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2.3.2 中国文明の発生 世界史の教科書を最初から最後まで

前6000年頃(今から8000年ほど前)までに、黄河の流域で農耕が始まった。
栽培していたのはアワやキビなどの雑穀だ。


一方、長江流域でも1万年ほど前には、すでに稲の栽培が始まり、黄河流域とは別の文化を持つ民族が生活していた。

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 黄河流域では前5000〜前4000年頃に気候が温暖化。農業の技術が発展して、数百人規模の集落が生まれた。
 黄河の中流域の広い範囲では、同じような模様を持つ「彩文土器(彩陶)」を製作。これを使用した神様に対する儀式によって、仲間意識を育てていった。この文化を出土地の名前から仰韶(ぎょうしょう、ヤンシャオ)文化という。

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長江の中・下流域でも、河姆渡(かぼと)遺跡や良渚(りょうしょ)遺跡にのように、人口的な水田が整備された集落が現れている。


黄河流域がどのような環境か、次の解説を読んでみよう。

「中原地域のいずれにも共通するのは、雨量が少ないことである。最も多いところでさえ、日本の3分の1に満たない。しかも夏季・秋季に集中し、年による変動が激しい。…春夏の旱魃(かんばつ)と夏秋の大雨をたえず恐れなくてはならなかったのであり、われわれの感覚からすれば、かなり厳しい自然条件であろう。
そこで黄河では、氾濫が頻発した。降水が一定しないことから、その流量も安定しなかったからである。しかも河水の半分以上を泥土がしめ、水位が容易に地面より高くなってしまう河川であって、有史以来、しばしば流路をも変えた。

統治にあたった歴代の王朝政権は、もとよりそれに悩まされた。しかし黄河そのものは、少なくとも近代以前の人力で、十分なコントロールができる存在はなかった、と考えるほうが正しい。莫大な労力と費用をつぎこみ、堤防の構築、浚渫(しゅんせつ、河底にたまった泥土をくみだすこと)、決壊の補修などをくりかえしても、なお最低限の制御さえおぼつかなかった。
その黄河が運び形づくった黄土(こうど)層の大地は、人が居住しはじめた太古の昔には、鬱蒼(うっそう)とした森林に覆われていたとともに、またより多くの草原があったはずである。

…森林を切り開き、草原で家畜を飼育することで、施肥(せひ、肥料をほどこすこと)しつつ双方(森林と草原)を農地化し、人口を増やしていったプロセスが、いわゆる黄河文明の発祥と展開であろう。」

(出典:岡本隆史編『中国経済史』名古屋大学出版会、2013、11-13頁)


史料 黄河の洪水について(司馬遷『史記』)
[略]梁・楚*1の地はもとから、しばしば洪水に苦しみ、黄河沿いの郡で河に堤防を造ってふさいでも、たちまち欠壊し、その費用は計ることができなかった。[略]
 その明年*2山東は洪水の被害をうけ、庶民は多く食に飢え貧乏な生活をした。
 そこで天子*3は使者を遣わし、郡国の倉庫を空虚にして貧民を救済したが、まだ足らなかった。また富豪の人に募って貸仮させた[注:貸し出しさせた]が、それでも救うことができなかった。[略]

*1 黄河より南、淮河より北
*2 前120年
*3 武帝

吉田賢抵『史記4』(新釈漢文大系4)明治書院

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前3000〜前2000年頃(今から4000〜5000年前ほど)には、黄河と長江の人々の交流は活発化。その証拠に、黄河の下流域を中心に同じ製法で作られた黒い陶器が、長江中・下流域から、朝鮮半島の手前(遼東半島)に至る広範囲で出土している。この新しいタイプの黒陶は、製作により高い火力が必要で、出土地の名前から竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化と呼ばれる。


広い中国では黄河流域、長江下流域のほかにも、各地で特色ある文化をもつグループが発展していった。
かつて言われていたような「中国の文明は黄河文明から発展した」という説は、正しくはないんだよ。

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一方、交易の発展にともない民族間の争いも増加。遺跡の中には戦争で犠牲になった人々のお墓や大量の武器も見つかるようになっていく。

多くの人の労働力で土を固めて作った城壁や、支配層の巨大なお墓も見られるようになり、しだいに一部の支配層が権力を集めていったことがわかるよ。



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