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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第21話 その1 1870年~1920年)

今回は、1870年~1920年の日本を、世界の歴史との関係を意識しながら見ていきます。以下の4期に分けてお送りします。
その1 1870~1880年
その2 1880~1895年
その3 1895~1910年
その4 1910~1920年

どうして廃藩置県にとりかかったんですか?

―新政権の指導者たちには「あたらしい日本」を、欧米が「同じランク」と認めもらう国にしなければ、アジア諸国のように植民地化されてしまうとの危機感があった。

どうすれば「一人前の国」と認めてもらえるっていうんでしょう?


―ヨーロッパでは「一定のエリア」の中に「ただひとつの政治権力」(注:主権)と「それにしっかり従う国民たち」がいなければ、「一人前の国」として認めてもらえなかった。

 それができていないエリアは「持ち主不明」(注:無主)ということで、植民地にしようが併合しようがかまわないという認識だ。

東アジアの国際関係と、近代ヨーロッパの国際関係では、その成り立ちや考え方に大きな違いがある。まあ当たり前のことなんだけれども。


 で、その国の「基本コンセプト」を記したものが「憲法」で、国民たちが支配者に対して「このコンセプトに基づいて政治をしなきゃだめですよ」と釘を刺すためのものでもあった。
 こうしたヨーロッパ流の国のしくみが整っていてはじめて、「一人前の国」と認められるわけだ。


ずいぶん民主的ですね。

―アメリカでは大人の男なら誰でも政治に参加できたけど、当時の欧米では政治に参加できたのは、一部の良い家柄や財産を持つ男に限られていたんだよ(注:ジャクソニアン・デモクラシー)。

どちらにせよ男だけなんですね。

―そう。女性には家を守り、子どもを育てることが求められたんだ。

で、日本の「あたらしい指導者」たちは急ピッチで国をまとめようとしていくことになるわけですね。

―そう。欧米の進出に対する危機意識が根本にあったんだ。
 各地では江戸時代からつづく「藩」がいくつもあって、殿様たちが各エリアの人々を支配する形がつづいていた。

天皇中心の国づくり」も、当初は全国の藩を寄せ集め、「藩主の話し合い」によって国を運営するプランがあったほどだ。


各地の藩主だって自分のエリアを失いたくないですもんね。

―ただ、「そうもいっていられない」というムードは、地方でもけっこう広まっていたんだよ。

 で、そんな中、政府の政治家(注:大久保利通木戸孝允)は、各藩の土地と人々を「あたらしい政府」に返すという形(注:版籍奉還)をとって、「日本の統一」を急ピッチで進めていこうとした。

 これを主導したのは、鹿児島・山口・高知・佐賀の藩主たちだ。


藩主の立場はどうなっちゃったんですか?

―あたらしい政府の「役人」(注:知藩事)に任命し、政府から給与(注:家禄(かろく))を支給することにした。
 つまり結果的には、「藩」は温存され、藩主もそのまま支配はつづけられるけど、あくまで政府のいうことをきかないといけなくなったわけだ。


これには文句も出たでしょうね。

―そうだね。農民が立ち上がることもあった。
 鎮圧するためには「強力な軍事力が必要だ」ということになって、鹿児島・山口・高知の藩の兵力を中心に、政府直属の軍隊(注:御親兵(ごしんぺい))をつくった。

 さらにその勢いで、山口(注:木戸孝允)、鹿児島(注:西郷隆盛)、高知(注:板垣退助)、佐賀(注:大隈重信)の若手指導者が中心となって、天皇からの命令(注:詔(みことのり))という形で全国の藩の直接支配にのりだしていく(注:廃藩置県)。 

 こうしてあらたに県が設置され、中央から知事(注:のち県令と呼ばれた)が派遣された。

これが今の47都道府県ですね!

―ううん、まだまだ。



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中部地方の例府県の変遷ウェブサイトより)

 当時はなんと300もの府と県があったんだよ。まだ東京「」ではなく東京「」だった。

そんなにたくさんあったんですか!

―北海道は「開拓」していく場所と位置付けられ、先住民(注:アイヌ)を「日本人と同じにしようとする」政策もはじまっている。

これによって、従来の藩主は「ふつうの人」になっちゃったんですか?

―とくに有力な大名は「上流階級」(注:華族)とすることで納得してもらった。この身分には、天皇との関係がある有力な人たち(注:公家)も含まれた。さらに以外の武士(注:士族)、ほかの普通の人たち(注:平民)も区別されているよ。

 建前としては「どの身分も平等」という設定。たとえば平民も苗字(注:みょうじ)を持つことが許され、平民が上の身分と結婚することも許されるようになった。

 ただ、元・武士たちには引き続き政府からの給与(注:秩禄(ちつろく))が「米」で支給されつづけていた。
 また、江戸時代に差別を受けていた人たち(注:えた、ひにん)も、「普通の人たち」と一緒の身分ということになったけど、差別はその後もつづいているよ。


でも政府もずっと元・藩主に給与を支給しているんじゃ、大変じゃないですか?


―だよね。そこで「今後は秩禄はあげられない。希望者には今からお金を支給するから、承諾してくれ」と迫った(注:秩禄奉還の法)。「希望退職」を募る感じだね。

 さらにその後、政府は給与の支給を強制的に打ち切ってしまった(注:金禄公債証書の交付)。「リストラ」だ。

 これで元・武士たちの暮らしは困窮。
 さらには「武装解除」(注:廃刀令)もおこなわれる。商売なんて手をつけたこともないのにビジネスに乗り出して失敗する元・武士(注:士族の商法)も増え、政府に対する不満がつのっていった。


元・武士にとっては大変でしょうけど、だれでも自由にビジネスができるようになったんですね。

―そうだよ。
 なかには成功した元・武士もいたし。

 商業をさかんにするには「仲良しクラブ」や「談合グループ」があっては不都合だもんね(注:株仲間の解体、関所の廃止)。

 また、その土地が誰の「持ち物」なのかをハッキリさせる制度をつくっていった(注:田畑永代売買の禁止)。これは、土地の「持ち主」から税金をしっかりとるためでもある。

「あたらしい国づくり」のためには、いろいろとお金がかかりそうですもんね。

―ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国と肩を並べるためには、工業化のために工場や設備、技術を導入する必要があるよね。
 そのために、政府は海外から技術者(注:お雇い外国人)を呼び寄せたりした。
 ギャラは当時の日本人の平均と比べると、目玉の飛び出るくらい高いものだった。

 たとえば、日本が不平等条約を改正するためには「ヨーロッパ流のちゃんとした法典」を整備する必要があったので、フランスの皇帝がかつて整備させた法典を参考にするためにフランスの法学者(注:ボアソナード)が先生として呼ばれた。


 ほかには、熊本で西洋式の学校をひらいたキリスト教徒の先生(注:ジジェーンズ)。


 北海道で家畜の飼い方をおしえたアメリカ人(注:ケプロンやクラーク)が有名だね。


 
 ヨーロッパの最新技術を導入し、産業をさかんにすることが目指されたわけだ。
 「使えるものはそのまま使おう」ということで、幕府の持っていた鉱山や工場はそのまま政府が引き継いだんだよ。

どんな産業がさかんだったんですか?


―シルクの糸づくりだよ。
 特別なガの幼虫をそだて、サナギの繭(まゆ)から糸を取る。それをよじって強い糸にするんだ。栃木県には、フランス人の先生(注:ブリュナ)を招き蒸気の力を利用して機械をつかった生産をする工場(注:富岡製糸場)が建設された。
 そこで「技能実習生」としてはたらいた民間の人たちが、ふるさとに帰って工場をつくったり、指導してくれることを期待したんだ(注:官営模範工場)。

この産業をさかんにする政策(殖産興業)は誰が主導したんですか?


―政府の工部省や内務省という部署だよ。
 技術を研究するための学校も次々に建てられていった(注:工学寮(のちの東京大学工学部)、駒場農学校(のちの東京大学農学部)、札幌農学校(のちの北海道大学))。

 民間でも特色ある塾を建てる動きも起こっている。
 江戸時代の末期にアメリカにひそかにわたり教育を受け、キリスト教徒の精神を教える塾(注:同志社英学校)を設立した人物(注:新島襄)や、アメリカやヨーロッパを経験し「あたらしい時代のための教育」をする塾(注:慶応義塾)を建てた教育家(注:福沢諭吉)が有名だ。

 ところで、産業を盛んにするには「みんなが使うことができる交通・通信・ビジネスの基盤」(注:インフラ)も必要だ。
 例えば、ちゃんと相手に時間通り届く郵便(注:前島密(まえじまひそか))、距離が遠くてもすぐにコミュニケーションができ(注:電気信号による通信である電信)、たくさんの人や荷物を運ぶ交通システム(注:鉄道の敷設)などなど。

電信、鉄道? そんな技術がすでにあったんですか?

―すでに「電気の正体」は判明していて、電気を通信に応用するテクノロジーもすでに発明されていたんだ(注:モールス信号電話)。
 でも鉄道といってもこの時代はまだ「電車」ではなく、石炭を燃やして蒸気力で動かす「蒸気機関車」だよ。
 まあ、なんにせよお金はかかるよね。


いつも不思議に思うんですけど、「お金が足りない」なら、お札を刷っちゃえばいいじゃないですか。

―まあ当初はそうしていたんだけど、あまり刷りすぎるとお札の価値は低くなってしまうよね。
 「これって本当に使えるんだろうか?」って思われたら、お札は単なる紙切れになってしまう。
 そんな状態じゃ、円滑にビジネスは進められない。
 そこで政府は、「刷ったお札は金(ゴールド)と交換可能ですよ」ということにして、お金の価値を安定させることにした(注:金本位制)。


ずいぶん思い切ったことをしましたねえ。

―もともと江戸時代のころも、金、銀、銅などさまざまな素材のコインが使われていたんだけど、クオリティに差があったり価値が不安定なことが問題だった。
 そこで、金(ゴールド)のコインを発行し、それと交換できるお札をつくることで、ごちゃごちゃしたお金の制度をまとめようとしたわけだ。

なんでそこまでして「信用」させないといけないんですかね?

―いまの我々からすると「あたらしい政府」が「しっかりとした政府」ってことはわかりきったことだけど、当時の人たちからしたらどうかな?
 幕府が滅んで、生まれたばかりの政府への信頼は盤石(ばんじゃく)とはいえなかったんだ。
 できたばかりの政府がまた滅んだら「紙切れ」になっちゃう紙幣(注:太政官札(下図)、民部省札)なんて、怖くて持ちたくないよね。

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お金の価値を安定させることって、なかなか難しいんですね。

―そうなんだよね。
 でもね、金と交換できる制度をつくったはいいけど、そもそも日本国内には十分な量の金がないわけ。

どうしてですか?

―幕末に日本と欧米との貿易がはじまったとき、交換比率を利用したマネーゲームによって大量に国外に流出してしまっていたのを覚えてる?
 日本国内でしか通用しないお札を外国には渡せないから、結局外国との貿易で使われたのは「銀」だった。
 だから、金本位制と銘打ったものの、お札の価値は実質「銀と連動」させることになったんだ(注:金銀複本位制)。

政府ってそんなにお金がなかったんですね。

―正確にいうと、「お金」を「お金」として成り立たせるための(信用を与えるための)金(きん)や銀の備蓄が不足していたということだ。
 じゃあ、どうするか?

…金(きん)をたくさん持っている人に、お札を発行してもらうようにたのめばいいんじゃないですか?

―そのとおり。
 このときに政府が頼りにしたのは、実業家(注:渋沢栄一)だ。アメリカのナショナル・バンク制度を参考に、政府が公認した民間の銀行に「お札」を発行する権利を与えたんだ。もちろん政府が公認したのは、十分に金や銀を保有する銀行のみだ。初めは審査がきびしく、4行しか設置されていない(注:国立銀行。国の法律にもとづく銀行という意味。のち、金との交換義務を撤廃し153の国立銀行が設立された(例)ナンバー銀行のリスト(外部サイト))。

民間の銀行がお札を発行するなんて、変な感じですね。

―それほど政府は手元不如意だったんだよ。
 でも国立銀行の発行したお札(注:国立銀行券)は、発行されるとすぐに金(きん)と交換されて意味がなくなってしまい、この制度は失敗してしまった。
 

 また、貿易を盛んにするには、日本からの輸出品を海外に運ぶ船も「日本の船」にしたほうが安心だ。
 そこで海運会社(注:九十九商会→郵便汽船三菱会社→日本郵便会社)を立ち上げた実業家(注:渋沢栄一)がいる。彼はアメリカの船会社との価格競争に勝ち抜き、「日本独自の海運」を確立した立役者だ。。

当時の人にとっては何からなにまで物事が変わってしまって大変でしたでしょうね。

―生活スタイルそのものが劇的に変化したのは都会だけ。ほとんどの地域では伝統的な生活がつづけられていたようだ。

ちょんまげとかですか?

―そう。
 キリスト教は新しい政府になっても当初は禁止され(注:五榜の掲示)、長崎県でのキリスト教徒に対する激しい弾圧(注:浦上教徒弾圧事件)には、アメリカ合衆国の大統領(注:グラント)、イギリスの女王(注:ヴィクトリア女王)などの欧米からの強い抗議があった。

政府の対応は?


― 「キリスト教徒を弾圧しているようでは、不平等条約は改正できない」といわれた政府は、キリスト教徒の禁止を撤回したよ。

 一方、「あたらしい国」をまとめるための宗教として選ばれたのは、日本古来の神様たちをまつる神道だ。天皇は、その神々の源流(注:アマテラスオオミカミ)にまでさかのぼると説明され、「国のための神道」(注:国家神道)が整備された。
 教えを広めるための役所(注:教部省)ももうけられたけど結局うまくいかず、すぐに廃止されているけどね。

 古来の神道に「後から」加わった仏教の要素は「余計なもの」として徹底的に排除された(注:神仏分離令、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))。仏教のお坊さんにとっては大迷惑な話だ。


「ひとつの国」としての「まとまり」が、とにかく重視されたわけですね。

―新しい価値観をひろめるために、いちばん手っ取り早い方法は「教育」だ。
 そこで全国に20000校以上の小学校を設立し、男女問わず「身を立て、智を開き、産を治めるため」(各自が知識をひろげ、身を立てるため)に学校に通うべきだという制度(注:学制)をつくった。

 でも、フランスの学校制度に学んだ「どんな地域にも公平に大学、中学、小学校を1校ずつ設置しよう」という計画は、ちょっと無理があった。
 「大事な働き手をとられては困る」ということで、農民の反対運動が起きたところもあるよ。


「あたらしい考え」はなかなか受け入れられにくいですよね。


―「時代は変わる」「このままじゃまずい」っていうと、身構えてしまう人も多いよね。
 ヨーロッパやアメリカで最先端の教育にふれた人物(注:福沢諭吉)の書いた、「これからの勉強について考えよう」という本(注:『学問のすゝめ』)は特に若手の心に響き、ベストセラーになっている。

実際に社会を変える力につながっていったんですか。

―ヨーロッパ流の「あたらしい国」をつくるために何が必要かということが盛んに議論される中で、「これからの時代は、個人個人が「大切な存在」なんだ」という考え方(注:天賦人権論(てんぷじんけんろん))が注目されているね(注:加藤弘之(かとうひろゆき))。
 「いつまでたっても昔のまま」ではなく、「個人個人が責任をもって自由に社会を変えていこう」という考えも紹介された(注:中村正直(なかむらまさなお)『西国立志編(さいごくりっしへん)』『自由之理(じゆうのことわり)』)。


誰かがなんとかしてくれる」じゃなくて、「みんながそれぞれ自分でがんばらなきゃいけないんだよ」ってことですか。

―そうそう。
 それがあったから欧米諸国は発展したんだ!っていう考え方だ。実は元はイギリスのベストセラー(注:『自助論』)で、「どんなに高い位にある貴族でも、努力しなければ貧しくなっちゃう世の中だ。その逆もあるからがんばろう」っていう内容だよ。

なんだかやる気が出そう。

―うん。その分、シビアな世界だけどね。このように、この時期の学者たちはヨーロッパやアメリカの本を苦労して次々に日本語に翻訳していった。そのおかげで、日本の人たちはどんどん新しい知識を吸収していくことができたんだ。
 その背景には「文字がよめる人」の割合の高さがある。
 この時代のはじめには新聞が次々に発刊され(注:最初の日刊新聞は『横浜毎日新聞』)、本もつぎつぎに出版された。もともと出版文化がさかんだったこともあるけど、この時期に大量印刷を可能にする技術の
開発(注:本木昌造(もときしょうぞう)の鉛製活字)がなされたことも大きい。

でもどうしてこんなにヨーロッパの制度を急ピッチで導入することができたんでしょうか?

―新政府のトップたちが、自分たちでじきじきにヨーロッパを視察したからだ(注:岩倉遣欧使節)。
 幕末に結ばれた不平等条約の改正だけでなく、生のヨーロッパを見ることで「新しい国のデザイン」の参考にしようとしたんだ(注:ロシアのピョートル大帝の西欧視察)。

 条約は改正できなかったけど、このときに日本最初の女子留学生(注:津田梅子)がアメリカに同行したり、欧米の国のしくみやテクノロジーを目の当たりにしたことは大きな成果だった。


明治時代の日本は、天皇が絶対的な権力をにぎっていたイメージです。

―天皇と国民が「一体になって」国を治めるべきだという考えは、かなり広まっていた。
 ただ、それを「どんな形」にするべきかは、まだまだ不透明だった。

 実際、モデルとするべき欧米諸国の政治制度は、国によってだいぶ違う。

 イギリスだったら、王様が君臨しているけど、その下で実際に政治権力をにぎっているのは議員たちに権力を「任された」内閣だ。

 一方、アメリカ合衆国には王様はなく、法をつくる議会と、実際に権力をつかう大統領が別々に存在している。


日本はどの国の制度を参考にしたんでしょうか?

―このヨーロッパを視察したメンバー(注:岩倉遣欧使節)は、ドイツのやり方が日本に合っているんじゃないかと考えていた。


どうしてですか?

―ドイツは当時「あたらしい国づくり」を始めたばかりで、西のフランスと東のロシアに挟まれた状況で、なんとかイギリスを筆頭とする追いつこうと必死だった。それが日本の状況にしっくりくると考えられたんだね。
 「あたらしいドイツ」の政権をにぎっていたのは、プロイセンという国だ。


ドイツの中にプロイセンという国があるんですか?

―ドイツという地域は、これまでたくさんの国に分かれていたんだ。
 それを緩やかに束ねるグループ(注:神聖ローマ帝国やドイツ連邦)はあったものの、現実的には各地方にいくつもあった国の独立性が高かった。
 それを一つにまとめていこうとしたわけだ。


まるで「あたらしい日本」が、鹿児島や山口の藩によって建設されていったのと似ていますね。

―そうだね。
 国を一つにまとめるために、プロイセンの王様がドイツの皇帝(注:ヴィルヘルム1世)となって、スゴ腕の政治家(注:ビスマルク)とともに強い権力で政治を進めていこうとしたんだ。議会さえも皇帝のコントロール下に置かれ、国民が自由に意見をいうことは難しかった。


じゃあ、使節が帰国したら、国内の整備がすすんでいくわけですね。

―いや、そこに問題が起きた。
 一行の欧米外遊中、「留守番」をしていた国内組(注:西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎江藤新平副島種臣(そえじまたねおみ))の中で、「まずは朝鮮を武力で開国するべきだ」という主張がつよまっていったんだ。

どうしてですか?

―リストラされた元・武士たちの不満の矛先を、外に向けさせることができるんじゃないかということが大きかった。
 結局方針をめぐる対立から、「留守番組」は一気に政府をやめてしまう(注:明治六年の政変)。
 その直後、日本政府は台湾に軍隊をおくり、領土には加えなかったもののイギリスの外交官(注:ウェード)の仲介により中国から賠償金を得て撤退した。

どうして台湾に?

―もともとこの時期の初めに、日本は中国と「対等」な形で条約(注:日清修好条規)を結んでいた。つまり、長年にわたって中国がつくりあげてきた「外の世界との付き合い」の方式が、「上下関係」(注:冊封体制)から欧米式の「対等関係」に変化したというわけだ。


 その後、中国の領土である台湾の先住民によって、船で流れ着いた現・沖縄の住民が殺される事件が起きた(注:宮古島島民遭難事件)。沖縄は鹿児島にあった藩の支配下にあったから、その住民が殺されたということなので、責任を中国政府に問うたのだ(注:台湾出兵)。
 これをめぐっては政府の中でも対立があり、長州藩出身の政治家は反対して政府を辞職してしまった。

で、朝鮮はどうなりましたか?

―結局その翌年、日本政府は朝鮮に軍艦を送ることを決定した。

 当時の朝鮮の「親分」は中国の皇帝(注:清(しん))だったけど、なんとかしてこの「中国のバリア」(注:冊封体制)から朝鮮を外せないかと考えたわけだ。
 そこで軍艦を派遣して圧力をかけ、朝鮮を開国させることに成功した。
 ちょうど日本がアメリカによって開国されたときのような形で開国を迫り、3港の開港と不平等条約(注:日朝修好条規)を結ぶことに成功している。

 ちょうどこの頃は日本の領土が確定されていく時期にあたる。
 北は樺太島をロシア領とする代わりに千島列島を日本領とし(注:樺太千島交換条約)、南ではアホウドリの羽毛や糞由来の堆積物(グアノ)の採取の地として注目された南の島々(注:小笠原諸島)を領土に加えた。

沖縄はどうなっていますか?

―沖縄には琉球王国があって、実質的には鹿児島の藩(注:島津藩)の支配下にあって、同時に中国も形式的に「支配下」に置いていたよね。

 この時期にはついに琉球王国をほろぼし、日本の「沖縄」にしてしまうんだ(注:琉球処分)。


 でも中国との間にはハッキリとした確認はとれないままで、アメリカの大統領(注:グラント)が仲介しようとしたけど中国は応じなかった(注:先島分島案)。

対外政策をめぐって大変ですけど、ひとまず国境は一応決まっていったわけですね。

―そう。「ヨーロッパに肩を並べるちゃんとした独立国」にあるためには、「ここが自分の領土」ということを確定しなければならない。
 その点においては、当時の政治家の意見は一致していたといってよい。

 でも、元・武士たちにとってはさまざまな特権を失ったことで不満も溜まっていた。
 そんな中、「政府は旧・薩摩藩と長州藩で独占されている! ずるい!」と批判したのは、元・土佐藩の有力政治家(注:板垣退助)だ。
 彼は政府をやめて、政治グループ(注:愛国公党)を立ち上げ、「はやいところ議会をつくるべきだ。税をはらってるんだから、政治に参加する権利がある。そうしなければ強い国はつくれない」(注:民撰議院設立建白書)と主張した。

まだ「議会」もできていなかったんですね。

―そうなんだ。
 政府の多数派は、ヨーロッパ視察のときに参考にしたように、議会をつくるものの君主のパワーが強いドイツ流の国づくりを進めようとしたんだったよね。

 しかし、政府の中には「世界のトップを走っているイギリス流でいくべきなんじゃないか」(注:大隈重信)と考える人も現れるようになっていた。

 つまり、君臨する天皇の下に議会をひらいて、そこで政党が中心となって政治をしていくべきだという考え方だ(注:議会制民主主義)。
 「国と国民が一体になって、はじめて強い国がつくれるんだ」というわけだ。

 政権を退いていた有力政治家(注:板垣退助)からもこのプランを支持する声が上がっており、すでにいくつかの政治グループ(注:政社立志社愛国社など)が結成されていた。

 「国民たちにも、政治に参加する舞台を与えるべきだ」という運動(注:自由民権運動)は、「政府に反対する運動」につながる恐れがあったわけだ。

 そこで政府は、こうしたが拡大する前におさえようと判断。
 大坂で有力政治家(注:板垣退助と木戸孝允)と話し合って「国会をつくっていく方向性」を確認した(注:漸次立憲政体樹立の詔)。

めんどくさくなる前に妥協したわけですね。

―そう。
 実際に丸め込んだそばから、政府は取締りを強化(注:讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例)し、反政府の意見を封じ込めようとしているよ。
 こうして一旦、運動は沈静化してしまうわけだ。

 そんな中、各地で元・士族による反乱が多発(注:士族反乱)。政府によって順次制圧されていったけど、ここに最後の大きな反乱が鹿児島で起きたわけだ。

大河ドラマのやつですね。

―そう。桜島で最後を迎えた指導者(注:西郷隆盛)が有名だよね。戦費を調達するために、政府が金(きん)と交換できない紙幣(注:政府紙幣)を発行しまくったために物価が急騰する始末。物価高(インフレ)がすすんでも、土地税の額は固定だったため、政府にとっては実質的に収入が減ってしまうので「痛手」だったんだ。


 この最大の内戦の危機を脱すると、その後も有力政治家の暗殺(注:紀尾井坂の変)も起きたけど、ようやく政府に対する批判は「暴力」ではなく「言論」にシフトしていくことになる。

 府や県を置いたものの、ようやく地方をしっかり支配することが可能となっていったのは、西南戦争の後のことなんだ。
 郡区町村という地域の割り方が定められ、税金についても定められた(注:地方三新法)。
 このとき地方に議会を置くことを定め、有力な農民や地主などが政治に参加できるようになったんだ(注:府県会)。

* * *

 こうしてしだいに元・武士(注:士族民権)だけではなくて、大地主や商工業者(注:豪農民権)も、自分たちの意見を政治に届けようと運動に参加するようになっていったんだ。
 全国で政治にあらたに興味を持った幅広い人を対象に「演説イベント」がひらかれ、政治グループ(注:愛国社)も復活。ふたたび「国会開設をもとめる」運動が盛り上がっていくことになったんだ。

 もちろん何の縛りもないと荒れるから、「反政府」とみなした言論には厳しい処罰がくだったけどね(注:新聞紙条例など)。
 

その2(1880年~1890年)に続きます。 

今回の3冊セレクト


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