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14.1.4 大戦の結果 世界史の教科書を最初から最後まで

この未曾有の「大戦」は、ヨーロッパの「帝国」だけでなく、その「植民地」などの従属エリア、それにアメリカ合衆国や日本も巻き込む広大なスケールの戦争だったことから「世界大戦」(ワールド=ウォー)と呼ばれる。

そして、この約20年後に もう一度 “もっと大きな” 「世界大戦」が起こったことから、のちに「第一次世界大戦」と呼ばれるようになるよ。
歴史学者の中には、第一次世界大戦のはじまる1914年から、第二次世界大戦の終わる1945年までを「20世紀の三十年戦争」と呼ぶ人もいる。


ヨーロッパ諸国の反省

では、世界大戦の「火種」は、なんだったのだろうか?

まず挙げられるのは、高度な科学技術を発達させた「帝国」が、「植民地」などの従属エリアを拡大させようと互いに対立を深めていたことだ。



しかし、これほどまでに対立をしているのに、ヨーロッパ諸国にはまるで危機感というものがなかった。


19世紀末のヨーロッパでは「このままヨーロッパ文明の科学技術は、人類がこれまで体験したことのないような“夢の世界”を実現できる」という楽観的なムードが漂っていた。

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しかし、夢に導くはずだった科学技術がもたらしたのは、悲惨な大量殺害と文明の破壊。


「自分たちヨーロッパ人がやってきたことは、本当に正しかったのだろうか」と問い直す動きも現れた。

ヨーロッパが「人類すべて」であるかのようなヨーロッパ中心主義の考え方や、この先どんどん社会はよくなるという「進歩史観」。
さらに「近代科学やテクノロジーが、人類を幸福に導くはず」という、手放しの楽観的信頼に対する疑いだ。



全世界に広がった暴力


帝国」どうしのバトルの根底には、海軍力と経済力を誇り世界中に植民地を持っていたイギリス帝国と、急ピッチで国づくりを進め重化学工業を発達させたものの植民地に乏(とぼ)しいドイツ帝国の間のバトルがあった。

ヨーロッパの強国(列強)は、勝利のために、国内だけでなく「帝国」各地のさまざまな人々を動員。


国の力によって人生が狂わされた人々も多数いた。


また、大戦が長期化すると、各国の社会や経済が「国主導」のものへと根本的に組み替えられていくようになった。

従来のような「会社が自由に競争することが、社会全体のためによいことだ。国は経済活動にあまり首を突っ込まないほうがよい」という自由主義的な考え方は、「国主導」の考え方へと変化。

政治のスタイルも、国民の多数の“合意”にもとづき「国が強力なパワーを集める」タイプのスタイルへと激変していく。

国民が納得してくれるよう、国は社会保障を手厚くし、軍事費とともに国の予算が膨れ上がっていくことになる。


しかし、支配者どうしが国内外に内緒で条約をむすぶ「秘密外交」や、戦争後の領土配分の方式は、依然としてヨーロッパの“古いスタイル”のまま。

これに対しカウンターパンチを喰らわせたのが、戦争中にロシア革命によって成立した“労働者の政権”(ソヴィエト=ロシア)と、途中から協商国側に立ち参戦したアメリカ合衆国だ。



この2つの“ニューカマー”は 「今こそ、古いヨーロッパ・スタイルをぶっこわし、あたらしい世界のルールをつくるのだ!」と意気込み、戦時中から「戦後世界のプラン」を互いに発表。世界中の人々の期待感を高める。

特に植民地の“親分”であった「ヨーロッパ」同士が、「世界大戦」によって疲弊(ひへい)した光景は、植民地支配に苦しむアジアやアフリカの植民地の人々にとっては、「自治や独立を勝ち取る絶交のチャンス」と見えたのだ。


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