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13.3.5 インドにおける民族運動の形成 世界史の教科書を最初から最後まで

インド帝国の成立以後、イギリスは港と内陸をつなぐ鉄道を本格的に建設していった。内陸から原材料を運び出すための「輸送コスト」を下げるため、全土に鉄道が張り巡らされたのだ。

ダージリンヒマラヤ鉄道は、ダージリンのプランテーションから茶を積み出すために建設された鉄道で、1999年には世界遺産に登録された。



さらにインドとヨーロッパをつなぐ電気や通信のネットワークも着々と整備していった。

また、世界市場向けに生産されるコーヒーやお茶などのプランテーションや、綿花などの工業原料作物の生産も広がり、インドはイギリスを中心とした世界的な経済体制のなかに組み込まれていくことに。

これらの経済発展は、イギリスの利害にあわせてすすめられたので、インドの人々に重い負担をもたらした。

また、人々の移動が活発化したことは、感染症が蔓延する原因にもなった。

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一方、イギリスへの財政負担が増える一方で、インドでは、19世紀後半の世界的な経済の好景気の恵みも受けた。農産物の価格が上がったことで、しだいに税の負担感が下がっていき、農地拡大やインフラ整備によって、経済が上向いていったのだ。

たとえばボンベイ(現在のムンバイ)では、ゾロアスター教徒のタタという綿花商人が、紡績工場を建設。綿糸を中国へと盛んに輸出し、後発の日本と競い合っていくようになる。

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このように、植民地支配を受けたインドにおいては、「支配するイギリス人」と「支配されるインド人」という単純な見方ではなく、「支配されるインド人」の中にも、主体的にこの状況をのりこえ、利用していこうとした人たちがいたのだという視点も重要だ。

たとえば、イギリス式の法律を勉強した法律の専門家(弁護士)や、工学のプロであるエンジニア、さらに文書行政をあつかう官僚といった職業は、インド人が植民地においてステータスを上げることができる代表的なルートだった。
どれもイギリス式の勉強をみっちり叩き込まなければできないから、もちろん余裕のある人にしかアクセス権はない。

しかし、エリート層を中心に、イギリスへの留学などを通して “イギリス式の考え方” を身につけた人々の中からは、それまでのインドの人々にはなかった自己認識を持つ人も現れるようになっていった。
シパーヒーによる大反乱を経験したイギリス側にとってみれば、インド人のエリートは利用価値の高い存在。植民地支配の協力者、”小さなイギリス人“ としてうまく使おうと考えていたのだ。

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これら双方の意図が一致して、インド人の意見を諮問する機関として、1885年にインド国民会議が結成されることに。
エリートだけが所属することができるという名誉の下、イギリスに対する批判を集約する役割を果たした。
この国民会議は、当初は穏健な組織だったけれど、しだいに民族運動の中心となっていくことになるよ。


一方、イギリス当局は、どうにかしてヒンドゥー教徒たちの批判が、やがて大きな反イギリス運動にエスカレートすることを防ごうとした。
1858年に始まったインド大反乱の苦い経験があるからね。
そこでとったのが「分割政策」だ。

ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒を反目(はんもく)させて運動を分断することを意図して、1905年に、ベンガル州を両教徒がそれぞれ多数を占める東西2つのエリアにわけるベンガル分割令を発表したのだ。


西ベンガルは現在のインドの西ベンガル州。ヒンドゥー教徒の多い地区である。

東ベンガルは主に現在のバングラデシュにあたる地区で、イスラーム教徒が多い。

それぞれ「多い」というだけで、別にくっきりと厳密にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が分離して住んでいるわけではない。それまでは、ご近所同士共存してやってきた仲だ。



ベンガル分割令に対して国民会議派は即座に反応。
これまでの穏健派にかわってティラク(1856〜1920年)らの急進派が主導権をにぎり、分割反対運動を展開した。

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1906年にカルカッタで開かれた大会では「ポンドの使用をやめよう」(英貨排斥)、「インド産の製品を愛用しよう」(スワデーシ)、「自治を獲得しよう」(スワラージ)、「インド人としての民族教育をしよう」という力強い四大綱領が決定された。

一方のイスラーム教徒は、ベンガル分割令によって「イスラーム教徒が多数派の州が誕生する利点がある」と説くインド総督の影響もあって、国民会議とは別に、親英的な全インド=ムスリム連盟を結成した(1906年)。

さらに、ベンガル分割令によって急進化した民族運動をおさめるため、イギリスはまるめこもうと、インド人の一部を植民地の行政組織に参加させることにしていく。
結果的に、1911年にはベンガル分割令を撤回する一方、首都を反イギリス運動であったカルカッタからデリーに移すことになった。


デリーは、もともとデリー=スルタン朝や

ムガル帝国の時代に都であったところで、巨大な寺院(ジャマーマスジド)や市場が林立する歴史ある街だ。


このオールド=デリーの近くに、新たにインドを支配するための拠点として「ニューデリー」が建設されていくことになるのだ。


なお、のちにインド初代首相となるネルーは、ベンガル分割令に対する闘争が、日露戦争での日本の勝利に勇気づけられたと述べている。

資料 ネルー『父が子に語る世界歴史』より
「世界の概観」(1932年11月19日)
[前略]二十世紀のはじめ、アジアの精神にえいきょうをおよぼした事件がおこった。これはロシアの、日本にたいする敗北であった。ちっぽけな日本が、ヨーロッパのうちでも最大、最強の国の一つをうちまかしたということは、多くの人びとをびっくりさせた。アジアにとっては、これは、うれしいおどろきであった。日本は、西洋の侵略とたたかうアジアのチャンピオンとあおがれ、しばらくは、全東洋にひじょうな人気をあつめた。もちろん日本は、なにもそういう意味のチャンピオンではなかった。日本は日本で、ヨーロッパの強国とすこしもちがわぬやりくちでたたかったのであった。わたしはいまでも、日本の勝利のニュースがつたえられるたびごとに、わたしがおぼえた感激をまざまざとおぼえている。
こうして、西洋の帝国主義がますます侵略的になるにつれて、東洋の、これに対抗し、これとたたかおうとするナショナリズムも、いよいよたかまった。西はアラブ諸民族から、東のはてはモンゴール民族にいたるまで、アジアじゅうに民族運動が形成され、はじめのうちこそ用心ぶかく、穏健なあゆみをしめしたが、やがて時とともに先鋭な要求をいだくようになった。インドにははじめて、国民会議派がすがたをあらわした。アジアの反逆ははじまった。[後略](『父が子に語る世界歴史3』116-117頁)

「インドのめざめ」(1932年12月7日)
[前略]わたしはまえに、アジアに大きな刺戟を与えた、一つの事件について語った。それは、1904−1905年における、ちいさな日本の、巨大なロシアに対する勝利のことだ。インドは、ほかのアジア諸国と動揺に、深い印象をきざみつけられた。すなわち中間階級知識層は感銘をうけ、かれらの自信は増大した。もし日本が、最も強大なヨーロッパの一国にたいしてよく勝利を博しえたとするならば、どうしてそれをインドがなしえないといえるだろう? ながい間インド人は、イギリス人にたいする劣等感にとらわれていた。
[中略]
それゆえ日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。そしてインドでは、われわれの多くがとらわれていた劣等感情を軽減した。(『父が子に語る世界歴史3』182-183頁)

「日本の勝利」(1932年12月29日)
[前略]いまこうして書いている間にも、日本の満洲征服にかんして、はげしい議論がかわされている。
[中略]
かくて日本は[筆者注:日露戦争に]勝ち、大国の列にくわわる望みをとげた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、「アジア人のアジア」の叫びが起った。しかしこのナショナリズムは単なる復古でも、旧い習慣や、信仰の固執でもない。日本の勝利は、西洋の新産業方式の採用のおかげだとされている。この西洋の観念と、方法は、このようにしていっそう全東洋の関心をあつめることになった。
(『父が子に語る世界歴史3』213-214, 221頁)


「中華民国」(1932年12月30日)
日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まずさいしょになめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は朝鮮の没落を意味した。(『父が子に語る世界歴史3』222頁)


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