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新科目「歴史総合」をよむ 3-2. 世界秩序の変容と日本 3-2-1.「1968年運動」問い直される「近代」

学習指導要領より
 諸資料を活用し,課題を追究したり解決したりする活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ア 次のような知識を身に付けること。
(ア)石油危機,アジアの諸地域の経済発展,市場開放と経済の自由化,情報通信技術の発展などを基に,市場経済の変容と課題を理解すること。
(イ)冷戦の終結,民主化の進展,地域統合の拡大と変容,地域紛争の拡散とそれへの対応などを基に,冷戦終結後の国際政治の変容と課題を理解すること。
イ 次のような思考力,判断力,表現力等を身に付けること。
(ア)アジアの諸地域の経済発展の背景,経済の自由化や技術革新の影響,資源・エネルギーと地球環境問題が世界経済に及ぼした影響などに着目して,主題を設定し,日本とその他の国や地域の動向を比較したり,相互に関連付けたりするなどして,市場経済のグローバル化の特徴と日本の役割などを多面的・多角的に考察し,表現すること。
(イ)冷戦の変容と終結の背景,民主化や地域統合の背景と影響,地域紛争の拡散の背景と影響などに着目して,主題を設定し,日本とその他の国や地域の動向を比較したり,相互に関連付けたりするなどして,冷戦終結後の国際政治の特徴と日本の役割などを多面的・多角的に考察し,表現すること。


4-3-1. 「1968年」運動:問い直される近代

メイン・クエスチョン
ある理念や価値観を唱える運動が、国境を超えて結びつき、世界的な運動となっていくには、どのような条件が必要なのだろうか?

 新型コロナウイルスの世界的大流行のなか、アメリカにおける人種差別への抗議運動や、中国(香港)、ミャンマー、ベラルーシなどにおける民主主義抑圧に対する抵抗運動がグローバルに拡大した。
 こうした動向について、高校生たちが見聞きしているとは限らない。 

 まずはこの数年の動向を振り返りつつ、政権や支配的な価値観に対する異議申し立てを唱える運動が、国境を超えてグローバルに結びついていった事例が、これまでにもあったのかどうかを問うてみたい。

 そこでとりあげるのは、「1968年」という年だ。

 現在とは異なり、インターネットなどはなかった時代だ。世界各地で、どのような人々が、なぜ、どのような運動に参加していったのか。
 そして、その運動の多くが、1970年代以降も持続しなかった理由はなぜか。
 1968年の運動が、現在の私たちの生活や考え方に、どのような影響を、どの程度与えているのか。
 こういったことを考えてみたらどうだろうか。

■アメリカにおける価値観の変容とその影響

サブ・クエスチョン
1968年に世界各地で同時多発的に起こされた運動に、共通するキーワードは何だろうか?

 戦後の先進諸国では、アメリカ合衆国を筆頭に、1950年代以降「豊かな社会」が生まれた。
 豊かさといってもさまざまな定義があるが、ここでいう豊かさとは物質的な豊かさのことである。

 その起点には、第1章で扱った「近代化」があり、その成果は第2章で扱った「大衆化」によって、より多くの人々にひろがっていった。
 「近代化」と「大衆化」の動きは、二度の大戦を経て、戦後世界には「グローバル化」し、その先頭をアメリカ合衆国が走るという構図ができあがった。
 

 しかし1960年代末から、物質的な豊かさを追い求めようとする人々の姿勢に、変化の兆しが現れるようになった。
 新たな社会運動は、ニューレフト(新左翼)と呼ばれ、資本主義国、社会主義国を問わず、さまざまな国で展開された。その原因や主張は多様だが、ベトナム戦争批判や文化大革命への共感、黒人や女性といった社会的マイノリティに注目するなど、国をこえる共通点も持っていた。
 特にフランスにおける五月危機とアメリカにおける反戦運動公民権運動の持つ影響が見逃せない。

アメリカ
 ・コロンビア大学などの学生運動
 ・ウーマン・リブ
 ・ブラックパンサー党
フランス 
 ・パリ五月危機
ドイツ  
 ・ベルリン自由大学などにおける学生運動
チェコスロヴァキア 
 ・プラハの春
中華人民共和国
 ・文化大革命
日本 
 ・東京大学や日本大学などにおける学生運動

これらの運動に関する諸資料をもとに、生徒にキーワードを挙げてもらう。

ベトナム反戦運動と公民権運動

サブ・クエスチョン
ベトナム反戦運動と、黒人差別反対運動が、同時期に盛り上がったのは、なぜだろうか?

 1968年の運動の背景の一つには、アメリカ合衆国の抱える諸問題に対する、若者の異議申し立てがあった。

 ここで、「若者」とは誰のことだろうか?
 1968年時点で成人を迎えた人々は、すなわち戦後の第一次ベビーブーマー。日本でいうところの「団塊だんかい世代」であった。
 ベトナム世代である2700万人のアメリカ人のうち、兵役についていた者、実際に戦地におくられた者はどのくらいだったのだろうか?(後述する)

 ここでひとまず、「同時期にアメリカ合衆国で大きな問題となっていたベトナム戦争の泥沼化が、年長世代に対する若者の反抗につながった」という仮説を立ててみたい。


ベトナム戦争に対する反戦運動

 ベトナム戦争に対する反戦運動は、なぜこの時期に盛り上がったのだろうか?

 第一に、ベトナム戦争が、遠く離れたベトナムの一般民衆の殺戮を生み出していること、莫大な戦費負担が財政を逼迫させ軍産複合体を形成していることに対する反戦運動の高揚があった。


資料 アメリカの国防支出の推移



 特に若者たちを中心に、ロック・フェスティバルが開催され、既成の社会が暴力と戦争を容認していることに対する批判が、ロックや映画、小説などを通じて発信された。長髪にジーンズを身に纏うヒッピー文化に代表される文化は「対抗文化(カウンターカルチャー)」と呼ばれた。支配的な文化に対抗する文化という言葉が成立するほど、当時の「文化」とは、教養の高いエリート知識人が大学などを中心に独占する高尚なものとみなされていたのである。

出典:『スペクテイター』Vol.48 パソコンとヒッピー、幻冬舎、2021年、36頁。
出典:『スペクテイター』Vol.48 パソコンとヒッピー、幻冬舎、2021年、37頁。




資料 ベトナム反戦運動のポスター



関連 ヒッピー文化は、しばしばアメリカ大陸の先住民文化の精神性に注目した。
 アメリカにとっての近代とは、先住民の土地の強奪と侵略でもあった。しかし、その先住民の精神世界のなかに、近代的な科学技術や思想に欠けている要素を見ようとしたのである。
 「近代化」が、国家の終焉に追いやってきた対象に、積極的に目を向けようとする動きは、以上の第一・第二の動きと並行して盛んになっていく。

資料 ウッドストック・フェスティバル

 


公民権運動

サブ・クエスチョン
黒人差別運動は、ベトナム反戦運動とどのような関連があるのだろうか?

 ベトナム反戦運動と同時期には、アメリカ国内における黒人差別に対し、公民権運動(市民権運動)も高まっている。

 黒人差別は、元をたどれば、イギリスの「近代化」の原動力となった綿花生産に、黒人が従事させられたことにルーツを持つ。
 そのことに異議申し立てがおこなわれたということには、「近代化」のもたらした「物質的豊かさ」に対する問い直しという側面もあったということだ。

 ただ、公民権運動は、突然1960年代に始まったわけではない。
 すでに1950年代にはバス・ボイコット運動のように、異議申立てがおこなわれていたのだが、なぜベトナム反戦運動と同時期になって、いちだんと大きな盛り上がりを見せることになったのだろうか?


 ヒントはベトナム戦争と黒人との関係にある。

 とくに戦争の初期には、相当数の黒人が兵士としてベトナムに送られたのだ。

資料 ノルベルト・フライ『1968年 反乱のグローバリズム』
 黒人の公民権運動に属する人々にとっては、ベトナム戦争拒否は運動の急進化をすすめる手段となった。軍の徴兵政策が社会的に見て公正でないことが、まずなによりもその理由だった。年齢からいって「ベトナム世代」となるアメリカ人の総数は約2700万人だったのだが、実際に兵役についていたのは1100万人足らずにとどまり、そのうちベトナムへ送られたのは約210万人だった。つまり戦争に駆り出される確率は10パーセント以下ということになる。その分布が社会的にきわめて偏っていたのである。教育程度の低い黒人、また白人下層出身の若者は、同年齢の社会的に優位に立つ青年より二倍も高い確率で兵役に取られ、ベトナムへ送られ、また戦闘部隊に組み込まれた。とりわけ戦争の初期の段階で黒人がとくに多く戦場で命を散らした事実を見逃すわけにはいかない。1965年にベトナムで戦死した兵士の[1  ]分の1弱が黒人だった。三年後には国防総省は、そのための集中的な努力の結果、この割合を[2  3・13 ・23]パーセント、つまり総人口比に見合うところまで押し下げることができた。

1  ]に入る数字は? (答:4)
2       ]のうち正しい数字は?(答:13) (出典:ノルベルト・フライ『1968年—反乱のグローバリズム』みすず書房、2012年、47頁)


 新型コロナウイルスのパンデミックで、黒人の死亡率の高さが報告されたことがBLM運動の背景にあったことを想起させるようなトピックだ。
 ノルベルト・フライの指摘するように、「若者が徴兵カードを公然と焼き捨てる光景」は、単純に「戦争反対」というひとつのイシューをめぐるものとは限らない。「平和主義からくる動きもあれば、個人的な利害関係も働いていたりする。そしてそこには、政治的には決して同質とは言えないさまざまな勢力が繰り広げる主導権をめぐる争いがあった。」(出典:ノルベルト・フライ2012:47頁)。
 のちに挙げるマルコムXも含め、運動には複数の潮流が流れ込んでいる。
 
 人々が一体となり連帯しておこなう運動は、往々にしてなぜ分裂の途をたどるのか?
 運動が成功する場合は、どのような条件が整っているときだろうか?
 そういった現代的な課題と切り結んで考えていくことができるテーマであろう。


資料 キング牧師の演説(1963年8月28日)
今日私は、米国史の中で、自由を求める最も偉大なデモとして歴史に残ることになるこの集会に、皆さんと共に参加できることを嬉しく思う。

100年前、ある偉大な米国民が、奴隷解放宣言に署名した。今われわれは、その人を象徴する坐像の前に立っている。この極めて重大な布告は、容赦の ない不正義の炎に焼かれていた何百万もの黒人奴隷たちに、大きな希望の光明として訪れた。それは、捕らわれの身にあった彼らの長い夜に終止符を打つ、喜び に満ちた夜明けとして訪れたのだった。

しかし100年を経た今日、黒人は依然として自由ではない。100年を経た今日、黒人の生活は、悲しいことに依然として人種隔離の手かせと人種差別 の鎖によって縛られている。100年を経た今日、黒人は物質的繁栄という広大な海の真っ只中に浮かぶ、貧困という孤島に住んでいる。100年を経た今日、 黒人は依然として米国社会の片隅で惨めな暮らしを送り、自国にいながら、まるで亡命者のような生活を送っている。そこで私たちは今日、この恥ずべき状況を 劇的に訴えるために、ここに集まったのである。

https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/


資料 マルコムXにとっての公民権運動 The Ballot or the Bullet by Malcolm X April 3, 1964 Cleveland, Ohio.「No, I'm not an American. I'm one of the 22 million black people who are the victims of Americanism. One of the 22 million black people who are the victims of democracy, nothing but disguised hypocrisy. So, I'm not standing here speaking to you as an American, or a patriot, or a flag-saluter, or a flag-waver -- no, not I. I'm speaking as a victim of this American system. And I see America through the eyes of the victim. I don't see any American dream; I see an American nightmare.」
投票か闘争かということが何を意味するのかを説明しようとする前に、私自身について、はっきりとさせておきたいことがある。私は今なおイスラム教徒で、イスラム教こそが私の宗教だ。それが私の個人的な信仰だ。アダム・クレイトン・ポウエルはニューヨークにあるアビシニアン・バプティスト教会の代表を勤めるキリスト教伝道師であるが、しかし同時にこの国の黒人の権利獲得に挑み、それをもたらすための政治闘争に参加する人物でもある。マーティン・ルーサー・キング博士は下ってアトランタ、ジョージアのキリスト教伝道師で、この国の黒人の公民権のために闘うもう一つの組織を率いている。そして尊師ガラミソンは、あなた方も聞いたことがあるだろうが、もう一人のニューヨークのキリスト教伝道師で、分離教育を無くすための学校ボイコットに深く関わっていた。そして、私も伝道師で、キリスト教伝道師ではないが、しかしイスラム教の伝道師なのだ。私が信じているのは、全ての戦線においてあらゆる手段を用いて行動を起こすことだ。
私が今なおイスラム教徒であるからといって、今夜私がここへ来たのは私の宗教について議論するためではない。私がここへ来たのはあなた方に働きかけ改宗をさせるためではない。私がここへ来たのは我々の違いについて議論し意見を闘わせるためではない。なぜなら、今こそ我々は互いの相違点を脇へ沈めておいて、何よりもまず我々が同じ問題、共通の問題、バプティストであれ、メソジストであれ、イスラム教徒であれ、愛国者であれ、あなた方を非難の的にしてしまうその問題を抱えているということに眼を向けるのが最善なのだと悟るときだからだ。あなた方が教育を受けているにしろ文盲であるにしろ、大通りに住んでいるにしろ路地に住んでいるにしろ、あなた方はちょうど私と同じように非難の的になるだろう。我々はみな同じ船の上に乗っており、同じ相手から同じ非難を浴びせられるのだ。そしてその相手が偶然にも白人だったということなのだ。我々みながここで苦しんでいる。この国において、白人の手により政治的抑圧を受け、白人の手により経済的搾取を受け、白人の手により社会的汚名を着せられているのだ。
こんなことを言っているからといって、我々が反白人主義だということはない。そうではなく、我々は反搾取主義、反蔑視主義、反抑圧主義なのだ。白人たちが我々に敵対心を持って欲しくないのなら、抑圧と搾取と蔑視を止めるようにすればいい。ここにいる人々がキリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、ナショナリストであれ、不可知論者であれ、無神論者であれ、何よりもまず我々はその違いを忘れなければならない。我々の中にそういった違いがあるなら、クローゼットの中へ仕舞っておこう。ひとたび前線に立てば、白人たちとの議論を終えるまでは余計なことは背負いこまないようにすべきだ。今は亡きケネディ大統領がフルシチョフと会合していくらかの小麦を取引できたのだから、我々にはその二人のそれよりも、もっと強い連帯が可能なはずだ。……
実際に取るべき手段が見当たらないのなら、投票か闘争かという選択肢を迫られるということを受け入れていただきたい。1964年の今において、これは我々の手にあるたった二つの選択肢なのだ。時間切れになりつつあるのではない、――もうすでに時間切れなのだ!
違う、私はアメリカ人ではない。私は2200万にも上る、アメリカ主義の犠牲になった黒人の一人だ。2200万にも上る、見せかけの偽善でしかない民主主義の犠牲になった黒人の一人だ。ここに私が立ってあなた方に語りかけているのは、アメリカ人としてでもなく、愛国者としてでもなく、国旗に敬礼する者としてでもなく、国旗を掲げる者としてでもない。違う、私はそういう人物ではない。私はアメリカというシステムの犠牲者として語りかけている。私は犠牲者の目を通してアメリカを見ている。私には普通のアメリカン・ドリームを見ることができない。私に見えているのは、悪夢としてのアメリカン・ドリームだ。
※マルコムはキングを「愚か者」「アンクル・トム(=白人に卑屈な態度を取る黒人)」「裏切り者」と罵倒した。その後の部分的接近と、両者の思想的異なりについては、荒このみ『マルコムX』岩波新書、2009年を参照。



関連 公民権運動とストリート・ダンス

 現在の高校生は、ダンスが体育の授業のなかに当たり前に組み込まれている世代である。
 しかし、ストリート系のダンス(「ヒップホップ」)や「B系」と呼ばれるような文化のルーツが、アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人たちにあるという事実について知らない高校生のほうが、当然のことながら多いだろう。
 次のような話題を用意し、紹介してもよいかもしれない。


 1960年代には、アフリカ系アメリカ人に対する白人の意識にも変化が生まれた。
 たとえばストリートダンスの世界では、1960年代にソウルダンスというジャンルが生まれた(もともと日本で「ストリートダンス」と呼ばれるダンスは、バレエや社交ダンスと異なり、路上で自由に踊るダンスのことを指した)。もともとシカゴで黒人向けテレビ番組内で、ソウル・ミュージックに合わせて踊るものであったソウル・ダンスは、ロッキング、ポッピング、ワックといったスタイルをともない、急速に広まった。



 また、1970年代にはニューヨークで貧困や暴力に苦しむアフリカ系アメリカ人らの間にはヒップホップ文化と呼ばれる対抗文化が生まれた。
 このなかから生まれたブレイクダンスは、西海岸のストリートダンスと融合し、現在のストリートダンスにつながっていった。


 アメリカのストリートダンスは、1983年のアメリカ映画「フラッシュダンス」を通じて広がった。同年には「ワイルドスタイル」という映画のPRのためにダンサーが日本各地で踊り、ストリートダンスが一気に流行した。



 そもそも路上でダンスを踊ることができるようになったのは、ラジカセのおかげだ。すでに原宿では、ラジカセに合わせて歩行者天国で踊る若者がおり、家庭用ビデオを通してアメリカのストリートダンスのスタイルを学んだ若者は、日本におけるストリートダンスを発達させていった。



 1990年代にはテレビ番組の特集や、沖縄のアクターズ・スクールから輩出された踊りながら歌うスタイルのミュージシャンの台頭により、ストリートダンスを教える民間の教室も増え、インターネットの動画を通してダンスは一気に身近なものとなっていった。


 2000年代以降、ダンスは学校教育の体育の授業でも学習するものとなり、SNSを通じて国境を越えるダンス文化が生み出され続けている。グローバル化とともに、ストリートダンスのスタイルは画一化している面もある。



フェミニズム


 たとえば、女性運動においても、「女性らしさ」といった価値観が、男性中心に作り出された社会的・文化的な性差によるものであることを暴くウーマン・リブ(women’s liberation movement=女性解放運動。日本ではウーマン・リブとよばれた)がおき、性的少数者による運動にもつながっていた。


資料 ボーヴォワール『第二の性』
「妻を夫に従属させるのは、妻が本質的に無能力であると判断されるからではない。財産管理に何の差しさわりもない場合には、女の能力は十分に認められているのだ。封建時代から現代にいたるまで、結婚した女は意図的に私有財産の犠牲にされてきた。この隷属状態は夫の所有する財産が莫大であればあるほど苛酷であるのは注目に値する。いつでも女の従属がいちばんはっきりしているのは有産階級である。今日でも、富裕な土地所有者層には家父長制家族が存続している。」(I・204頁)
「こうしたすべての国で、「貞淑な妻」が家族に隷属した結果の一つが、売春の存在である。売春婦は偽善的に社会の周縁に押しやられながら、最も重要な役割の一つを社会で果たしている。キリスト教は彼女たちに軽蔑のことばを浴びせかけるが、彼女たちを必要悪として認めているのだ。」
(I・208頁)
「どうでもいいときには男が女を立てて一等席を譲るべきなのはおきまりのことだ。原始社会のように女に重い荷物を背負わせる代わりに、つらい仕事や心配事の一切を急いで女から取り除く。それは同時に、女を一切の責任から解放することである。こうして女は自分の立場の安易さにだまされ、心をそそられて、男が女を閉じ込めたがっている母や主婦の役割を受け入れるよう期待されるのだ。」(I・240頁)
「誰もが今でも若い娘に、「すてきな王子さま」に幸運と幸福を期待する方が、一人でそれを手に入れようと困難で不確かな試みをするよりもいいとすすめている。とくに、娘は王子によって自分のカーストより上のカーストに上昇することも期待できる。それは彼女が一生働いても与えられない奇跡である。しかし、そういう望みは彼女の努力と利益を分離させてしまうので有害である。女にとって最も大きいハンディキャップは、おそらくこの分裂である。両親はいまでも娘を、その個性をのばすよりも、結婚させるために育てる。娘もその方が有利だと思って、自分からそれを望むほどだ。その結果、娘の大部分はその兄弟ほど専門技術を身につけず、しっかりした教育も受けず、自分の職業に全身全霊で打ち込むこともしない。そのためにいつまでも低い地位にあまんじることになる。そして悪循環が始まる。この劣等意識が夫を見つけたいという願望を強めるのだ。」(I・289頁)

 

資料 ジュディス・バトラー―セックスとジェンダーの二分法を超えて
「セックス/ジェンダーの区別や、セックスというカテゴリーそのものは、性別化された意味を獲得するまえの「身体なるもの」の普遍性を前提としているように思われる。こういった「身体なるもの」はたいてい受け身の媒体で、身体の「外部」と考えられている文化的要素からの書き込みによって、意味づけられるもののようである。」
(ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの撹乱』青土社、1999年)


資料 第4回世界女性会議 北京宣言
1 我々,第4回世界女性会議に参加した政府は,
2 国際連合創設50周年に当たる1995年9月,ここ北京に集い,
3 全人類のためにあらゆる場所のすべての女性の平等,開発及び平和の目標を推進することを決意し,
4 あらゆる場所のすべての女性の声を受けとめ,かつ女性たち及びその役割と環境の多様性に留意し,道を切り開いた女性を讃え,世界の若者の期待に啓発され,
5 女性の地位は過去十年間にいくつかの重要な点で進歩したが,その進歩は不均衡で,女性と男性の間の不平等は依然として存在し,主要な障害が残っており,すべての人々の安寧に深刻な結果をもたらしていることを認識し,
6 また,この状況は,国内及び国際双方の領域に起因し,世界の人々の大多数,特に女性と子どもの生活に影響を与えている貧困の増大によって悪化していることを認識し,
7 無条件で,これらの制約及び障害に取り組み,世界中の女性の地位の向上とエンパワーメント(力をつけること)を更に進めることに献身し,また,これには,現在及び次の世紀へ向かって我々が前進するため,決意,希望,協力及び連帯の精神による緊急の行動を必要とすることに合意する。我々は,以下のことについての我々の誓約(コミットメント)を再確認する。
8 国際連合憲章に謳われている女性及び男性の平等な権利及び本来的な人間の尊厳並びにその他の目的及び原則,世界人権宣言その他の国際人権文書,殊に「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」及び「児童の権利に関する条約」並びに「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」及び「開発の権利に関する宣言」。
9 あらゆる人権及び基本的自由の不可侵,不可欠かつ不可分な部分として,女性及び女児の人権の完全な実施を保障すること。
10 平等,開発及び平和の達成を目的とするこれまでの国際連合の会議及びサミット ― 1985年のナイロビにおける女性に関するもの,1990年のニュー・ヨークにおける児童に関するもの,1993年のウィーンにおける人権に関するもの,1994年のカイロにおける人口と開発に関するもの,及び1995年のコペンハーゲンにおける社会開発に関するもの ― でなされた合意と進展に基礎を置くこと。
11 「婦人の地位向上のためのナイロビ将来戦略」の完全かつ効果的な実施を達成すること。
12 思想,良心,宗教及び信念の自由に対する権利を含む女性のエンパワーメント及び地位向上,したがって,女性及び男性の個人的又は他の人々との共同体における,道徳的,倫理的,精神的及び知的なニーズに寄与し,それによって,彼らに,その完全な潜在能力を社会において発揮し,自らの願望に従って人生を定める可能性を保障すること。
我々は,以下のことを確信する。
13 女性のエンパワーメント及び意思決定の過程への参加と権力へのアクセス(参入)を含む,社会のあらゆる分野への平等を基礎にした完全な参加は,平等,開発及び平和の達成に対する基本である。
14 女性の権利は人権である。

(…)



ド・ゴールの退陣

 既成の社会を問い直す動きは、フランスのパリでも連動する。1968年におきた「五月革命」は、大学生が大学の管理体制を批判する異議申し立て運動であり、翌年のド・ゴール退陣につながった。


資料 大学の壁に張り出された標語
「われわれは、飢えで死ぬ恐れのない世界が、退屈のために死ぬ恐れのある世界にとって代わる ことに反対する。/リアリストであれ。不可能を求めよ。/バリケードは道路を塞ぐが、未来への道 を開く。/壁に言葉あり。/選挙は、見えすいた策略だ。/希望を現実にしろ。」
(出典:『ドイツ・フランス 共通教科書』明石書店、244 頁)

資料 ド・ゴール DE GAULLE: JE RESTE JE GARDE POMPIDOU(下図)

共和国大統領演説翌日、1968 年 5 月 30 日付け「フランス・ソワール」紙一面

ド・ゴール「私は残る。ポンピドゥーは解任しない。国会は解散する。国民投票は延期する。選挙が不可能なら、憲法に沿った別の方法を取るしかないだろう」/スト交渉は進まず。/29%のパリ市民、この危機が革命に発展するかもしれないと危惧している。」(上掲、245 頁)



ポンピドゥー (1968年5月14日)
「学生運動を通して、若者の問題が提起されている。......これまでの若者は理想、道徳的概念の 名の下に、いついかなる時も規律と努力に身を捧げてきた。 しかし今や、規律はほとんど消滅した。ラジオやテレビの影響で、若者は子どもの頃から外部の 世界と接触するようになった。技術と生活水準の向上により、多くの場合、努力がその意味を失っ てしまった。何かを信じることや、いくつかの基本的な原則を自分自身の胸に刻むという、人間に とって必要だったことを拒み、これまで数世紀にわたって人間がよりどころとしてきたもの全てを絶 えず疑問視した結果、どんな驚くべき事態になっているのか? 家族関係は崩壊あるいは希薄化 しているし、祖国は議論の的と否定されている。多くの人々にとって神は死に、教会さえこれから 進むべき道を自問している。
(......) 現段階において問題になっているのは、政府でも、体制でも、フランスでさえもない。私たちの文 明そのものなのである。全ての責任ある大人たち、人々を導いていくべき全ての人々、つまり、親、 教師、企業の経営陣あるいは労働組合、作家や新聞記者、神父や一般信徒は皆、この事態につ いて考えなければならない。つまり、全ての人々から受け入れられる生活の枠組みを築き、秩序と

(出典:https://www.lelivrescolaire.fr/page/16858177



若者文化の商業化


 1960〜70年代に生まれた従来の権威的な文化に対抗する若者の文化は、1980年代以降、しだいに消費文化と結びつき、サブ・カルチャーを中心に次第に一般の人々の楽しむ文化やライフスタイルへと変化していった。



■日本における価値観の変容

サブ・クエスチョン
1960〜70年代に日本において新しい価値観が台頭したのはなぜだろうか?



 アメリカにおける反戦運動は、1965年に結成されたベ平連(「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」)に影響を与えた。

 市民運動のみならず、左翼勢力による活動も活発化し、1968〜1969年には、大学の管理体制に不満をもつ学生による改革要求(大学紛争)が激化した。運動は次第に過激化に向かい、多くの学生は政治的な活動から距離を置くようになり、この時期に生まれた日本における新しい社会運動の多くは、持続的な組織の形成には至らなかった。





 なお、物質的な豊かさに疑問符を投げかけることとなった要因として、各地における公害の深刻化があった。

資料 石牟礼道子『苦海浄土』
うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい。見舞にいただくもんなみんな、じいちゃんにやると。うちは口も震ゆるけん、こぼれて食べられんもん。そっでじいちゃんにあげると。じいちゃんに世話になるもね。うちゃ今のじいちゃんの後入れに嫁に来たとばい、天草から。
嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。残念か。うちはひとりじゃ前も合わせきらん。手も体も、いつもこげんふるいよるでっしょが。自分 の頭がいいつけんとに、ひとりでふるうとじゃもん。それでじいちゃんが、仕様ンなかおなごになったわいちゅうて、着物の前をあわせてくれらす。ぬしゃモモ 引き着とれちゅうてモモ引き着せて。そこでうちはいう。
(ほ、ほん、に、じ、じい、ちゃん、しょの、な、か、お、おな、ご、に、なった、な、あ。)うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい。親さまに、 働いて食えといただいた体じゃもね。病むちゅうこたなかった。うちゃ、まえは手も足も、どこもかしこも、ぎんぎんしとったよ。
海の上はよかった。ほんに海の上はよかった。うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕いで働こうごたる。いまは、 うちやほんに情なか。月のもんも自分で始末しきれん女ごになったもね......。
うちは熊大の先生方に診てもろうとったとですよ。それで大学の先生に、うちの頭は奇病でシンケイどんのごてなってしもうて、もうわからん。せめて月のもん ば止めてはいよと頼んだこともありました。止めゃならんげなですね。月のもんを止めたらなお体に悪かちゅうて。うちゃ生理帯も自分で洗うこたできんように なってしもうたっですよ。ほんに恥ずかしか。
うちは前は達者かった。手も足もぎんぎんしとった。働き者じゃちゅうて、ほめられものでした。うちは寝とっても仕事のことぽっかり考ゆるとばい。
今はもう麦どきでしょうが。麦も播かんばならんが、こやしもする時期じゃがと気がもめてならん。もうすぐボラの時期じゃが、と。こんなベッドの上におって も、ぼろぼろ気がモメて頭にくるとばい。
うちが働かんば家内が立たんとじゃもね。うちゃだんだん自分の休が世の中から、離れてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でモノを しっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。そらもう仕様もなかが、わが口を 養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。足も地[じだ]につけて歩きよる気のせん、宙に浮いとるごたる。心ぼそか。世の中から一人引き離されてゆきよた る。うちゃ寂しゅうして、どげん寂しかか、あんたにやわかるみゃ。ただただじいちゃんが恋しゅうしてこの人ひとりが頼みの綱ばい。働こうごたるなあ自分の 手と足ばつこうて。
海の上はほんによかつた。じいちゃんが艫櫓[ともろ]ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。
いまごろはいつもイカ籠やタコ壷やら揚げに行きょった。ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい。四月から十月にかけ て、シシ島の沖は凪[なぎ]でなあ——。

(出典:石牟礼道子「五月」「第3章 ゆき女きき書」『苦海浄土』講談社文庫版、127-129頁)


 四大公害の実態が明るみに出るなか、1970年にはいわゆる「公害国会」がひらかれ、1967年に制定されていた公害対策基本法が改正され、1971年には環境庁が設置された。

 市民運動の活発化した1960年〜1970年代は、革新政党が台頭した時期でもあった。東京都や大阪府では社会党・共産党と市民団体のおした候補者が地方首長選挙に勝利している。


 1970年代以降、日本においてもウーマンリブが盛り上がった。

資料 ウーマンリブ
 
ウーマンリブとは、1960年代後半から70年代前半にかけて世界的に展開さ れた新しい女性解放運動を指す。日本でウーマンリブが社会的注目を浴びた のは、1970年10月の国際反戦デーに女性だけで行われたデモが初めといわれ る。この後、同年11月14日開催のティーチイン「性差別への告発」、12月8日「女は侵略へ向けて子供を産まない育てない」デモ、1971年8月の「リブ合 宿」、1972年5月「全国リブ大会」等々、ウーマンリブ運動は、一挙に広がっ ていった。それらの運動を中心的に推進したグループ「ぐるーぷ闘う女」「集 団エス・イー・エックス」などが主体となって、1972年には「リブ新宿セン ター」が開設され、「優生保護法改悪阻止」闘争等が全国的に展開されていく。 1975年の国際女性年の頃から、女性解放運動は、国連および各国政府によ る女性差別撤廃への政策的取組と連動しつつ、新しい局面を迎える。70年代 初頭のウーマンリブに触発された運動が、キャンパスで、職場で、地域で、 裁判闘争やイベントやミニコミ等々多様な形態をとりつつ浸透し、担い手層 も拡大していく。その意味では、ウーマンリブ運動は継続していったといえ るが、一般的には、1970年から75年までになされた歴史事象としての一連の 女性解放運動を指して呼ぶことが多い。 ウーマンリブ運動には、その思想のみならず、自己語り、パフォーマンス、 ミニコミ等々、多様なコミュニケーション方法を生み出したことにも特徴が ある。この運動が起きる以前には、自分の感情や思想を表現する機会も意欲も奪われがちであった女性たちが、自分の言葉で、自分の心情や意見を表現 し始めたからである。しかも、それらは、組合や政党などの組織を代表して 表現されたものではなく、多くは個人または、せいぜい数人のグループから の自発的発信であり、また発信作業自体が初めての経験である場合も多かっ た。 なかでも、コミュニケーションの媒体として数多くのビラ、リーフレット、 機関誌、ニュースレター、およびミニコミ誌などインフォーマルな印刷物は、 ウーマンリブ運動の急速な広まりを促し、運動の独自性を社会に印象づけた 点で重要である。

(出典:井上 輝子・長尾 洋子・船橋 邦子「ウーマンリブの思想と運動—関連資料の基礎的研究」『東西南北』 2006年、134-158頁、134-135頁、https://wako.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3368&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

https://bunshun.jp/articles/-/4666D

江原由美子さんの「リブ運動の軌跡」における説明もわかりやすいので紹介しておこう。

リブ運動という言葉は、日本では通常1970年以後の「女性解放」を目的とする運動を指す。【「女性解放」を目的とする】〔ここまで【】内傍点〕ということは、今日では目新しい主張でも何でもないように聞こえるが、それは60年代の「婦人問題」の把握の仕方を定義し直すものであった。 
 すなわち「婦人問題」という言葉が、あたかも【女性が原因であるゆえに生じる問題】〔【】内は傍点〕であるかのような響きがあるのに対して、リブ運動は、「問題なのは【女性】〔傍点〕ではなく【女性の解放】〔傍点〕なのだ」と主張したのである。すなわち女性はその「無知」や「無能」ゆえに、男性(行政・
知識人)によって保護・教育・援助されねばならないのではない。女性の問題とは、男性=社会が作りあげている状況の問題なのであり、変革されるべきは【じょせいではなく、男性であり社会である。】〔傍点〕追求されるべきは女性の解放であるというわけだ。

(出典:江原由美子『女性解放という思想』筑摩書房、2021年、159-160頁)




■社会主義世界の変容

 社会主義圏でも、中国や東欧諸国の間にソ連離れが進行した。
 1968年にはチェコスロヴァキアで大規模な自由化・民主化運動が起き、「プラハの春」と呼ばれた。


資料 チェコスロヴァキア共産党行動綱領(1968年)
 社会主義社会は硬直化しつつあり、決定的な遅れをとっているのではないか、また人間関係が、道徳的にも政治的にも悪化しているのではないか、……社会主義に対する不安や、社会主義の人道的使命、その人間的な顔が失われているのではないか、という恐れが生まれてきた。……私たちは、新しい、深く民主的で、チェコスロヴァキアの条件にあった社会主義のモデルの建設に進みたいと考えるのである。

 しかし、ソ連はワルシャワ条約機構軍を投入して「プラハの春」を鎮圧し、国際的な威信を低下させた。


資料 いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」

 しかし、ソ連国内では産業構造の転換がおくれ、増大し続ける軍事的な支出もかさみ、経済は停滞するいっぽうであった。


資料 冷戦末期のソ連とアメリカの軍事費の支出

(出典:Schofield, Norman. (2003). Power, prosperity and social choice: A review. Social Choice and Welfare. 20. 85-118. 10.1007/s003550200170. , https://www.researchgate.net/figure/A-comparison-of-US-and-Soviet-military-expenditure-1984-1991_tbl1_24064417





 

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊