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16.3.1 アフリカの民主化と貧困・内戦 世界史の教科書を最初から最後まで

アフリカ南部では、長年続いていた少数の白人による支配体制が1980年代以降消滅していった。

ローデシア(現・ジンバブエ)

1965年にイギリスから一方的に独立して、黒人の隔離体制を維持しようとしたローデシアは、国際的な批判に直面し、1980年に黒人が主体となったジンバブエとしてうまれかわった。その指導者〈ムガベ〉(在任1980〜2017年)は長きにわたり大統領として君臨。経済政策に失敗しながらも強権的な手法で政権を維持したが、2017年に軍のクーデターにより失脚した。

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ムガベ大統領


南アフリカ

南アフリカでは1948年以降、黒人(ズールー人、ソト人、コーサ人、ンデベレ人、ツワナ人)や、

アジア人(インド系が主、ほかにマレー系。なお、日本人は“名誉白人”扱いをされていました)、カラード(白人とサン人・コイコイ人との混血やアジア人との混血など)など有色人種に対する差別的な体制が法的に確立され、白人(イギリス系やオランダ系アフリカーナー)優位の社会が築き上げられていた。

大多数の黒人は隔離された居住区で暮らすことを強いられ、アフリカーンス語の教育を強制され、白人の農場や企業の下、低賃金で働かざるをえなかった。

1980年代に入ってアパルトヘイトへの反対運動が活発化し、南アフリカ政府は国際的な経済制裁を受けるようになった。
これを受け〈ボータ〉政権は1985年に雑婚禁止法、背徳法、分離施設法を廃止、1986年にパス法を廃止するが、根本的な改革には至らなかった。



しかし、1989年に就任した〈デクラーク〉政権はアパルトヘイトの廃止に向け動き出し、まず1990年にアフリカ民族会議(ANC)や南アフリカ共産党を合法化し、アフリカ民族会議の指導者〈マンデラ〉を釈放した。

さらに1991年にアパルトヘイトの廃止を宣言し、人種登録法・原住民土地法・集団地域法を廃止。
かつて反政府運動を行っていた〈マンデラ〉と〈デクラーク〉大統領は1993年にノーベル平和賞を受賞した。
1994年には黒人でアフリカ民族会議の〈マンデラ〉(任1994~99) が大統領に就任する。

しかし、改革は決して平坦なものではなく、人種間の不平等を解消する政策も行き詰まり、アフリカ民族会議の〈ムベキ〉大統領(任1999~2008)下でも黒人の高い失業率や、エイズの高い感染率は続いた。
しかし経済成長は順調で、2000年代前半にはBRICsの一つに挙げられるほどに。
2008年には汚職疑惑を受け、副大統領の〈ズマ〉(2009~2018)が大統領に就任。しかし2018年にはインド系財閥の絡む汚職疑惑で起訴され辞任している。



資源と内戦

1979年と1979年の石油危機により、多くのアフリカ諸国は深刻な債務危機におちいった。
国際社会が援助をしてもアフリカの貧困はいっこうに解決されず、「アフリカの政治経済構造が悪いのではないか」という考えから、IMFなどの国際機関「構造調整政策」という強制的な自由化が導入された
しかしその結果は新たな貧困層を生む結果に。アフリカ諸国には債務だけが積み残された。

しかし、21世紀にはいるとナイジェリアなどの産油国や、鉄鉱石などの鉱産物資源を産出する国々では、輸出が増えて経済成長がすすんでいった。
資源に依存する国では民主主義が発展しにくいという「罠」もある反面、経済成長によってアフリカは「投資の対象」「ビジネスチャンス」として見られるようになっていった。

2013年にはアフリカの人口は11億人に到達。
工業化の進展によって都市人口が増え、1000万人を超す都市も出現するようになった。

しかし依然としてアフリカは農業生産性が低く、自給率もきわめて低いのがネックだ。
極度の貧困状態(絶対的貧困)に苦しむ人口は全世界になお10億人存在し、そのうちの多くをアフリカが占めるという状況だ。2000年に国連が採択した「MDGs」という開発目標は、絶対的貧困に苦しむ人を減らすものだったが、15年後に未達成のまま終わり、2015年にはSDGs(エスディージーズ)に引き継がれている。


「援助」による貧困の脱却か、それとも「成長」による貧困の脱却かをめぐって、国際社会は揺れている。


アフリカの内戦

アフリカでは内戦が多発し、死者や餓死者、難民を多く出した。

1991年〜1992年にはソマリアで内戦が勃発。

1994年にはルワンダの内戦で100万人の犠牲者が出た。


1974年に軍部のクーデタで皇帝(ハイレ=セラシエ)支配が倒されていたエチオピアでは、

社会主義が宣言されたものの、経済改革が失敗して難民・餓死者を出し、1994年にエリトリア戦線などの反政府勢力によって社会主義政権が崩壊した。



これらの紛争には、植民地時代に引かれた人為的な国境線(アフリカ分割)によって民族が複数の国に分断されていることや、貧困、飢餓、資源の配分をめぐる争い(しばしば国外の国家・勢力が介入する)に起因していることが多い。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊