4-3-1. 「1968年」運動:問い直される近代
新型コロナウイルスの世界的大流行のなか、アメリカにおける人種差別への抗議運動や、中国(香港)、ミャンマー、ベラルーシなどにおける民主主義抑圧に対する抵抗運動がグローバルに拡大した。
こうした動向について、高校生たちが見聞きしているとは限らない。
まずはこの数年の動向を振り返りつつ、政権や支配的な価値観に対する異議申し立てを唱える運動が、国境を超えてグローバルに結びついていった事例が、これまでにもあったのかどうかを問うてみたい。
そこでとりあげるのは、「1968年」という年だ。
現在とは異なり、インターネットなどはなかった時代だ。世界各地で、どのような人々が、なぜ、どのような運動に参加していったのか。
そして、その運動の多くが、1970年代以降も持続しなかった理由はなぜか。
1968年の運動が、現在の私たちの生活や考え方に、どのような影響を、どの程度与えているのか。
こういったことを考えてみたらどうだろうか。
■アメリカにおける価値観の変容とその影響
戦後の先進諸国では、アメリカ合衆国を筆頭に、1950年代以降「豊かな社会」が生まれた。
豊かさといってもさまざまな定義があるが、ここでいう豊かさとは物質的な豊かさのことである。
その起点には、第1章で扱った「近代化」があり、その成果は第2章で扱った「大衆化」によって、より多くの人々にひろがっていった。
「近代化」と「大衆化」の動きは、二度の大戦を経て、戦後世界には「グローバル化」し、その先頭をアメリカ合衆国が走るという構図ができあがった。
しかし1960年代末から、物質的な豊かさを追い求めようとする人々の姿勢に、変化の兆しが現れるようになった。
新たな社会運動は、ニューレフト(新左翼)と呼ばれ、資本主義国、社会主義国を問わず、さまざまな国で展開された。その原因や主張は多様だが、ベトナム戦争批判や文化大革命への共感、黒人や女性といった社会的マイノリティに注目するなど、国をこえる共通点も持っていた。
特にフランスにおける五月危機とアメリカにおける反戦運動・公民権運動の持つ影響が見逃せない。
アメリカ
・コロンビア大学などの学生運動
・ウーマン・リブ
・ブラックパンサー党
フランス
・パリ五月危機
ドイツ
・ベルリン自由大学などにおける学生運動
チェコスロヴァキア
・プラハの春
中華人民共和国
・文化大革命
日本
・東京大学や日本大学などにおける学生運動
ベトナム反戦運動と公民権運動
1968年の運動の背景の一つには、アメリカ合衆国の抱える諸問題に対する、若者の異議申し立てがあった。
ここで、「若者」とは誰のことだろうか?
1968年時点で成人を迎えた人々は、すなわち戦後の第一次ベビーブーマー。日本でいうところの「団塊世代」であった。
ベトナム世代である2700万人のアメリカ人のうち、兵役についていた者、実際に戦地におくられた者はどのくらいだったのだろうか?(後述する)
ここでひとまず、「同時期にアメリカ合衆国で大きな問題となっていたベトナム戦争の泥沼化が、年長世代に対する若者の反抗につながった」という仮説を立ててみたい。
ベトナム戦争に対する反戦運動
ベトナム戦争に対する反戦運動は、なぜこの時期に盛り上がったのだろうか?
第一に、ベトナム戦争が、遠く離れたベトナムの一般民衆の殺戮を生み出していること、莫大な戦費負担が財政を逼迫させ軍産複合体を形成していることに対する反戦運動の高揚があった。
資料 アメリカの国防支出の推移
特に若者たちを中心に、ロック・フェスティバルが開催され、既成の社会が暴力と戦争を容認していることに対する批判が、ロックや映画、小説などを通じて発信された。長髪にジーンズを身に纏うヒッピー文化に代表される文化は「対抗文化(カウンターカルチャー)」と呼ばれた。支配的な文化に対抗する文化という言葉が成立するほど、当時の「文化」とは、教養の高いエリート知識人が大学などを中心に独占する高尚なものとみなされていたのである。
資料 ベトナム反戦運動のポスター
資料 ウッドストック・フェスティバル
公民権運動
ベトナム反戦運動と同時期には、アメリカ国内における黒人差別に対し、公民権運動(市民権運動)も高まっている。
黒人差別は、元をたどれば、イギリスの「近代化」の原動力となった綿花生産に、黒人が従事させられたことにルーツを持つ。
そのことに異議申し立てがおこなわれたということには、「近代化」のもたらした「物質的豊かさ」に対する問い直しという側面もあったということだ。
ただ、公民権運動は、突然1960年代に始まったわけではない。
すでに1950年代にはバス・ボイコット運動のように、異議申立てがおこなわれていたのだが、なぜベトナム反戦運動と同時期になって、いちだんと大きな盛り上がりを見せることになったのだろうか?
ヒントはベトナム戦争と黒人との関係にある。
とくに戦争の初期には、相当数の黒人が兵士としてベトナムに送られたのだ。
新型コロナウイルスのパンデミックで、黒人の死亡率の高さが報告されたことがBLM運動の背景にあったことを想起させるようなトピックだ。
ノルベルト・フライの指摘するように、「若者が徴兵カードを公然と焼き捨てる光景」は、単純に「戦争反対」というひとつのイシューをめぐるものとは限らない。「平和主義からくる動きもあれば、個人的な利害関係も働いていたりする。そしてそこには、政治的には決して同質とは言えないさまざまな勢力が繰り広げる主導権をめぐる争いがあった。」(出典:ノルベルト・フライ2012:47頁)。
のちに挙げるマルコムXも含め、運動には複数の潮流が流れ込んでいる。
人々が一体となり連帯しておこなう運動は、往々にしてなぜ分裂の途をたどるのか?
運動が成功する場合は、どのような条件が整っているときだろうか?
そういった現代的な課題と切り結んで考えていくことができるテーマであろう。
関連 公民権運動とストリート・ダンス
現在の高校生は、ダンスが体育の授業のなかに当たり前に組み込まれている世代である。
しかし、ストリート系のダンス(「ヒップホップ」)や「B系」と呼ばれるような文化のルーツが、アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人たちにあるという事実について知らない高校生のほうが、当然のことながら多いだろう。
次のような話題を用意し、紹介してもよいかもしれない。
1960年代には、アフリカ系アメリカ人に対する白人の意識にも変化が生まれた。
たとえばストリートダンスの世界では、1960年代にソウルダンスというジャンルが生まれた(もともと日本で「ストリートダンス」と呼ばれるダンスは、バレエや社交ダンスと異なり、路上で自由に踊るダンスのことを指した)。もともとシカゴで黒人向けテレビ番組内で、ソウル・ミュージックに合わせて踊るものであったソウル・ダンスは、ロッキング、ポッピング、ワックといったスタイルをともない、急速に広まった。
また、1970年代にはニューヨークで貧困や暴力に苦しむアフリカ系アメリカ人らの間にはヒップホップ文化と呼ばれる対抗文化が生まれた。
このなかから生まれたブレイクダンスは、西海岸のストリートダンスと融合し、現在のストリートダンスにつながっていった。
アメリカのストリートダンスは、1983年のアメリカ映画「フラッシュダンス」を通じて広がった。同年には「ワイルドスタイル」という映画のPRのためにダンサーが日本各地で踊り、ストリートダンスが一気に流行した。
そもそも路上でダンスを踊ることができるようになったのは、ラジカセのおかげだ。すでに原宿では、ラジカセに合わせて歩行者天国で踊る若者がおり、家庭用ビデオを通してアメリカのストリートダンスのスタイルを学んだ若者は、日本におけるストリートダンスを発達させていった。
1990年代にはテレビ番組の特集や、沖縄のアクターズ・スクールから輩出された踊りながら歌うスタイルのミュージシャンの台頭により、ストリートダンスを教える民間の教室も増え、インターネットの動画を通してダンスは一気に身近なものとなっていった。
2000年代以降、ダンスは学校教育の体育の授業でも学習するものとなり、SNSを通じて国境を越えるダンス文化が生み出され続けている。グローバル化とともに、ストリートダンスのスタイルは画一化している面もある。
フェミニズム
たとえば、女性運動においても、「女性らしさ」といった価値観が、男性中心に作り出された社会的・文化的な性差によるものであることを暴くウーマン・リブ(women’s liberation movement=女性解放運動。日本ではウーマン・リブとよばれた)がおき、性的少数者による運動にもつながっていた。
(…)
ド・ゴールの退陣
既成の社会を問い直す動きは、フランスのパリでも連動する。1968年におきた「五月革命」は、大学生が大学の管理体制を批判する異議申し立て運動であり、翌年のド・ゴール退陣につながった。
若者文化の商業化
1960〜70年代に生まれた従来の権威的な文化に対抗する若者の文化は、1980年代以降、しだいに消費文化と結びつき、サブ・カルチャーを中心に次第に一般の人々の楽しむ文化やライフスタイルへと変化していった。
■日本における価値観の変容
アメリカにおける反戦運動は、1965年に結成されたベ平連(「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」)に影響を与えた。
市民運動のみならず、左翼勢力による活動も活発化し、1968〜1969年には、大学の管理体制に不満をもつ学生による改革要求(大学紛争)が激化した。運動は次第に過激化に向かい、多くの学生は政治的な活動から距離を置くようになり、この時期に生まれた日本における新しい社会運動の多くは、持続的な組織の形成には至らなかった。
なお、物質的な豊かさに疑問符を投げかけることとなった要因として、各地における公害の深刻化があった。
四大公害の実態が明るみに出るなか、1970年にはいわゆる「公害国会」がひらかれ、1967年に制定されていた公害対策基本法が改正され、1971年には環境庁が設置された。
市民運動の活発化した1960年〜1970年代は、革新政党が台頭した時期でもあった。東京都や大阪府では社会党・共産党と市民団体のおした候補者が地方首長選挙に勝利している。
1970年代以降、日本においてもウーマンリブが盛り上がった。
https://bunshun.jp/articles/-/4666D
江原由美子さんの「リブ運動の軌跡」における説明もわかりやすいので紹介しておこう。
■社会主義世界の変容
社会主義圏でも、中国や東欧諸国の間にソ連離れが進行した。
1968年にはチェコスロヴァキアで大規模な自由化・民主化運動が起き、「プラハの春」と呼ばれた。
しかし、ソ連はワルシャワ条約機構軍を投入して「プラハの春」を鎮圧し、国際的な威信を低下させた。
資料 いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」
しかし、ソ連国内では産業構造の転換がおくれ、増大し続ける軍事的な支出もかさみ、経済は停滞するいっぽうであった。
資料 冷戦末期のソ連とアメリカの軍事費の支出