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14.3.6 トルコ革命 世界史の教科書を最初から最後まで

オスマン帝国では、オスマン語(オスマン帝国で用いられたトルコ語)を表記するためにアラビア文字(オスマン語アルファベット)が採用されていた。

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でも、現在のトルコ語(オスマン語からペルシア語やアラビア語由来の言葉を減らしてシンプル化したもの)を書く時には、ローマ字が使われる。

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その大転換のきっかけになったのが、第一次世界大戦後のトルコ革命だ。

リーダーシップを発揮したのは、軍人出身のムスタファ・ケマル(1881〜1938年)という人物。

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オスマン帝国は第一次世界大戦でドイツとオーストリア側に立ち参戦。結果として “負け組”となった。
協商国との間に結ばれたのはセーヴル条約という過酷な取り決め。

・オスマン帝国は、アラブ人の地域を失う
・オスマン帝国内のクルド人のために「クルド人の国」を建国する
・ギリシア王国に大幅に領土を割譲する

まさに国土がバラバラになる危機におちいった。

そもそもこのような分割は、第一次世界大戦中に、イギリスとフランス、ロシアによってこっそり取り決められたサイクス=ピコ協定にもとづくもの。

こうした危機に際して立ち上がったのが、第一次世界大戦の激戦 ガリポリの戦いを率いた名指揮官ムスタファ=ケマル(1881〜1938年)だった。

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彼がまず対決したのはギリシア王国だ。
1919年にギリシア王国の軍隊は、アナトリア半島のエーゲ海沿岸を「ここは古代の時代にはギリシアの領土だったところだ!」と主張して占領していた。



ギリシアに対する戦争(ギリシア・トルコ戦争)を指導したのだ。



大国との条約に縛られ、ギリシア王国に対してもなす術のないオスマン帝国政府は、すでに国民の支持を失っていた。
ムスタファ=ケマルは、オスマン帝国政府からの脱出メンバーの支持も得て、アンカラという都市(現在のトルコ共和国の首都)でトルコ大国民議会を組織する。

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1922年にケマルはギリシア王国軍を撃退し、エーゲ海沿岸のイズミルを回復。
その後、スルタン制を廃止した。

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宮殿をあとにする最後のスルタン



1923年には協商国との間にもう一度会議をもち、ローザンヌ条約を結んで、セーブル条約のときに縮小された領土を拡大させることに成功した。

そして、アンカラを首都にトルコ共和国を樹立する。


ケマルは大統領(在任1923〜38年)に就任し、1924年には共和国憲法を発布。
1924年にはなんとカリフ制も廃止した。
これ以降、ムハンマドの代理人とされるカリフは不在の状況となる。



ケマルの改革は多岐にわたった。



イスラーム教と政治を区別すること(政教分離)。

太陰暦のヒジュラ暦(イスラーム暦)ではなく太陽暦を採用すること。

女性参政権を実施すること。



アラビア文字ではなく、ローマ字をトルコ語を書き表すのに採用したこと。

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トルコ語による教育によって、トルコ人としての「国民」意識を育成すること。

ーなどなど、ヨーロッパ諸国を目標とした近代化を、トップダウンで強力に押し進めていった。


モスクであるアヤ=ソフィアは「博物館」となった



こうしてケマルの組織した共和人民党のみが握る一党独裁が、1945年まで続いていく。

イスラーム教的な価値観とヨーロッパ的な価値観との間に、その後のトルコは揺れ動いていくことになるんだ。



そもそも歴史的に見れば、トルコ人の故郷は中央アジアだ。



新しく建国された国民国家「トルコ」と、歴史的な「トルコ」は、かくして切り離されていくことになる。

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トルコ系の言語を話すグループの分布


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊