関わったかによっても異なるし、戦勝国や敗戦国、宗主国と植民地など、その立場や個人によっても様々だ。

資料 ドイツの「国防軍犯罪展」

永岑三千輝氏「1995年からの『国防軍犯罪展』とそれを巡る対立-国防軍犯罪の歴史的確認、国防軍神話の克服プロセス-」、eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20050830VerbrechenderWehrmacht.htm





■アジア戦線の拡大と人々の生活

国民生活と戦争

サブ・クエスチョン
家庭や職場ごとに国家の一員として奉仕することが求められた人々は、なぜみずから国民生活を戦争と一体化させていったのだろうか?

 総力戦は、国民生活と戦争を一体化させることで遂行される。

 ドイツでもアメリカでも、そしてソ連においても、1930年代の恐慌に対抗するため、国家が国民経済に積極的に介入する動きは、世界規模で同時的にみられた政策であった。
 それは、ドイツではファシズムと呼ばれ、アメリカではニューディール、ソ連では計画経済=共産主義と呼ばれる。


サブ・サブ・クエスチョン
戦時体制下において、国民の健康が重んじられたのにもかかわらず、障害を持つ人々がが排除されていったのはなぜだろうか?

 総力戦の遂行にあたっては、みずからの健康を主体的に守る「健民健兵」を育てることができるよう、国家がさまざまな法制度を通して統制する仕組みが整備されていった。
 たとえば日本では1937年には母子保護法が公布され、1942年には妊産婦手帳規程がつくられている。

 その一方で、1940年には国民優生法と国民体力法が制定され、戦時体制にとって「無用」のレッテルを貼られた障害者をはじめとする人々は、国民としての権利を享受しえないものとして排除されていった。

(出典:『調査研究 『日本の保健医療の経験 途上国の保健医療改善を考える』JICA緒方研究所、2004年、https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jica/field/200403_02.html


資料 国民優生法(1940年)

https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14193604.pdf




サブ・サブ・クエスチョン
日本では、人々の自由を制限するものであるにもかかわらず、計画経済や全体主義的な政治体制は、なぜ、どのようにして構築されていったのだろうか? また、どのような勢力が賛成し、また反対したのだろうか?

 日本は軍部が台頭するなかで、ドイツやソ連の計画経済や全体主義的な政治体制が注目された。
 すでに1931年に重要産業統制法が制定され、国家の民間経済への介入が促されていたところに、五・一五事件、二・二六事件を経て統制派の地位が高まり、1937年10月には企画院が新設されて経済統制が本格化することになった。企画院においては、国家による統制を推し進める「革新官僚」と呼ばれる人々が執務にあたった。

 1937年10月に第一次近衛文麿内閣によって国民精神総動員運動が唱えられ、挙国一致の体制がめざされた。




 さらに1938年4月には、企画院が方針案を決定した国家総動員法が公布され、政府が議会の承認を得ることなく勅令によって労働力と物資を独占的に運用・統制することができるようになった。

資料 国家総動員法
第一条 本法に於て国家総動員とは、戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む以下之に同じ)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及物的資源を統制運用するを謂ふ。

 国家総動員法に対しては、立憲民政党の斎藤隆夫など、既成の政党の中に反対意見もあった。
 しかし、社会主義を掲げた無産政党であった社会大衆党までもが、規制政党がこれまで経済を野放しにしてきたよりは国家による統制のほうがましであるととらえ、国家総動員法に賛成している。

資料 斎藤隆夫による国家総動員法反対演説(1938年)

(出典:声明Wikimedia FoundationPowered by MediaWiki内閣印刷局、1938、「國家總動員法案 第一讀會」『官報號外 昭和十三年二月二十五日 第七十三囘帝國議會 衆議院議事速記錄第十七號』347頁より(http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/073/0060/0731006001710224.pdf )
(出典:同上349頁)




 1938年10月には、国民精神総動員中央連盟が設置され、民間が主導する形で、国家の動員に対して国民が主体的に参加することを求める運動が起こされていく。

 政府の統制を強め、全国民・全政党を一元化しようとする構想に対しては、立憲民政党、立憲政友会、社会大衆党など各政党内にも反対意見があったものの、1940年6月には、近衛文麿のもとで、全体主義的な政治体制をめざす新体制運動がはじめられた。
 結果、1940年7月に第二次近衛内閣が成立すると、大政翼賛会が結成され、全政党は解散された。これにより議会は、国家の戦争に協力する機関となった。大政翼賛会は、部落会・町内会・隣組などを指導下においた。国防婦人会(のち大日本婦人会)、在校軍人会など、地域の人々の組織の果たした役割も大きい。

 国家総動員法にもとづき、民間人も軍事産業に動員されていった。1940年には大日本産業奉国会が結成されて、労働者にも戦争協力がもうけられるようになった。また、ドイツやソ連をモデルとする計画経済システムが立案され、生産と配給を統制下におく新経済体制が構築されていった。

 第二次産業に比重が置かれたため、主食である米の確保が喫緊の課題となり、1942年2月に食糧管理法が公布された。生産者米価よりも消費者米価が低く設定される二重価格制度が導入され、生産者・地主は米を政府に供出し、政府が米を国民に配給することとなった。これにより小作料は事実上金納化されるとともに、政府による小作農の保護と自作農創設の動きが推進された。
 こうして明治時代以降、日本の農村に広まった寄生地主生が大きく変化し、旧来の農村部における地域の有力者(地主や上層自作農)のみならず、自作・自小作農が政府の施策を自発的に支持する背景が生まれた(自作・自小作農は、大政翼賛運動(町村長ら地域有力者が中心)を推進する青壮年を結集して組織された日本翼賛壮年団の中心となった)。


 これに対し、既成の政党や財界などの自由主義の立場をとる人々からは、反発も見られ、大政翼賛会の求心力はドイツのような独裁的なものとはならなかったが、戦時体制のもとで従来の資本主義に統制・修正を加えたことは間違いない。 

資料 清沢 洌『暗黒日記』
昭和17年12月13日(日)
 資本家は生産増強の重荷を負わされている。それにもかかわらず法規で縛られ、統制に服して、不平満々だ。資本家側で現時の官僚を「赤」と呼ぶものが多い。小林一三氏(東宝社長・元商相)がそうであり、半沢玉城君(外交時報社長・元読売新聞編集局長)がそうだ。今日の朝日には藤山愛一郎(大日本製糖社長)が「人の機械化を排せ」といって、観念的平等主義を諷している。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000910/files/60326_73215.html


 戦局が悪化すると、成人男性のみならず、1943年10年には学徒出陣もはじまった。1945年には、朝鮮と台湾の植民地の人々も含め、約720万人が軍隊に召集された。未婚の女性は女子挺身隊じょしていしんたいとして組織され、中等学校以上の生徒・学生とともに軍需工場に勤労動員された。


知識人・作家・芸術家と戦争

サブ・サブ・クエスチョン
知識人は、戦争や国家の統制に対して、どのような姿勢をとったのだろうか?

 日中戦争に対して肯定的な評価をくだしたのは、近衛文麿のブレーン組織となった、昭和研究会というグループだった(1936年設立)。38年11月の第一次近衛内閣が「東亜新秩序声明」を発表すると、蠟山ろうやま政道、三木清、尾崎秀実ほつみらは、「東亜協同体論」を出し、さらに1940年には「近衛新体制」を提示、推進した。

 つまり、日本が推進している対外進出は、かつて欧米列強が展開していった帝国主義的な性格ではなく、それとは別種別様の価値を実現するためのものであるという論理が主張されていったのである。
 ここにおいて日本の論壇においては、西洋で生まれた「近代」を、アジアに冠たる日本がのりこえることができる(=近代の超克)が叫ばれることになった。

資料 三木清による「東アジアの統一」の思想
三木清が中心になってまとめられた昭和研究会の報告書『新日本の思想原理』​(1939​ 年 1 月,『昭和社会経済史料集成』第 7 巻,大東文化大学東洋研究所,​1984​ 年,所収)は,次のようにのべています.

 東亜の統一は封建的なものを存続せしめること或ひは封建的なものに還ることによつて達成され得るものではない.却つて支那の近代化は東亜の統一にとつて前提であり,日本は支那の近代化を助成すべきである.支那が近代化されると同時に近代資本主義の弊害を脱却した新しい文化に進むことが必要である.もとより日本が欧米諸国に代つてみずから帝国主義的侵略を行ふといふのであつてはならぬ.却つて日本自身も今次の事変を契機として資本主義経済の営利主義を超えた新しい制度に進むことが要求されてゐる.資本主義の問題を解決することなしには真の東亜の統一は実現されないのである.

(出典:米谷匡史『アジア/日本 (思考のフロンティア)』岩波書店、2006年)

 


資料 藤田嗣治の戦争画・作戦記録画



女性と戦争

サブ・サブ・クエスチョン
第一次世界大戦後には女性が社会進出をする動きも起こっていたのにもかかわらず(→2-2-5.)、主婦としての役割を重視する「国防婦人会」が、全国の主婦や女性運動家たちの支持を集めていったのはなぜなのだろうか?

 戦争遂行のため、女性たちは社会的な奉仕活動を積極的におこなうことが期待された。民間向けの生活物資の生産・輸入が制限されたため、家庭における消費生活を切り詰めるために、婦人の創意工夫が求められたのだ。

 1942年2月2日には、政府により、内務省所管の愛国婦人会、文部省所管の大日本連合婦人会、陸海軍所管の大日本国防婦人会が統合され、大日本婦人会に統合された(会長は山内禎子)。

【愛国婦人会】
戦死者の遺族や傷痍(しょうい)軍人(傷病兵)の救護・慰問などを目的とした婦人 団体。1900(明治 33)義和団事件(北清事変)の戦線慰問から帰った奥村五百子が中心 となり、近衛篤麿(このえ・あつまろ)とともに、1901. 2.(明治 34)皇族・華族など上 流夫人を会員として創設された(創立趣意書は下田歌子起草)。最盛期の会員数は 338 万人に達した。 1931(昭和 6)満州事変の後、1932(昭和 7)大日本(だいにほん)国防婦人会と対立す ることもあり、1942. 2(昭和 17)他の婦人団体とともに大日本婦人会に統合された。

【国防婦人会】
大日本国防婦人会は 1932. 3(昭和 7)大阪の主婦らにより結成された国防婦人会を 母体に、軍の指導により同年 12 月に全国組織に発展した婦人団体である。こちらは、 おなじみの白エプロン(割烹着(かっぽうぎ))にタスキがけの姿で、スローガン「国防は台所から」を掲げていた。

資料◆女性と戦争① 大日本婦人会綱領
一、私共は日本婦人であります。神を敬ひ、詔を畏み、皇国の御為に御奉公致しませう。
一、私共は日本婦人であります。誠を尽くし、勤労を楽しみ、世の為人の為に努力致しませう。
一、私共は日本婦人であります。身を修め、家を斉へ、日本婦道の光輝を発場致しませう。


資料◆女性と戦争② 『市川房枝自伝 戦前編』
「国防婦人会については、いうべきことが多多あるが、かつて自分の時間というもの を持ったことのない農村の大衆婦人が、半日家から解放されて講演を聞くことだけで も、これは婦人解放である。時局の勢いで、国防婦人会が村から村へ燎原の火のよう に拡がって行くのは、その意味でよろこんでよいかもしれないと思った」
(『女性展望』1937年9月号)

割烹着
「かっぽう着」は明治末年に松本幸が婦人の台所仕事に便利なように考案して『婦人之友』に発表したもので、炊事洗濯にじゃまな袖をうまく包み込むようにできている。

WIkipedia「割烹着」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E7%83%B9%E7%9D%80




資料 「パーマメント」をかける女性に対する街中の掲示


資料 「防空壕のなかでもパーマをかけた」
地方の美容師の話でさらに驚くのが、各地で「防空壕の中でもパーマをかけた」「空襲でもかけた」という話が頻繁に出てくることである。パーマネント機を使い続けることが難しくなった戦争末期においてもパーマネントの人気は衰えなかったため、茨城の小山テリは「店の裏手にあった防空壕のなかへ自家発電機を備えて電力を供給したこともあった」と語っている。戦後三〇年から四〇年が経過しても、戦時にパーマをかけていた美容師たちにとって、当時の女性客たちのパーマにかける情熱は驚異であり、完全には理解できないようである。一九八七年に行われた岐阜の美容師の座談会では、空襲時にもパーマをかけ続けたことが語られている。  
野原 女心といったら、戦時中、空襲きますでしょ。それでもパーマやってたんだから。夜はカーテンをサァーッとひいて。  
家田 頭まいたまま防空壕に入ってもらって。  
野原 防空壕にも、パーマの道具だけはきちんといれてあったんだから。

(出典:飯田未希『非国民な女たち-戦時下のパーマとモンペ (中公選書) 』中央公論新社、2020年)





植民地・占領地の人々と戦争

サブ・サブ・クエスチョン
・「日本はアメリカやイギリスとの戦争に敗れた」という説明は、どの程度妥当であるといえるだろうか?

植民地の人々は、戦時体制下において日本国民として動員されていくようになるが、内地の人々と比べ、どのような違いがあったのだろうか?

・また、植民地の人々の帰属意識(アイデンティティー)には、どのようなものがあったと考えられるか?

 満州事変以後の日本の戦争には、実は正式な呼称が存在しない。

 1941年12月の真珠湾攻撃以後に決められた「大東亜戦争」という呼び名は、戦後にGHQ/SCAPによって禁じられ「太平洋戦争」と改められた(参照:木坂順一郎「『大日本帝国』の崩壊」歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史 10 近代 4』所収、1985年)。歴史学会では、かつて中国に対する戦争との連続性を重視して「十五年戦争」という呼び名が提唱されたこともあったが、現在ではむしろ太平洋地域のみならずアジアの広範囲が戦場になったことから「アジア・太平洋戦争」と呼ばれることが多い(参照:戦争呼称としての「アジア(・)太平洋戦争」の再検討、『NIDS コメンタリー』第107号、2019年10月17日)。

 しかし、戦後の日本人の認識には、戦争によって受けた「被害」意識と、戦争中に周辺諸国に対して与えた「加害」意識、政府・軍部と国民のあいだの「被害/加害」意識など、さまざまな「被害/加害」の記憶が、整理されないまま絡まり合い、残されることとなった。


***


 人々を戦争遂行のために動員し、生活全般を統制する動きは、日本の植民地や占領地域でも進んだ。


朝鮮

 朝鮮では皇民化政策が進められ、1939年頃から日本語の使用が強制され、氏名を日本式に改める創氏改名が行われた。


資料  朝鮮における日本語(国語)教育

(出典:井上馨「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策—徴兵制導入に至るまでの日本語常用・全解運動への動員」『北海道大學教育学部紀要』73、105-153頁、1997年、https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf
(出典:同上)
(出典:同上)

資料 朝鮮総督・南次郎の訓示(1941年9月30日)
総督訓示要旨
近来各学校特に中等校以上の学校において閤語を使はず朝鮮語を使ひ,国語常用といふ建前が弛緩の傾向にあることは甚だ遺構と思ふ,学校内では国語使用を不断に奨励し努力して ゐるにも拘らずゝることを耳にするのは実に残念である,家庭にあってはやむを得ず朝鮮 語を使はねばならぬ場合があるであらうが教員,生徒は成るべく国語普及のために家庭内で も盟語常用に努むべきである,五大政綱の中にある教学問新でも国語常用を彊つであり,内 鮮一体の上からもか〉る事実の有することを遺構とする,今後ともなほ一段の工夫,研究を襲んで貰ひたい。

(出典:井上馨「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策—徴兵制導入に至るまでの日本語常用・全解運動への動員」『北海道大學教育学部紀要』73、105-153頁、1997年、137頁、https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf)「後の新聞報道によれば,この訓示は日本語普及,全解運動に関する南総督の最初の訓示であっ た。「国語常用」が「弛緩の傾向j にあるという状況のなかで I闇語常用」を厳格に遂行する よう総督自ら求めたものであった。そして,この徹底のため, 10月上旬,各選宛ての総督訓示に 基づいた学務局長通牒が出ていた。中等学校生徒の司本語常用に関する問題が 教室にあって 師弟の間ではもとより学生,生徒,児童間の日常会話でも絶対に国語を使用し,その熟達錬磨に 努め国語使用の雰囲気を醸成せしめよう」とするものに拡大され,徹底されるようになった。後の新聞報道によれば,この訓示は日本語普及,全解運動に関する南総督の最初の訓示であった。「国語常用」が「弛緩の傾向j にあるという状況のなかで I闇語常用」を厳格に遂行する よう総督自ら求めたものであった。そして,この徹底のため,10月上旬,各選宛ての総督訓示に 基づいた学務局長通牒が出ていた。中等学校生徒の司本語常用に関する問題が I教室にあって 師弟の間ではもとより学生,生徒,児童間の日常会話でも絶対に国語を使用し,その熟達錬磨に 努め国語使用の雰囲気を醸成せしめよう」とするものに拡大され,徹底されるようになった。」(同上、137頁))


資料 1936年のベルリンオリンピックでの孫基禎選手の金メダル獲得報道(『東亜日報』)

孫基禎 そんきてい / ソンキジョン (1912―2002)「韓国(大韓民国)の元マラソン選手。1936年のオリンピック・ベルリン大会で金メダルを獲得した韓国体育界の重鎮。1912年8月29日、平安北道(へいあんほくどう/ピョンアンプクド)の新義州(現在は北朝鮮)に生まれる。日本統治下の36年、ベルリン大会にマラソンの日本代表選手として参加し、2時間29分19秒の成績で優勝する。これを報道した『東亜日報』(朝鮮の日刊紙)などが、写真から胸の日章旗を削除して印刷したことが問題となり、停刊・廃刊に追い込まれた「日章旗抹消事件」は有名。」(日本大百科全書、https://kotobank.jp/word/孫基禎-90579


資料 皇国臣民の誓詞(1937年10月に朝鮮総督府が定めた)
皇国臣民ノ誓詞(其ノ一)
1 私共は、大日本帝国の臣民であります。
2 私共は、心を合わせて天皇陛下に忠義を尽します。
3私共は、忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。


皇国臣民ノ誓詞(其ノニ)
1 我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国に報ぜん。
2 我等皇国臣民は互に信愛協力し、以て団結を固くせん。
3 我等皇国臣民は忍苦鍛錬力を養い以て皇道を宣揚せん

(出典:社会実情データ図録、http://honkawa2.sakura.ne.jp/1185.html) 韓国併合以後、日本本土にみずから朝鮮人が増加したため、政府による制限もかけられた。だが、1939年以降、政府の動員のために朝鮮人が労働力として日本本土に強制的に動員されるようになった。戦後、150万人近くの朝鮮人が1946年までに帰還した。


東南アジア

サブ・サブ・クエスチョン
東南アジアのナショナリスト(民族解放運動をおこなった組織や人々)は、日本と手を組んだのだろうか?

資料 東南アジアの民族解放運動にとっての3つの選択肢
 第二次大戦が複合的な性格を帯びた戦争であったがゆえに、複雑な問題も生まれることになった。その一つが、ファシズム対反ファシズムという対抗軸と、植民地従属国の民族解放との関係である。
 中国の民族解放戦争のように、侵略者が日本というファシズム勢力であり、それにたいこうする解放戦争が必然的に反ファシズムという性格を帯びたケースを、そのまま東南アジアにあてはめるには問題がある。なぜならば、東南アジアの多くは、反ファシズム連合国の植民地であり、中でもイギリス、オランダは、自らの植民地を手放す用意はまだなかったからである。こうした情勢下では、東南アジアのナショナリストにとって、三つの選択肢があった。
 第一は、反ファシズムが人類的な最重要課題であると考え、反ファシズム陣営に属する宗主国への戦争協力を行い、そのなかで自己の地位向上をはかる道である。(中略)
 第二は、植民地宗主国に対する独立闘争を重視し、宗主国および植民地政権に戦争をしかけている日本というファシズム勢力と手を組む道である。
 第三は、ファシズム勢力への協力もしないが、反ファシズム陣営に属する宗主国の戦争にも協力しないという道である。

(出典:古田元夫『東南アジア史10講』岩波新書、2021年、144-145頁)



 太平洋戦争開戦後、日本の占領地域でも総動員体制が強化された。これに対し占領地域の人々による抵抗運動もおこり始める。

 1941年にはベトナムで、ホー・チ・ミンがベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、フィリピンでは抗日人民軍、ビルマではアウン・サンによる反ファシスト人民自由連盟が組織された。これらは日本に抵抗しつつ、植民地からの民族独立を求める動きであった。




資料 ビルマの抗日闘争
「ビルマ独立宣言(日本軍に対する宣戦布告)」(1945年3月27日)
ビルマ国軍は人民の諸組織とともに、「ファシスト撲滅人民解放組織」という名称でビルマ人民を代表し、本日をもってファシスト日本に対し反乱を開始した。
 われわれは独立闘争を長期にわたりさまざまな方法で展開してきたが、その最終段階において、ファシスト日本によって示された独立の約束に気が動転し、独立獲得への要求から日本軍と共に英国との闘いに加わった。その結果、国中が一丸となってビルマ独立義勇軍を歓迎・協力し、独立闘争に参加したが、日本のファシストたちはビルマに居座り、傀儡政府をつくり、ビルマに住む多くの人々を搾取するに至った。彼らは独立という言葉を見せびらかし、われわれの人権、豊富な資源を、戦争目的のために取り上げたのである。(後略)

(出典:根本敬・訳『世界史史料10』岩波書店、388-390頁)

 大戦末期には、日本の統治していた南洋諸島(マリアナ、パラオ、マーシャル諸島)では、アメリカ軍による激しい攻撃を受け、日本軍のみならず、民間人や先住民(チャモロ人、カナカ人)も戦闘に巻き込まれることとなった。


英領インド


資料 ボースが日本占領下のシンガポールに移り、国民軍の最高司令官となることを宣言した演説
インド国民軍の指揮官となるに当たって(1943年8月26日)

インドの独立運動とインド国民軍のため、本日より私がこの軍の直接の指揮を執る。これは私にとって喜びかつ誇りである。なぜなら、インド解放軍の指揮官となることほど大きな名誉はないからである。いかに困難で耐え難くとも、あらゆる状況の下で、インド人に対する私の義務を遂行するに必要な力を、神が私に与えられんことを祈る。私は自らを、異なる信仰を受け入れている三億八千万同胞への奉仕者と見なす。私は、三億八千万同胞の利害が私の責任において安全であり、あらゆるインド人が私に完全な信頼を置く根拠を持てるように、自分の義務を果たすと決意した。インド解放軍が組織され得るとすれば、それは強固な愛国心、完全な正義と公正さに基づくものでなければならない。(中略)われわれの任務は容易なものではない。闘いは長く、厳しいものとなろう。しかし私は、われわれの大義が正しく、決して破られ得ないことを完全に確信している、人類の五分の一に当たる三億八千万の人間は自由である権利をもち、今や自由の代償を支払う心構えもできている。したがって、われわれから自由という生得の権利を奪うことができる権力など、もはやこの地上にありはしない。
同志、将校・兵士諸君! 諸君の惜しみなき支えと確固たる忠誠心があれば、我が軍はインド解放の手段となろう。私は最後に勝利がわれらのものとなることを諸君に約束する。
「デリーへ前進せよ」をスローガンに、我が民族旗がニューデリーの総督官邸に翻り、自由インド軍がインドの古都の「赤い城塞」で勝利の行軍を行う日まで、戦いつづけよう。」(出典:『世界史史料(10)』382頁)



映画と戦争

 太平洋戦争中には、映画が人々の主体的な動員を引き出す上で、重要な役割を担い、映画制作者のみならず国策による映画制作も、各国でおこなわれていった。

資料 「支那の夜」(1940年)


資料 「チャップリンの独裁者」(1940年)


 資料 「パープル・ハート」(1944年)


 



■大日本帝国の崩壊

サブ・クエスチョン
日本はどのように崩壊していったのだろうか?

 大日本帝国の戦局は1942年のミッドウェー海戦をきっかけに不利なものとなっていった。
 1944年にアメリカ軍が「絶対国防圏」のサイパンを占領すると、重臣、海軍や陸軍皇道派、さらには自由主義者のなかから反東條英機・反統制派の動きが強まり、天皇や木戸幸一内大臣らもこれに同調して、7月18日に東條内閣は総辞職をした。
 後任には小磯内閣(1944.7.11〜1945.4.7)が成立し、1944年には大本営政府連絡会議が、最高戦争指導会議に改組されている。しかし、このころからは本土空襲が頻発し、国民生活も逼迫。太平洋への補給路が寸断されるとともに、輸送船の攻撃も相次ぎ、戦死者の6割以上は1944年以上に集中することとなった。


 1944年10月にはフィリピンでレイテ沖海戦がはじまり、武蔵むさしを含む戦艦三隻、空母四隻、その他の艦艇多数が沈没し、連合艦隊はほぼ壊滅した。神風しんぷう特別攻撃隊による特攻作戦がはじまったのは、このときからである。
 1945年2月のヤルタ会談では、ソ連の対日参戦方針や満洲におけるソ連の特殊権益が確保される密約が取り決められた。1945年2月19日以降、アメリカ軍は硫黄島に上陸。1945年3月10日未明には東京大空襲(死者10万人)、3月13日に大阪、3月17日に神戸、3月19日に名古屋、5月25日に再び東京、5月29日に横浜、6月5日に神戸など、全国各地の大都市の工業施設・軍事施設のみならず一般の住宅地がB29による焼夷弾しょういだんにより火の海となり、人々を恐怖に陥れた。
 なお、1945年3月23日には国民義勇隊を組織することが閣議で決められ、大政翼賛会、翼賛壮年団、大日本婦人会などが、これに統合されていった。

 この間、近衛文麿は2月14日に昭和天皇に対して「近衛上奏文」を提出している。

資料 近衛上奏文(1945年2月14日)

戦局の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。以下前提の下に申上ぐ。
最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり。又、将来如何に変化するやは測断し難し)随って最悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり。
つらつら思うに我国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存ず。即ち国外に於ては蘇聯の異常なる進出に之なり。我国民は蘇聯の意図を的確に把握し居らず。彼の一九三五年人民戦線戦術即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる視方なり。蘇聯は究極に於て世界赤化を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第なり。
蘇聯は欧州に於て其周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余の諸国には少くとも親蘇容共政権を樹立せんとして着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状なり。(後略)

 このとき昭和天皇は、もう一度戦果をあげてから、として和平交渉に入る姿勢はみせなかった。 

 アメリカ軍は、1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸。54万8000人のアメリカ軍が投入された地上戦と、「鉄の暴風」と呼ばれる艦砲射撃を受け、軍人約10万人、民間人約15万人(1944年当時の沖縄県民人口は59万人)の死傷者を出して、6月23日に組織的な戦闘は終了した。

 敵に対する一撃を加えてから和平交渉をすすめようとしていた小磯国昭内閣は、その企図もかなわず、沖縄戦の間に鈴木貫太郎内閣(1945.4.7〜1945.8.17)に交替した。
 また沖縄戦の間、1945年5月にはドイツが降伏している。

 6月23日には義勇兵役法も発布がされ、徴兵対象が拡大され男(15〜60歳)・女(17〜40歳)に義勇兵役が課されることになった。こののち、空襲の標的は熊本、呉、甲府、浜松など地方都市にも及び、厭戦気分も高まった。
 7月〜8月にはポツダム会談が、トルーマン、チャーリル、スターリンのあいだでおこなわれ、そのさなか7月26日にはアメリカ・イギリス・中国の名でポツダム宣言が発表された。
 日本軍への無条件降伏と戦後処理方針を示したもので、7月28日の新聞各社はこれを「黙殺」と報道し、首相もそう発表した。


 連合国は日本がポツダム宣言を「拒否」したととらえ、すでにマンハッタン計画により人類初の核兵器開発を急いでいたアメリカ合衆国は、8月6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾を投下した。

 一方、ソ連は日ソ中立条約を破棄して8日に宣戦布告し、満洲、朝鮮、樺太を占領した。

 8月9〜10日にかけて御前会議がひらかれ、国体護持だけをポツダム宣言受諾の条件にかかげる東郷茂徳外相の意見を昭和天皇は支持。12日にアメリカ国務長官・バーンズから以下のような回答が届いた。

資料 バーンズ回答(1945年8月11日)
August 11, 1945
Mr. Max Grässli
Chargé d' Affaires ad interim of Switzerland
Sir: I have the honor to acknowledge receipt of your note of August 10, and in reply to inform you that the President of the United States has directed me to send you for transmission to the Japanese Government the following message on behalf of the Governments of the United States, the United Kingdom, the Union of Soviet Socialist Republics, and China:
With regard to the Japanese Government's message accepting the terms of the Potsdam proclamation but containing the statement, 'with the understanding that the said declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler,' our position is as follows:
From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration, and shall issue his commands to all the Japanese military, naval and air authorities and to all the forces under their control wherever located to cease active operations and to surrender their arms, and to issue such other orders as the Supreme Commander may require to give effect to the surrender terms.
"Immediately upon the surrender the Japanese Government shall transport prisoners of war and civilian internees to places of safety, as directed, where they can quickly be placed aboard Allied transports.
"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.
"The armed forces of the Allied Powers will remain in Japan until the purposes set forth in the Potsdam Declaration are achieved."
Accept (etc.)
James F. Byrnes
Secretary of State

 この回答における「subject to」の意味をめぐり外務省と軍部のあいだに対立がおこったが、外務省は「従属する」ではなく「制限かに置かれる」と翻訳し、説得を図った。13日にも外相と陸相が対立したが、14日の御前会議で無条件降伏の方針が定まり、15日の正午にラジオ放送で天皇により録音された音声を放送し、戦争は終結した。国民は正午の放送を朝の号外で知らされ、植民地でも放送された。
 国民にとって太平洋戦争は、ラジオをもってはじまり、ラジオをもって終わったのである。


それぞれの敗戦

サブ・サブ・クエスチョン
すべての人々が、日本の「敗戦」を8月15日に認識したのだろうか?


 日本が公式に降伏したのは、9月2日に、昭和天皇と日本政府の全権として重光葵外相が、大本営の全権として梅津参謀総長が、アメリカ戦艦・ミズーリ号に乗船し、降伏文書に署名したときのことである。



 多くの日本人は、海外で敗戦をむかえることになった。東南アジアで終戦をむかえた日本兵の中には、植民地からの独立闘争に参加する人々もいた。


 満洲にいた日本人は、ソ連軍の侵攻や中国の内戦の影響もあって、本土への引揚げは難航した。家族を失い中国人に養育されることになった子ども(中国残留孤児)や、中国人と結婚した女性(中国残留婦人)は、中国人として生きる道を選ぶことになった(あわせて中国残留邦人と呼ぶ)。

 ソ連の侵攻した樺太では、8月15日後も、22日まで戦闘が続けられた。国民義勇戦闘隊が召集され、住民を巻き込む地上戦が展開された。


 8月9日未明にソ連軍の侵攻を受けた満洲でも、8月15日後も先頭が続いた。満蒙開拓団から「根こそぎ召集」された人々の中には、シベリアに抑留されたり、現地の人々からの暴力にさらされたりした。なかには集団自決をした開拓団もあった。ソ連との停戦合意がなされたのは8月19日のことだった。

 引き揚げは1946年4月以降に始まった。国内に帰還した人々の多くは、新たな地域の再開拓に乗り出す必要に迫られた。





 ソ連によってシベリアに連行された人々は、極寒の地における強制労働によって多数が命を落とし、引揚げは1956年の日ソ共同宣言までかかった。
 
 南方戦線で戦った兵士の中には、降伏後も密林にこもって戦い続ける兵士もいた。

 ヴァルガス大統領の独裁体制における外国語使用制限により、1941年8月までに日本語新聞が発効停止の状態にあったブラジルでは、情報が遮断され、敗戦の情報を信じない「勝ち組」と、敗戦を認める「認識派」(「勝ち組」によって「負け組」と呼ばれた)との間に深刻な対立がもたらされた。下記は「認識派」として正確な情報伝達につとめた農業組合常務理事による演説である。

資料 ブラジルにおける「勝ち組・負け組」事件(1946-47年)
下元健吉「定期総会ニ於ケル所感」(1946年7月27日)
「(前略)所で一方、この虚に乗じ、一部の人達が何事かを企図して発せられたでありましょう「日本戦勝」と云う全く事実と反対の虚説が流布され、其の後臣道聯盟その他何々会等の秘密結社が大掛かりに活動を開始し、時流に反抗せんとする気勢を揚げ、正しき時局認識者を目して非国民よ国賊よと罵り、遂に過激な分子を馳って(ママ)徒党を組んで同胞を暗殺して廻ると云う血迷った行動に出でしめ、伯国ブラジル社会を震駭しんがいする一大不祥事を勃発せしむるに至りました。しこうして終戦後一ヶ年を経過せんとする今日なお未だ正しく時局を認識し得ない人々が非常に多いと云う現状であります。」

(出典:鈴木茂・訳『世界史史料11』45−46頁)




 中国にのこされた中国残留邦人については、1980年代に訪日調査が始まり、日本国への帰還が始まっている。


 なお、1942年2月にアメリカ合衆国において強制収容所に収監されていた日系アメリカ人たちは、戦後に解放された。

資料 ジョン・オカダ『ノーノー・ボーイ』(1957年)



 また、南米のブラジルやペルーにおいては、日本人の移民のなかで、敗戦後に日本の敗戦をめぐる認識をめぐり、深刻な対立を引き起こした

「1941年(昭和16)6月に日本語新聞が廃刊されて以後は、日本人たちにとって、ポルトガル語を多少読むことはできても、ブラジルのポルトガル語紙の記事は連合国側のデマ宣伝で信用できないとして、人づてに聞く日本からの短波放送の情報のみが信用できる情報となっていった。日本の放送にも連合国側同様にプロパガンダが含まれているとは考えなかった。
1945年(昭和20)8月14日、日本のポツダム宣言受諾を伝える放送はブラジルでも聞くことができ、敗戦の知らせを聞いた日本人たちは呆然とするばかりであった。しかし、少し時間がたつと、敗戦という受け入れ難い事実を受け入れる代わりに、それまでに得た情報を願望によって都合よく再解釈し、敗戦はデマであり、実は日本が勝ったのだと言い出す者が出てきた。その言説は、すぐさま日本人の間に伝わり、敗戦を受け入れたくない多くの人たちに信じられることになった。これらの人たちは、勝ち組、戦勝派、信念派などと呼ばれた。
日系社会の中で指導者層には敗戦を受け入れる人が多かったが、一般の人の多数、特に奥地ではその大多数が日本の勝利を信じた。ただし、日本の勝利を信じた人は、ブラジルにだけではなく、空襲で焦土となった国土や物資の極度の不足による国民の困窮した生活を自身の目で確認することができなかったハワイ、ペルーなどの在留邦人や外国で抑留されていた日本軍将兵の捕虜などのなかにもいた。
(中略)
一方では、このように多くの日本人が敗戦の事実を認めずに軽はずみな行動をとることによって、日本人全体がブラジル社会から排斥されることを恐れた日系社会の指導者層の人たちが中心となり、敗戦の事実と日本の置かれている現状を戦勝派の人たちに納得させ、ブラジルの社会のなかでとるべき生活態度を皆で考えいくための時局認識運動(略して、認識運動)を起した。この運動に従事する人は、認識派、負け組、(勝ち組から悪意をこめて)敗希派などと呼ばれた。
1945年(昭和20)10月3日、万国赤十字社ブラジル支部を通じて、認識派の宮腰千葉太(元アルゼンチン代理公使、元海外興業ブラジル支店長)に終戦詔書と東郷外相の海外同胞に対するメッセージが届けられると、宮腰は在留邦人の有力者を集め、その場でこの文書を在留邦人の間に伝達することを決議した。だが、この行動は戦勝派の人たちをかえって憤激させることになり、宮腰らは「国賊」「非国民」として攻撃の対象となった。そのため、宮腰らは当初、地方の主要な集団地を訪問し、直接話をして回る計画をしていたが、身の危険があると見て計画を中止し、代わりに詔書と外務大臣メッセージの印刷物を地方に配布することに切り替えた。
10月19日、認識派の人たちは、日本の実情を知らせるため在サンパウロの米総領事に日本の新聞書籍、雑誌の取り寄せを依頼し、翌昭和21年(1946)3月16日、日本から新聞が到着し、直ちに各方面に配布している。」

(出典:国立国会図書館「ブラジル移民の100年」、https://www.ndl.go.jp/brasil/s6/s6_1.html



■大戦の遺産

サブ・クエスチョン
第二次世界大戦は、国家や社会をどのように変えたのだろうか?

 第二次世界大戦中、各国政府は国家のしくみを、国民の動員と主体的参加が容易なものとなるように変えていった。
 すなわち、国民生活の隅々にいたるまででを統制するとともに、人々が主体的に国家のために参加する意識を持つようなしくみの構築である。
 大規模な徴兵や労働力の動員のために、各国政府により積極的に社会保障制度が形成され、戦後にも引き継がれていった。
 また、統制経済を通じて政府と企業の関係も変化し、日本においては戦後の「護送船団方式」と呼ばれる経済の仕組みにに受け継がれていった。

 また、地域や企業において積極的に戦争に参加した女性たちや、植民地や占領地の人々の民族意識なども、戦後の女性解放運動、民族解放運動につながっていく。

 多数の人々が命を落とした戦争への通説な反省から、人々の間には人権や民主主義を重んじる意識、平和をもとめる反戦意識が高まった。
 これらは、大戦後の世界各地の人々による社会運動にも、引き継がれていくこととなった。

兵士と戦争

 第二次世界大戦の死者数は、世界史上最多を記録した。

(出典:社会実情データ図録、http://honkawa2.sakura.ne.jp/5227.html

 日本軍の死者は310万人(軍人・軍属が230万人。なお民間人は80万人)であり、その9割が1944年以降、戦争末期のものであると推測されている。日本軍の戦没者のうち、病死・餓死の占める割合は6割強を占め、生き延びたとしても戦後ながらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患う元兵士も少なくなかった。
 その経験を書き留めた戦記や手記、さらにそれらをもとにした小説や映画、アニメーション作品などは、戦後、長い時間をかけ、徐々に人々の目に触れるようになっていくことになる。




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