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16.2.2 アジア社会主義国家の変容 世界史の教科書を最初から最後まで

中華人民共和国では「プロレタリア文化大革命」が終わると、失脚していた〈鄧小平〉(とうしょうへい)が中心となって、新しい指導部が作られた。

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〈鄧小平〉は一貫して表立った役職には付かず、主要なポストを配分する役目を果たした “影の実力者” だ。

彼は農民を集団化(個人が土地を扱うことを認めない)をすすめるための組織(人民公社)を解体し、ノルマ以上の収穫があれば農業生産物を市場で売ることを認めた。
またエリア限定ではあるが、外国からの資本や技術を導入する「開放経済」を認め、国営企業を独立採算にするなどの経済改革をおこなった。

あくまで社会主義の看板ははずさずに、市場経済を導入したことから、社会主義市場経済化という。
外交的にも仲の悪かったソ連など近隣国家との関係も改善しようとした。

しかし、民主化を認めないままに経済発展が進み、権限が一部の人々に偏って位いることに対し、学生と知識人の間に不満が広がった。
そんな中、1989年に東欧革命に触発され、同年6月、北京の中心部にある天安門広場で民主化デモが開催された。

政府は当初 静観していたものの、軍隊はこれを鎮圧し多数の死傷者を出した。これを(第2次)天安門事件という(第1次は文化大革命の末期)。

国際的な非難を浴びる中、趙紫陽(ちょうしよう、在任1987〜1989年)はその責任を問われ解任され、江沢民(在任1989〜2002年)が後任となる。

その後も民主化を進めないまま、改革開放政策は止まることなく進める路線は続いた。
1992年に〈鄧小平〉は一連の「南巡講話」を発表。


市場経済を社会主義に利用することを正式に決定した。
これ以降、中国は外資系企業の誘致、製品(雑貨や衣料品。のち電化製品や自動車)を製造・輸出を加速させていく。

1990年代以降は、東南アジアのASEAN諸国との関係を正常化。
1997年には香港がイギリスに返還され、1999年にはマカオがポルトガル【本試験H26】に返還されている。

〈鄧小平〉の没(1997年)後は、〈江沢民〉(こうたくみん、チャン=ツォミン)(任1993~2003)が最高指導者となってさらなる経済発展をすすめていき、かつてイギリスが19世紀にうたわれた「世界の工場」と称されるようになった。


(注)しかし香港でもマカオでも一国二制度(香港とマカオだけは、資本主義が認められるという制度) が継続された。
特別行政区では、現行の社会・経済制度、法律制度、生活方式および外国との経済文化関係を変えず、立法権、終審権、外事権、貨幣の発行権を有するという制度で、1990年のマカオ特別行政区基本法・香港特別行政区基本法で明文化された。
 両者ともに特別行政区行政長官は400人からなる選挙委員会による投票選挙で選出され、中国中央人民政府によって任命されるため、香港市民・マカオ市民の民意は反映されない
 香港の憲法にあたる基本法には、中国本土では制約されている言論・報道・出版の自由、集会やデモの自由、信仰の自由などが明記されているものの、中国政府による意向は強く、新型肺炎SARSが流行し、中国が経済支援を本格化した2003年には、50万人規模のデモが起き、「国家安全条例」案は撤回されている。
 しかし、親中派の多数を占める香港の立法会はその後も香港の“中国化”を進め、それに対して2012年には国民教育科の導入が中高校生らの反対で白紙になったほか、2014年には雨傘を持って街頭で民主化を求める「雨傘運動」が発生。2015年には共産党に批判的な書籍を販売する書店関係者が中国に拘束される事件も起きている。2018年には中国本土と香港を結ぶ高速鉄道が全面開通した。
 そんな中、天安門事件30周年にあたる2019年、「逃亡犯条例」改正案の撤回をめぐって大規模デモへと発展した。


「改革・開放」以後の経済発展は、清代以降歴史的に開発の進んでいる南部の臨海地方に偏り、内陸部との格差は広まった。これを解決するため2000年代に入ると「西部大開発」が進められたが、内陸部と沿岸部の格差は依然として社会問題となっている。
2001年には、1995年にGATT(ガット)を継承していた世界貿易機関(WTO)への加盟も実現。2002年には従来禁じられていた「資本家(私営企業家)」の入党が認められました。〈江沢民〉は2003年に国家主席に選ばれ、同年には神舟5号が打ち上げられ、〈楊利偉〉中佐(1965~)による有人宇宙飛行に成功させている。


続いて2003年に国家主席に就任した〈胡錦濤〉(こきんとう、フー=チンタオ)(任2013~13)は開発にともなう格差の是正につとめ、2008年の北京オリンピック、2010年の上海万国博覧会を開催し、新興国BRICsの一員に数えられるようになった。


しかし、国内の民主化は進展せず、国内にはチベット自治区におけるチベット人(2008年チベット騒乱)と新疆ウイグル自治区におけるウイグル人の民族問題(2009年ウイグル騒乱)や、民主化運動の指導者の弾圧などの問題も抱えている。



また、国内的には都市と農村との格差などの社会問題、大気汚染などの環境問題も課題となっている。2004年には第16期4中全会で「和諧社会」(わかいしゃかい)が打ち出され、社会の矛盾を解決する取組みが重視されるようになる。

2013年に国家主席に就任した〈習近平〉(しゅうきんぺい、シー=ジンピン、在任2012~)は、“第三世代”の〈江沢民(こうたくみん)〉(1926~)(後任として党中央軍事委員会主席に就任します)、“第四世代”〈胡錦濤(こきんとう)〉(1942~)(共産主義青年団に属し1992年に鄧小平に後継に指名される)とは異なり、“キングメーカー”である〈鄧小平〉の息がかかっているわけではない。
2012年の中国共産党第18回全国代表大会では「社会主義核心価値観」が打ち出され、調和のとれた発展が目指されたほか、2013年からは〈習近平〉「虎もハエも同時に叩(たた)く」反腐敗運動がはじまり、権力闘争の様相を呈している(その中で、2012年には保守派の〈薄熙来〉(はくきらい、ポー=シーライ、1949~、中国共産党重慶市委員会書記 任2007~2012)が汚職スキャンダルによって失脚)。

対外的には、ユーラシア大陸全体を一つの貿易圏としてまとめようとする「一帯一路」構想を2014年に打ち出した。ユーラシア大陸南縁の諸国の港湾の利権を獲得したり、資金の貸付をしたりすることで、影響力をアップ。
2019年7月には初のアフリカ横断鉄道(タンザニアのダルエスサラームと、アンゴラのロビトを結び、総距離は4千キロメートル超)が開通するなど、資金に乏しいアフリカ諸国の中には中国に対する債務に依存するところも出てきている。



その一方で、軍備を増強し、南シナ海への海上進出を進めた結果、周辺諸国との間で地下資源の採掘や漁業をめぐる対立が起きています。宇宙開発にも積極的で、2013年12月には嫦娥(じょうが)3号の月面着陸を成功させている。
2018年以降、アメリカ合衆国の〈トランプ〉大統領政権との間に、何度も追加の関税が実施されいわゆる「米中貿易戦争」が始まった。

国家的なIT産業の振興策もめざましく、1999年に浙江省で〈ジャック=マー〉(1964~、馬雲〔马云〕)の創業したアリババ・グループ(阿里巴巴集団)は電子商取引サイトだけでなく電子マネーサービスも展開し、世界的な世界最大の小売企業・流通企業に発展している(中国本土では金盾工程と呼ばれるネット情報の検閲が行われており、Googleなどアメリカ合衆国のSNSプラットフォームが利用できません)。また、生体認証システム・監視システムも急激に発達している。

2019年には、中国の武漢で新型コロナウイルス(COVID-19)が初確認され、2020年にかけてパンデミックに発展している。



モンゴル

モンゴル人民共和国はソ連の衛星国家として一党独裁の社会主義体制を採っていた。
しかし、ソ連でのペレストロイカ(改革)の影響を受け民主化要求が高まって、1991年にソ連が崩壊すると、1992年に新憲法が採択され複数政党の自由選挙がおこなわれるようになった。社会主義に代わって市場経済も導入された。

1992年には国号が「モンゴル国」に改められ、社会主義体制下では否定されていたモンゴル人の文化や歴史(〈チンギス=ハーン〉など)の見直しがすすむ一方、経済成長が続いている。


ヴェトナム


ヴェトナム戦争を経て1976年に南北が統一し、南北の統一選挙により社会主義国が成立した。
最高指導者〈レ=ズアン〉(ヴェトナム共産党中央委員会書記長 任1976~86)率いるヴェトナム社会主義共和国は、建国直後の1978年にはカンボジアとの戦争を始め(~1989年に撤退)、1979年にはカンボジアを支援していた中華人民共和国との間に中越戦争(「越」はヴェトナムのこと)を引き起こし、勝利しました。その後も、1988年には南シナ海の南沙諸島をめぐり再度戦争が起こっている。

1986年に〈レ=ズアン〉が死去し、後継の最高指導者〈チュオン=チン〉(1907~1988)市場経済を一部容認するドイ=モイ(刷新)という政策が導入。
対外的にも軟化し、1991年には中華人民共和国、1993年にはフランス、1995年にはアメリカ合衆国と国交を回復させた。
1995年にはASEANに加盟し、海外からの投資を呼び込むことで急速に経済発展を進めている。


カンボジア

1979年にヴェトナム軍がカンボジアに軍事進出し、農業を基盤に閉鎖的な共産主義社会を建設しようとしていた〈ポル=ポト〉政権(民主カンプチア)を打倒すると、〈ヘン=サムリン〉を元首とするカンボジア人民共和国を樹立した。しかし、〈ポル=ポト〉政権を支援していた中国は、ヴェトナムの行動を非難し、1979年2月にヴェトナムに対して軍事行動をおこした(中越戦争)が、まもなく撤退した。

その後も内戦は続いたが、国際的な批判を受けてヴェトナム軍は1989年に撤退。

1991年にはASEAN諸国が主導して、〈ポル=ポト〉派と〈ヘン=サムリン〉政権の両派間でカンボジア和平協定が調印され、総選挙で憲法制定議会が成立。憲法採択によって、〈シハヌーク〉を国王とする立憲君主制のカンボジア王国が成立した。1998年に〈ポル=ポト〉は死亡し、〈ポル=ポト〉派は壊滅して、内戦は完全に終結することに。
国内には内戦時代の爪痕が残り、多くの地雷が埋められている(1999年に対人地雷禁止条約が発効)。1995年以降は〈フン=セン〉首相が政権を維持しており、2018年の総選挙でも再任が決まった。


北朝鮮

北朝鮮では、1980年に〈金日成〉の息子〈金正日〉(キムジョンイル)が、朝鮮労働党の党中央委員会政治局常務委員、書記局書記、軍事委員会の委員に選出された。
これにより、事実上〈金日成〉の権力が息子に委譲される見込みとなる。
彼は1980年代以降は、ソ連、東欧、韓国や中華人民共和国との関係を持ち、資本を導入したり貿易を増加させたりすることで、経済の停滞を解決しようとしていった。
しかし1990年代初めにかけてソ連や東欧の社会主義国が崩壊すると、〈マルクス〉=〈レーニン〉主義の看板を外し、朝鮮独自の社会主義と充実した国防によって、体制を維持すようとしていく。
自由貿易地帯を設けたり法整備を進めたりする現実的な動きもみられたが、北朝鮮に核兵器の開発疑惑が持ち上がるとアメリカ合衆国はIAEA(国際原子力機関)による査察受け入れを要求、当初は受け入れを了承したが(1992~93年)、1993年にNPT(核拡散防止条約)からの脱退を宣言
国連安全保障理事会も北朝鮮に対する査察を決議しましたが、1994年にはIAEAからも脱退。
しかし同年、米朝基本合意によりアメリカ合衆国による原子炉管理の枠組みが定まり、問題は解決できたかのようにみえた。

1994年7月、〈金日成〉が死去すると、

3年間の喪を経て1998年に〈金正日〉(キムジョンイル)は労働党総書記に就任。
国防委員会委員長に再任され、事実上父の権力を“世襲”することが明らかとなる。
農業政策の失敗などにより食糧問題が悪化する中、頼みの綱であった社会主義諸国が崩壊してしまい石油の輸入も止まってしまう危機的な状況に陥り、中国や韓国への「脱北者」(だっぽくしゃ)が増加。
1998年には弾道ミサイル「テポドン」の発射実験が行われた。

2000年に韓国の〈金大中〉が北朝鮮を訪問し「南北共同宣言」が発表され、韓国との間には一時融和ムードが広がった。
2002年には日本の〈小泉純一郎〉首相が北朝鮮を訪れ〈金正日〉と会談し、〈金正日〉は北朝鮮による日本人拉致への関与を認め、5人の被害者・家族が日本に帰国(〈小泉〉首相は2004年に再訪朝しています)。


「テロとの戦い」を推進するアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は、イランとイラクとともに2002年に北朝鮮を「悪の枢軸;axis of evil」と名指す中、2003年には核開発疑惑が再燃。


2003年以降、北朝鮮・韓国・アメリカ合衆国・ロシア連邦・中華人民共和国・日本の六カ国協議(六者協議)が開催され計画の全面的放棄を要求した。


しかし2005年には核保有を宣言し、六カ国協議の中止を宣言。
2006年には核実験を実施し、その後も弾道ミサイル実験・核実験を繰り返した。
〈金正日〉の息子〈金正恩〉(キム=ジョンウン、在任2011~)が、2011年に朝鮮労働党の一党独裁を継承し最高指導者に就任。アメリカ合衆国の〈トランプ〉政権への接近を図るも、強硬姿勢は崩していない。




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