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16.1.1 東欧の民主化 世界史の教科書を最初から最後まで

冷戦末期の東ヨーロッパの様子を見ていこう。

東ヨーロッパで「ソ連共産党」に従う体制が崩れていった直接的なきっかけは、1988年にゴルバチョフ書記長の出した新ベオグラード宣言だ。 
この中で彼は「東欧への内政干渉はしないよ」と明言。
東ヨーロッパの体制変動につながった。


東ヨーロッパ諸国の多くが、雪崩を打つようにソ連に従う体制を転換した1989年は「東欧革命」の年と呼ばれる。
それは折しも、フランス革命200周年(1789年+200年)にあたる時だった。


ポーランドの動き

ポーランドでは〈ワレサ〉(ヴァウェンサ、1943~2016、任1990~95) を中心とする自主管理労組「連帯」(ソリダルノスチ) が、工場を自分たちで民主的に管理する運動を始めていた。

しかし、工場を自分たちで民主的に管理するということは、社会主義的な政府からくだされるトップダウンの意思決定(計画経済)を否定することにつながる。

そこで政府によって1981年に解散させられていた。

しかし活動をやめなかった彼は1983年にノーベル平和賞を受賞。
当時のローマ教皇〈ヨハネ=パウロ2世〉(ポーランド出身です) も公然と〈ワレサ〉の「連帯」を支持する中、

1986年には復活し、1989年6月に議会選挙で勝利したことで、ポーランドは共産党ではない政権に移行した。



複数政党制と議会制民主主義が導入されて、市場経済へのシフトすることになったポーランドは、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国への接近を強めていくことになるよ。



チェコスロヴァキアの動向

チェコスロヴァキアでは共産党独裁体制が無血で倒されたことから、なめらかなビロードの生地にたとえてビロード革命とよばれる。



〈ゴルバチョフ〉は、かつてのハンガリー事件(1956年)やプラハの春(1968年のように、東欧革命に武力介入することはなかった。

なおチェコスロヴァキアは1993年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独立し、こちらもスムーズな展開であったことから“ビロード離婚”といわれるよ。


東ドイツの動き

東ドイツの国家元首はドイツ社会主義統一党の一党制で、ソ連の“衛星国家”の中心的な存在だった。

1976年に国家評議会議長(首相)に就任したドイツ社会主義統一党書記長(任1971~89)の〈ホーネッカー〉(任1976~89)は、当初は西側諸国との緊張緩和に努めまたものの、次第にシュタージという秘密警察による国内の取締を強化させていった。



しかし、国際社会の変化に対する対応が迫られる中で東ドイツ経済は停滞を続け、1987年には西ドイツを訪問し〈コール〉首相と会談。



しかし、経済政策の自由化には踏み切ることはなく中央集権的な政策を取り続け、1980年にポーランドの政権が自由選挙で大敗して崩壊すると、東ドイツ国民の中から隣国チェコスロバキアからハンガリーへ脱出(汎ヨーロッパ=ピクニック)する運動を起こす人々が現れた


すでにハンガリーでは自由化に向けた改革を進めていたので、逃げてきた東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツに出国させていった。
人々は「ピクニックをしているだけだ」といいながら、東ドイツを抜け出そうとしたのだ。

このような事態に陥っても〈ホーネッカー〉は強硬な社会主義路線を変えることはなかった。
そんな中で〈ゴルバチョフ〉が10月7日に東ドイツに訪問し〈ホーネッカー〉を批判、その後副議長〈クレンツ〉らは〈ホーネッカー〉批判をすすめ、10月18日に〈クレンツ〉が国家評議会議長(首相)に就任することになった。



〈クレンツ〉は体制維持に奔走するが、ベルリン地区委員会の第一書記をつとめていた〈クレンツ〉派の〈シャボフスキー〉がベルリンの壁の「開放」を誤って発表すると、壁に押し寄せた群衆を止めることはもはや不可能に。
11月9日に本当に「開放」されてしまった。



〈クレンツ〉は12月に退陣し、小勢力であったドイツ自由民主党の〈ゲルラッハ〉が国家評議会議長に就任。
彼の下で1990年に史上初めて自由選挙がおこなわれ、新憲法が制定された。

しかし、同年10月には西ドイツのコール首相(任1982~1998)のもとで、西ドイツが東ドイツ政府を吸収する形で東西ドイツ再統一が実現されることになった(「東ドイツ」政府が崩壊したわけではない)。
これが世に言う「東西ドイツの再統一」だ。


ここからのドイツの正式名称は、西ドイツの正式名称「ドイツ連邦共和国」。国のしくみは各地方の州や都市の権限の強い「連邦制」だ。

思想体制が長期間にわたって異なり、経済水準の低い東ドイツを抱え込んだことは、西ドイツにとって大きな課題となっていく。

統一ドイツの初代大統領は西ドイツ首相のキリスト教民主同盟(CDU)の〈ヴァイツゼッカー〉(任1984~1994)。1985年に「過去の克服」演説をおこない話題となった人物だ。

史料 ヴァイツゼッカー大統領演説(1985年)
 1945年5月8日はヨーロッパにおいて極めて重要な歴史的意義をになった日であります。
……大抵のドイツ人は自らの国の大義のために戦い,耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが,一切が無駄であり無意味であったのみならず,犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった,ということが明らかになったのであります。
……問題は過去を克服することではありません。……しかし,過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも目を閉ざすことになります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は,またそうした危険に陥りやすいのです。
(『ヴァイツゼッカー大統領演説集』永井清彦訳 岩波書店)



再統一ドイツの大統領は形式的なもので、実権は連邦首相のキリスト教民主同盟の〈コール〉(任1982~1998)が握っていた。
〈コール〉による長期政権は、1998年に〈シュレーダー〉(任1998~2005)に継がれ、2005年からは初の女性首相にキリスト教民主同盟の〈メルケル〉(任2005~)が就任していた。


ルーマニアの動向

ルーマニア社会主義共和国では、〈チャウシェスク〉大統領夫妻(夫1918~89、妻1916~89)が、ソ連から距離を置き西側諸国に接近する独自路線をとることで、長年独裁政権を維持していた。


しかし1980年代に入ると対外債務が積み上がり国民の生活水準も下がる中、〈チャウシェスク〉らの支配層の豪遊ぶり(首都ブカレストには宮殿“国民の館”が建築されていました)に批判が集まった(下記動画は、1986年2月の第27回ソ連共産党大会で演説するチャウシェスク)。




こうして1989年にルーマニア革命が起き、夫妻は逮捕。
公開処刑された。

その後、複数政党制・市場経済への復帰後には混乱もみられたが、2000年以降には安価な労働力が注目され海外からの投資が増加して経済成長を遂げ、2004年にはNATOに加盟、2007年にはEUに加盟した。


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