見出し画像

"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第19話 米英仏の接近と海防への関心の高まり(1815年~1848年)

総目次
◎前々回(1650年~1760年)、前回(1760年~1815年

―前回見たように、イギリスで始まった新技術のインパクトは、急速に世界に広がっている。

 世界各地で、イギリスのペースに合わせて協力しようとする人たち、イギリスに追いつこうとがんばる人たち、そもそもそんなこと意に介さない人たちが、さまざまな反応をしている。
 利害関係は人によって地域によってさまざまだ。

大陸を超えた人々の移動もますます活発になっていますね。

―風の力で動いていた船は蒸気船に代わり、馬やラクダは鉄道に代わっていった。
 イギリスの生んだ新技術は、従来の動力と比べ物にならないパワーを発揮するからね。

 これによって最も打撃を食らったのは、長い間人類最強を誇っていた、ユーラシア大陸の遊牧民たちだ。蒸気船に大量に荷物を載せて運んだほうがもうかるから、陸のルートはますます廃れていったんだ。
 
 その一方、沿岸地帯にはさまざまな国の人が集まり、取引が盛んになっていく。

 イギリスをはじめとするヨーロッパの国々やアメリカ合衆国との取引を拒否する国々の中には、武力によって攻撃を受け、むりやり国をこじ開けられる例も出ているよ。


強引ですね。アジアの国々は弱かったんですか?

―アジアの国々の王様の力が弱っていたのは確かだけど、民間の商人たちの活動は盛んだよ。
 それにアジアにはたくさんの人口がいて、マジメに働くことでも知られている。

 ヨーロッパはオセアニアへの進出も進め、例えばイギリスはニュージーランドやオーストラリアへの進出を進めている。対抗するようにフランスも島々を確保しようとしているよ。
 アフリカでも沿岸地帯を中心に、貿易ルートをむりやり確保しようとする動きも始まっている。


生まれたばかりのアメリカ合衆国は、安定しているでしょうか?

―イギリスとの戦争(注:米英戦争)を経て、政治は一時期に落ち着いているよ。

 ただ、先住民のインディアンたちとの戦い(注:セミノール戦争(下の動画)など)は続いているし、ヨーロッパ諸国がふたたび北アメリカにやってこないとも限らない。

 アメリカの大統領はヨーロッパに対して「ぼくたちはヨーロッパには手出ししない。だから、ヨーロッパのみなさんもアメリカには口出ししないでほしい」と呼びかけている(注:モンロー宣言)。


どうしてそんなことを呼びかけたんですか?

―アメリカとヨーロッパとの時間的な近さ(注:時間距離)はますます狭くなっているからね。
 この時期のはじめには蒸気船をつかっての大西洋の横断も実現している。

 さらに、太平洋での「クジラ捕り」も依然としてブームだ。


どうしてクジラなんかを? 食用ですか?

―この時期の欧米では、クジラの中でも上質な油(鯨油)をとることのできるマッコウクジラが、ビジネスのターゲットとなっていた。
 灯りのための燃料や、機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたんだ。


食用じゃないんですね。

―すでにイギリスの捕鯨船は、アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており、独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。前の時代には、南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至っていた。
 さらに北進、西進し、突き当たったのが日本近海の通商“ジャパン=グラウンド”。クジラの格好の漁場として注目されていましたんだ。

 この時代の初めにイギリスは沖縄にあった琉球王国に通商してほしいとお願いするも失敗。
 しかしその後、イギリスの海軍将校(注:ゴルドン)が通商目的で神奈川の浦賀に入港、さらにイギリスの捕鯨船も浦賀に補給を求めて入港する事態に


イギリス船ラッシュですね。

―その後も、イギリス船が茨城の常陸に上陸し、水戸藩が尋問後に釈放する事件も起きている。(注:大津浜事件)。大津浜では村民がカタコトの英語でコミュニケーションをとっていたことから、すでに洋上で頻繁に接触していたことを物語る。

 「日本」意識を高めていた当時の学者(注:水戸学の藤田幽谷)からも批判が起こった。
 同じ年には鹿児島(薩摩)の宝島(たからじま)に上陸したイギリス船が島民との間に交戦する事件も起きている(注:宝島事件)。


幕府は対応しなかったんですか?

― 一連のイギリス船の活動を受け、1825年に幕府は、接近する船が捕鯨船であることや国際情勢を踏まえた上で、異国船(無二念)打払令を出した。
 沿岸のロシア、イギリス、アメリカ船を発見したら「有無に及ばず一図に打ち払」う(上陸したら逮捕か射殺する)という過激な内容だ。


そんなことできます?(笑)

―まあ、とりあえず強硬策に出たわけだね。こけおどしでもいいから。

 なお、その頃ドイツ人医師(注:シーボルト)が来日し、長崎のオランダ商館の医師として着任。西洋の学問を教える塾をひらいて、優秀な門下生(注:高野長英、伊東玄朴(いとうげんぼく))を出しているよ。

 でも、出国時に機密扱いの日本地図 (幕府天文方の高橋景保(たかはしかげやす)に贈られた伊能忠敬(いのうただたか)の日本・蝦夷の地図) を国外に持ち出そうとしたため、ドイツ人医師は国外追放となり、門下生も処罰された。


他の国の船の動向はどうですか?

―今度はアメリカ商船のモリソン号が神奈川県の浦賀沖に接近し、現在の愛知県の漂流民3名(注:音吉、岩吉、久吉)と熊本県の漂流民4名の計7名を返すかわりに、通商をしてほしいと要求。
 しかし、沿岸から砲撃されて鹿児島に移動後、薩摩藩兵が砲撃しマカオに移っている。


歯止めがきかない状況ですね―。

―こんな状況に対し、ヨーロッパの医学を学んだ高野長英(注:たかのちょうえい)は鎖国政策を批判(注:『夢物語』の中で)。
 儒学に反する彼の考えに対し、幕府の役人(注:鳥居耀蔵(とりいようぞう))が弾圧を加え、同じグループ(注:尚歯会(しょうしかい))に属するメンバー(注:『慎機論』を著した渡辺崋山(わたなべかざん))とともに投獄された。


でも、そんなことしても、外国船が迫り来る状況は変わりませんよね。
なんでこんなにイギリス船が?

―この頃、アジアの貿易ブームに割り込もうとしていたのはイギリスだ。

 イギリスでは民間の会社を中心に、中国の紅茶を買い付け銀で買い取る貿易が盛んになっていた。紅茶がブームになっていたからだ。

 しかし、紅茶取引による赤字がかさむと、今度はインドで薬物であるアヘンを育て、これを中国にひそかに持っていき、赤字を埋めるようになっていった(注:アヘン三角貿易)。

 当然中国の皇帝は、イギリスが港にアヘンという薬物を売りつけに来るのが許せなかった。


なぜイギリスの商人はそんなことをしたのですか?

―本当は中国各地で貿易をしたかったんだけれど、中国では貿易が認められていたのは中国南部の広州(こうしゅう)というところだけだったんだ。
 しかも、許可された商人グループ(注:公行)としか取引ができない。
 イギリスが売りたい工場で生産された綿布のアパレルも自由に売れない。

 でも中国には魅力的な商品がたくさんあるから、どうしても赤字になってしまう。

 そこで、インドで生産したアヘンを売りつける作戦に出ていたんだ。


中国の政府はアヘンの取引を禁止しなかったんですか?

―特別大臣の命令により、港にあったアヘンの箱を燃やさせた。

 そうしたらイギリスの商人は激怒。大問題だということで、イギリスの議会で議論された結果、わずかの差ではあるけれども、中国と自由に貿易をするために戦争をしよう!ということになったんだ。


「自由に貿易したいから戦争」って…すごいですね。

―イギリスでも反対した人はいたんだけど、強行突破された。

 で、結果的に大敗した中国は、巨額の賠償をする責任を負わされ、さらに自由に貿易のできる港を開かされた。このときに香港(ホンコン)という島も、イギリスに取られている。

 これを見てビビったのが日本だ。
 「おいおい、中国ってその程度だったのかよ!」と。
 こりゃまずいということで、日本は沿岸警備に乗り出すことになる。


いよいよ危機感が高まったわけですね。

―幕府の政治家(注:老中の水野忠邦(みずのただくに))は、当時の将軍(注:徳川家慶(いえよし))のもとで、改革に打って出た(注:天保の改革)。
 幕府に西洋式の砲術技術に関するアドバイスをした専門家(高島秋帆(たかしましゅうはん)や、その教えを受けた役人(注:江川英龍(えがわひでたつ))が活躍した。

 また、「外国船を見つけたら打ち払え!」という従来のお触れを一転させ、逆に燃料や水を与えてやるように命じている(注:薪水給与令)。

 国内向けには、農村を復興させ物価騰貴をおさえる目的で、株仲間を解散させたものの、のちに撤回。幕府権力の衰えには歯止めがかからなかった。


それじゃあ、幕府による各地の支配もしにくくなりますね。

―そう。格好がつかないよね。
 諸藩は独自に改革を進めており、専売制や藩営工業によって発展した薩摩(さつま)藩・肥前(ひぜん)藩・土佐(とさ)藩は力を蓄え、「雄藩」(ゆうはん)と呼ばれるようになっている。
 これについては、またのちほど。


でも、ヨーロッパ諸国が日本を植民地化するなんてのは、さすがにありえないんじゃないですか?

―いやいや、この時期の東南アジアでは、ヨーロッパの国々による植民地支配が強まっていたから、まったく的外れではない。


「植民地」…ってことは、人が移り住むってことですか?

―基本的にはそうなんだけど、この時代の「植民地」の特徴は、物をつくるための原材料をゲットするための場所という役割が大きいね。

 それに、完成品を売りつける場所でもある。

 イギリスはインドを最重要の植民地として位置づけているから、それを守るためにならなんでもした。
 インドからアヘンを中国に運んで貿易赤字を埋めようとしていたから、そのルートの「中間地点」にあるマレー半島はとっても重要だ。
 現在のマレーシアのあたりの港町を植民地として組み込んでいるよ。

ライバルのフランスはどうですか?

―建国するときに援助したベトナム(注:阮朝)に「言うことを聞け」と、恩を仇(あだ)で返そうとしているよ。ベトナムの皇帝もだんだんフランスのことがウザくなってきている。

 フランスも中国でビジネスをしたかったので、イギリスが中国との戦争で勝つと、そのタイミングでほぼ同じ内容の不平等な条約を中国と結んでいるよ。

 代わって、スペインの力はどんどん下がっているね。太平洋を横断する貿易もこの時代には幕を閉じている。植民地しているフィリピンでは、スペインよりも中国人商人の活動が活発になっているよ。

 最後にオランダ。
 オランダは現在のインドネシアの支配を強めていて、お金を稼ぐために住民たちに強制的にコーヒーなどのもうかる作物を栽培させている(注:強制栽培制度)。
 ベルギーが独立してオランダから切り離されてしまったことで、財政が悪化していた分を穴埋めしようとしたんだ(注:フランス七月革命時のベルギーの独立)。
 お米の栽培よりもコーヒーの栽培を優先させたことで住民に影響も出るけど、この時代には畑の面積が広がり、結果的に人口は増えていったんだ。


インドはどんな感じですか?

―イギリスの露骨な侵略がすすんでいる。
 北部のシク教徒の王国や、中央部のヒンドゥー教徒の王国を戦争で破り、住民たちにお金になる作物を栽培させている。その代表例がアヘンという薬物だ。


インドはイギリスが直接支配していたんですか?

―ううん、イギリスが直接おこなっていたわけではない。
 「東インド会社」という国公認の会社に担当させたんだ。
 税を取る仕事までおこなっていたわけだし、この時代には貿易部門が廃止されるから、貿易ビジネスから支配代行ビジネスがメインとななっていったわけだ。

 住民たちを支配する各地の王様たちはそのまま残した。住民の不満が直接イギリスに向かわないようにしたためだね。

 でも人々の不満はじわじわとたまり、やがて爆発することになるよ。


この調子だと、ヨーロッパと距離的に近い西アジア(中東)にも、いよいよ進出が強まりそうですね。

―西アジアではオスマン帝国がピンチだ。
 北からのロシアの進出が激化し、支配地域のエジプトも事実上独立してしまった。
 海からは、イギリスはアラビア半島の北側のペルシア湾沿いの国々を、次々にコントロール下に置いている。

 慌てた皇帝は急いで改革を始めるけど、ヨーロッパ諸国への借金は増え、はっきりいって「見掛けだおし」の改革に終わってしまった(注:タンジマート)。
 憲法をつくるなど国のしくみの改革には手は出せなかったからだ。


こんな調子だとますますヨーロッパ諸国につけこまれますね。

―だよね。
 ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の中にいるいろんなグループに、「お前たちは○○人だ。○○教徒だ。さっさと独立したほうがいい」とアドバイスする。
 もともとそんな意識はこれっぽっちもなかったのに、だ。

 でも、この時代には支配地域にあったギリシアがヨーロッパ諸国の支援で独立してしまうし、エジプトもコントロール不能になってしまった。
 ヨーロッパ諸国は独立運動を助けるフリして、恩を売りたいだけだったんだ。「助けてやったんだから、領土や港をよこせ」って良いたいがための行動だ。

 オスマン帝国側も、このようなバラバラの状況に対して、なんとかしなければという思いから、「オスマン帝国はオスマン人の国だ!」っていきなり言いはじめるんだ(注:新オスマン主義)。
 民族も宗教もいろいろだけど、みんな平等のオスマン人だ、っていうわけだ。
 でも、いきなりそんなこと言われても響かないよね。
 統一された教育制度があるわけでもないし。

 状況はますます悪化していくことになるよ。


強い国をつくりたいんだったら、「○○人」しかいない国を作ればいいっていう考え方。これってヨーロッパの考えの影響ですかね。

―そうそう。
 「○○人」という共通の意識を持った国を作ることで、強い国をつくろうという考え方はこの時代のヨーロッパで流行するんだ。

 でも、これを実現しようとすると、かなり強引に進めなきゃいけない部分も出てくるよね。
 単純に「○○人」しか存在しない地域なんて、地球上どこ探してもないわけで。

 狭いヨーロッパでさえ大変なんだから、オスマン帝国でそれをやろうったって、そりゃあ難しいわけだ。

 のちに日本でもおなじような改革をやるよね。どうして日本ではうまくいったのか比較してみるとおもしろいと思うよ。


ここまで拡大を続けていたヨーロッパは、どんな状況だったんですか?

―前の時代に、フランスの軍人あがりの皇帝が社会の混乱をおさめたかと思えば、今度は「ヨーロッパ征服」を目指したために大戦争に発展していたよね。
 思い返せば混乱のきっかけは、一般人たちが政治に参加したことだ。
 「やつらを政治に参加させたら、ロクなことがない
 これがヨーロッパの王族、貴族たちの共通認識だ。

 秩序のためにはヨーロッパを、皇帝・王様・貴族の体制に戻そう。

 この「昔に戻す」体制(注:ウィーン体制)の中心になったのが、まさにヨーロッパの中心にあったオーストリアの皇帝だ。
 オーストリアはかつては神聖ローマ帝国という、由緒正しい国のトップだった。しかしそれがフランスの軍人皇帝に滅ぼされ、今度はヨーロッパの「復興」の中止に立つことで「栄光」を取り戻そうとしたんだ。

 でも、イギリスはそれが気に食わない。
 だけど、あんまりヨーロッパのことには関わりたくない。
 だから、直接かかわらずに外でじーっと様子をうかがっているのが当時のイギリスだ。


新技術を一番乗りで導入して、世界で一番の工業国になっていますもんね。

―そうだね。
 べつに友達がいなくたって、かまわない。「余裕」なんだ。

 一方、オーストリアと陸続きの国ロシアは、オーストリアがリーダーを気取ることにいらだちを隠せない。

 ロシアは経済的にはイギリスにはとうてい追いつける状態ではない。まずは領土を広げ、農業のできる土地と凍らない港を確保することが先決だった。
 そこでジャマになるのがオーストリアだ。


皇帝と王様のヨーロッパに戻すっていっても、なんだか団結力はなさそうですね。

―その通り。
 時代は「身分がすべて」な時代から、「実力がすべて」の時代に変わりつつある。
 国を強くしたいのなら、実力を付けたビジネスマンの意見を取り入れ、政治に参加させることも重要だ。

 皇帝や王様は保守的(変化に弱い)から、「変わる」ことを恐れる。
 だけど、これからの時代は刻一刻と変化するビジネスチャンスに合わせ、「変わる」ことを恐れない力が必要となっていたわけだ。


どこかで「爆発」しそうですね。

―その通り。
 フランスでは2段階で爆発するよ(注:七月革命⇨二月革命)。
 まず、第一段階で王様が追放されて、ビジネスに理解のある親戚の家系から王様が呼ばれた。

 でも、その王様は一部の極端なお金持ちの意見しか聞こうとしなかったから、企業家たちが怒って、もう一度王様を追放したんだ。


じゃあ、二度目の事件で、企業家たちが中心になった国づくりが進められたんですか?

―いや、この二度目の事件には、多くの貧しい労働者も参加したんだ。
 「もう一度、世の中がひっくり返れば、自分たち労働者にも優しい国に生まれ変わるかもしれない」と期待したからだ。

 この一連の事件の影響はヨーロッパ中に広がり、各地で「昔に戻そうとする古臭い皇帝や王様」が倒され、自由にビジネスをしたい企業家たちが政治に参加するようになっていくことになるよ。もちろん地域によって差はあるけどね。


企業家たちは、どんな国づくりを目指したんですか?

―まずは「国が、国としてしっかりまとまる」ことを目指したよ。
 バラバラのままだと、ビジネスのルールもバラバラでは取引も不安定だ。
 それに言葉の違いも面倒だ。

 ドイツ人の住んでいる地域では、いちばん産業の発展していたプロイセンが中心になって、まずは経済的にドイツをまとめようという運動が起きている。

 おなじくバラバラだったイタリア人の住む地域でも、統一をめざす運動がはじまっているよ。

 一方、オスマン帝国に支配されていたバルカン半島では、それを見習って自分たちの国をつくろうとする運動も盛んになっている。


世界がヨーロッパのペースに、だんだん引きずられていっている気がします。

―アメリカ合衆国も領土を太平洋のほうに広げて急成長しているね。
 この時代の終わりには、アヘン戦争のどさくさにまぎれ中国(清)との間に不平等な条約(注:望厦条約)を結んだアメリカ合衆国は、太平洋を横断する航路の開拓にますます前向きとなっていった。


 その後さらにはアメリカ合衆国の海軍士官(注:ビッドル)が浦賀に来航して通商を要求、幕府はこれを拒否している。


沖縄は大丈夫だったんですか?

―沖縄の琉球王国ももちろん例外ではない。
 この時代の終わり頃にはフランス船アルクメーヌ号が琉球王国の那覇港に入港。通商を要求している。


琉球王国って、薩摩藩の支配も受けていましたよね?

―薩摩藩と清の両方のコントロール下にあったよね。
 でも、アヘン戦争の際に強硬策をとったために清がひどい目にあったことを知っていた薩摩藩の担当者は柔軟な対応をとっている。
 西洋は手強いってことを知っていたんだ。

 同じ年にはイギリスも琉球王国に通商を要求しており、薩摩藩は幕府の許可を得てフランスとイギリスの間の通商を許可している。


イギリスとフランスの動きにも要注意ですね。

―イギリスはこの時代の初めに、マラッカ海峡よりも東側をイギリス、西側をオランダとする英蘭(ロンドン)協約をオランダ王国との間に結んでいる(この取り決めが、のちのマレーシアとインドネシアの国境線のもとになった)。
 さらに、マラッカやシンガポールを「海峡植民地」としてまとめ、関税を課さない自由貿易港にした。

 これにより、中国や東南アジアの船は、ジャワ島のバタヴィアではなく海峡植民地に来航するようになり、交易が活発化することになる。イギリスの自由貿易政策による、オランダつぶしだ。
 特に、マラッカ海峡の南端に位置したシンガポールは、貿易の中心地として、ペナンをしのぐようになり、1845年にはシンガポールの総人口の過半数は中国人になっている。
 また、ここにはインド人も労働者として移住してくるようになった。こうしてシンガポールには、多くの人種が混ざり合う、多彩な社会が形成されてったのだ。


どうしてイギリスはマレー半島に注目したんでしょう?

―マレー半島はスズ鉱山が豊富に分布する。


 前の時代の終わり頃にイギリスで缶詰が発明され、ヨーロッパでのスズの需要が高まったことが背景にある。だから中国人やインド人の労働者が、スズ鉱山で働きにやって来たんだ。
 また、天然ゴムのプランテーションも広がっていくことになる。


それに対抗するようにフランスも東南アジアに進出していったわけですね。

―この時代のフランスは政治的に不安定だったから、なかなか一致団結してというわけにはいかなかったけど、次の時代になると本格的な進出を始めるよ。

こんな状況の中、ふつうの人たちはどんな暮らしをしていたんでしょう?

―この時期の後半に、大きな食糧難があった(注:天保の飢饉)。
 その影響で農民や都市民による暴動(注:百姓一揆、打ちこわし)もあいついだ。1年に100件超というのは、江戸時代はじまって以来の記録だ。特に山梨では、農民暴動が地域を超えて国単位に広がり(注:郡内騒動)、愛知県西部でも大規模な農民暴動が起きた(注:三河加茂一揆)。大坂の都市部では幕府の元役人(注:大塩平八郎)が「米が足りてない状況で、大商人が米を買い占め、大坂の役所が米を江戸に送るとはなにごとだ!」と武装蜂起(注:大塩平八郎の乱)。
 彼は、幕府の認めていた儒学とは別のグループ(注:陽明学)の学者でもあり、彼の決起はほかの地域にもフォロワーを呼んだ(注:生田万の乱など)。

 そこではじまったのが、先にも紹介したきびしい改革(注:天保の改革)だ。

どんな内容だったんですか?

―すべての身分に対して、豪華な料理とかファッションを禁止。
 江戸っ子の大好きだった寄席(注:落語、講談、ものまねや娘浄瑠璃など。最盛期には江戸で200を超えた)は15軒まで減らされ、社会風刺のようなブラックジョークは禁止されてしまう。
 神社の中で上演された芝居や見世物小屋は、特にお金のない人たちにも親しまれていたけど、これも禁止(注:宮地芝居)。


 「社会のほうが、歌舞伎をマネしている」とまでいわれた歌舞伎の有力な劇団(注:江戸三座)も、「社会の混乱のもと」とされて浅草の目立たないところにうつされてしまう。

禁止、禁止、禁止。なんでも禁止ですね。

―当局の目は、本の内容にも及んだ。
 本の内容は、江戸時代をとおして「弾圧されれば、抜け穴を探すイタチごっこ」が続いていた。
 このときには、いかがわしい本とされた作品(注:人情本)のクリエイター(注:為永春水(ためながしゅんすい))や、ノージャンルで幅広い長編(注:合巻(ごうかん))のクリエイター(注:柳亭種彦(りゅうていたねひこ))が、処罰のターゲットとされてしまう。

飢饉への対策は?

―農民が都市に来てしまうことが問題だということで、飢饉で人口を減らし「人手不足」となった農村に、江戸にいる農村出身者を送還させた。
 また、生産や流通をも支配する大商人の価格のつりあげを阻止しようと、「新規参入」や「自由な競争」をはばんできた「談合サークル」(注:株仲間)を解散した。つまり、自由な入札ができるようにして、価格競争が生まれることを期待したんだ。

で、効果はあったんですか?

―農民を地方に返す政策はさまざまな身分による抵抗を受け、すすまなかった。
 また、当時の物価上昇の原因は、お金の価値を劣化させていたり、「大坂一極」の流通システムが「地方分散」的な流通システムに変わっていたりしたことにあったから、根本的な解決にはならなかった。

 しかも、幕府が「やれ」と命じても、家来たちはいうことを聞かないわけ(注:町奉行の遠山景元(とおやまかげもと、金四郎)、三方領知替えの失敗)。

それじゃあ幕府の面目も丸つぶれですね。

―ただ、改革の重点は「外国船の襲来」にどう対応するか、ってところにあったわけだから、外からの危機で手一杯というところではあった。

 たとえば江戸湾に入ってくる大坂経由の船が、外国船にじゃまされて入れないということが起きたら「兵糧攻め」にあってしまうよね。
 そこで、利根川 ⇨ 印旛沼 ⇨ 品川 という新ルートの開拓プロジェクトを指導した(注:印旛沼掘割工事)。


お~有能ですね。

―幕府だって海外情報に疎かったわけではない。
 長崎のオランダ人商館長からヨーロッパ情報をゲットできていたからね。
 欧米で発明された最新テクノロジーである蒸気船や蒸気機関車の購入も、オランダ商館長に対してお願いしていたくらいだ。

じゃあ自分でつくればいいじゃないですか。

―まあそうだよね。
 でも幕府の対応は保守的な家臣の抵抗もあって、にぶい
 改革(注:天保の改革)じたいも、トップの失脚によって頓挫してしまった。

 それに比べて迅速に対応していったのが、全国各地の諸藩だ。
 とくに鹿児島(薩摩)・山口(長州)・佐賀(肥前(ひぜん))・高知(土佐(とさ))の藩では、財政を再建させ、ヨーロッパに負けない軍隊をつくろうと、改革がはじめられたんだ。

どこからそんなお金が?

―大地主から没収した土地を農民にくばって納税者を育てたり(注:肥前。鍋島直正(なべしまなおまさ)の均田制(注))、日本海と瀬戸内海をつなぐ地の利を生かして商業をさかんにおこなったり(注:長州。越荷方役所)、奄美大島のサトウキビの買い上げを強化したり(注:薩摩。砂糖の専売制強化)。
 また、薩摩藩では幕府にひきわたすべき輸出向けの食材(注:俵物)を横流しによって買い取り、それを琉球王国ルートで中国に売って代わりに中国製品を得るという離れ業(はなれわざ)に打って出た。

(注)有田焼や伊万里焼などの陶磁器生産地のため、大商人が土地をかき集める不平等な状況になっていた。

大胆ですね!

―もう一つ。大坂・京都・江戸の大商人からの借金を、薩摩や長州では事実上棚上げしている。
 そうして得た余裕資金を、外国と戦争になったときのための部隊づくり(長州)や、日本初のイギリス生まれの技術(注:高熱を出せる反射炉という装置)を用いた大砲づくり(薩摩)などがおこなわれていったんだ。愛媛県の宇和島藩でも、藩主(注:伊達宗城(だてむねなり))軍事技術者(注:村田蔵六)を招いて軍事改革をしているし、福井藩の藩主(注:松平慶永(まつだいらよしなが、春嶽(しゅんがく)))の改革もさすがだ。

時代が変わりつつありますね。


今回の3冊セレクト

総目次
◎前々回(1650年~1760年)、前回(1760年~1815年

この記事が参加している募集

推薦図書

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊