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【図解】これならわかる! ゼロからはじめる世界史のまとめ㉕ 1953年~1979年の世界

世界の歴史を26ピースに「輪切り」し、人名を登場させずに「大きな流れ」をつかむシリーズの第25番目の時代。
1953年~1979年の世界は、超大国であるアメリカとソ連の影響力は継続するものの、国際関係はその枠にはまりきらない「複雑さ」をみせるようになります。アジア、アフリカでは多くの国が植民地から独立し、未来に向かって一歩前進しようとするのですが―

「植民地だらけ」の世界が崩壊し、アメリカとソ連の「にらみ合い」が続くが、国際関係が複雑化する時代



―この時代、国連からのプッシュもあって、ようやく世界中の植民地がイギリスやフランスから独立していくよ。「植民地だらけの世界」の終焉だ。

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それは「めでたい」ことですね!

―そうとも限らないんだ。

 そもそも植民地だったところがそのまま「ひとつの国」として独立するのは、とても難しい。その境界線は、地元の「文化の境界線」を無視してヨーロッパ諸国が勝手に決めたものだからだ。


永年の間、支配に置かれていただけあって、複雑なんですね。

―複雑といえば、国際関係はなおさら「複雑」になっている。
 「多極化」という状況だ。


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 前の時代と比べてみよう。

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1-1. 3つ目の勢力「非同盟」の登場

アメリカにもソ連にも加わらない「非同盟」の国々が現れた!


あ、「3つ目」の色がプラスされていますね。


ー黄色い部分の「非同盟」が加わっているよね。


「非同盟」って何ですかー?


ー2度目の世界大戦が終わってからというもの、自由な競争を認め、地球上どこでも好きなように取引ができるよう状態を目指すアメリカと、その反対に自由な競争を禁止し、「貧富の差」をなくそうとしているソ連の「にらみ合い」が続いていたね。

 お互い核兵器を手にしてしまったがために、「直接対決」までは「恐ろしすぎて踏み込めない

 そのかわり「子分」たちに、ライバル国の「子分」と戦わせ、自国の「理想」に従ってくれる地域をできる限り増やそうとしているよ(注:代理戦争)。
 「理想」といっても、支配するための「口実」に過ぎなかったんだけれど。



世界のいろんな地域が、アメリカとソ連のいずれかの「正義」に従うかによって「色分け」されていったということですね。

―そういうこと。
 
 でも、この時代になると、その「正義」に従ってくれない地域も各グループに現れるようになる。


それがさっきの「3つ目の勢力」ですね。

ーそう。植民地から独立を勝ち取った国々が、アメリカの言うこともソ連の言うことも聞かないという方針をとって団結し始めたんだ。

アメリカにもソ連にも屈しないという国や地域がインドネシアに集まって、共同宣言(注:平和十原則)を発表した(注:バンドン会議)


***

1-2. アメリカ、ソ連グループ内の「内輪もめ」

アメリカ、ソ連グループの内部で、それぞれの体制から抜けたり、ぶっこわしたりしようとするグループが生まれるようになる。



ーそれにアメリカでもソ連でも、内側の結束が崩れ始めていくのもこの時期。

 そのきっかけとなったのは、ソ連に君臨していた強力な指導者の死だ。


 彼はほとんど「」としてあがめられるような存在だったから、「ロス」も大きかった(映画「スターリンの葬送協奏曲」。なお、暗殺説も根強い)。

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元・側近(注:フルシチョフ)が、亡くなった「独裁者」(注:スターリン)の悪行を”秘密報告”の中で暴露した。


 その一方で彼のせいで自由な意見をいうことができなかった反対派たちが、死後しばらくして批判を始めたんだ(注:スターリン批判)。


 そして訴える。
 「前の指導者のことが嫌いになっても、社会主義のことは嫌いにならないでください!」と。

 で、続いて「なんだ、さんざん命令してきたくせに、前の指導者はそんな悪行をはたらいていたのか」と、東ヨーロッパでソ連の「子分」となっていた国々では不満が爆発する(注:ハンガリー事件など)。



 さらに、中国の指導者(注:中華人民共和国の毛沢東)も「ソ連を信じたのがバカだった。これからは中国流で社会主義を実現させる」とそっぽを向きはじめてしまう。



ソ連グループ側の結束が乱れるんですね。

―アメリカ側も一体感が崩れだす。
 ヨーロッパも日本も戦後の復興が進み、アメリカの会社を逆に脅かしはじめていた(注:日米繊維交渉)。

 「子分」に取り込もうとしていた西ヨーロッパでも復興がすすみ、特にフランスは言うことを聞かなくなっていく(注:ド・ゴールの独自外交)。

 
***

1-3. アメリカとソ連の一時的仲直りとケンカ再開

へとへとになったアメリカとソ連は一端歩み寄る(注:雪解け)が、その後”第三次世界大戦”の危機に発展する


 そういうことを背景にして、アメリカとソ連は一時期「仲直りムード」に傾いていったんだ。
 でも、長続きはしない。


 アメリカの偵察機がソ連に撃墜され、さらにアメリカと目と鼻の先にある島国、キューバにソ連のミサイル基地が建設されていることがわかったからだ(注:キューバ危機)。



アメリカはどんな対応をしたんですか?

―3度目の世界大戦「寸前」といわれたけれど、両国の指導者はぎりぎりのところで踏みとどまったんだ。

***

1-4. アメリカはベトナム戦争に大失敗

ソ連グループにつかないようにベトナムをコントロール下に置こうとするが、大失敗。中東での石油価格の支配権も失い、アメリカの覇権が傾き出す。

 でも、社会主義が広まるのを恐れたアメリカは、今度はベトナムの政治に首を突っ込む


 この戦争(注:ベトナム戦争)は、何も悪いことをしていないベトナムの人たちを巻き込み国内外で批判を浴びた上、長引きすぎて財政が悪化してしまった。国内では福祉などにお金をかけすぎていたことも、財政赤字に輪をかけた。

 さらに貿易も赤字になり、追い打ちをかけるように石油の値段が世界的に跳ね上がって、経済をさらに圧迫した(注:第一次石油危機)。



どうして石油の値段が上がったんですか?

―西アジアのアラブ人の国々が、エジプトの物流ポイント(注:スエズ運河)にいつまでも軍隊を置き続け、ユダヤ人の建てたイスラエルを応援するイギリスやフランスに対抗するために、協力して石油の生産を減らして値段を釣り上げたんだ(注:石油戦略)。
 国民にユダヤ人を抱えるアメリカも、その標的になるよ。



ヨーロッパ諸国やアメリカは「試練のとき」を迎えていますね。

―そうだね。

 困った先進国は、しだいに「お金の節約」法を検討するようになる。

 つまり、国民の福祉のお金を削り、会社どうしが自由に競争するのを応援するようになっていくんだ(注:新自由主義)。国があれこれ手を出すとお金がかかるし、つぶれそうな会社にお金をかけて助けるよりは、競争を勝ち抜いた会社にたくさんもうけてもらったほうが良いと考えられたからだ。


***

1-5. 先進国(欧米と日本)とそれ以外の差は埋まらず

植民地から独立しても、経済的・文化的な支配は残された。国際経済のルールは先進国に有利。なかなか差は埋まらない。



アジアやアフリカの国々は貧しいままなんですか?

―いきなりヨーロッパ諸国やアメリカに追いつくのは難しいよね。
 社会主義に魅力を感じてソ連と結びつく指導者もいたけど、ソ連の支配者の本音は「そこにある資源がほしいだけ」って感じだったから、「国民の幸せは二の次」になりがちだった。

 アメリカ側についた国々は「工業化」をめざして、まずは一生懸命アメリカの技術をパクろうとした(注:工業化へのテイク・オフ)。
 輸入していた商品をまず自分の国でつくれるようになること(注:ノックダウン生産)が、工業化への「最初のステップ」だからだ(注:輸入代替工業)。
 でもそのためにはお金が要るし、効率よく工業化をすすめるためには、「強いリーダーシップ」で国をまとめ上げることも必要だ(注:開発独裁)。


 アメリカはそういった国の独裁者たちに、「工業化をすすめるため」「農業の生産を高めるため」ということで莫大なお金を貸したりあげたりした(注:進歩のための同盟)。そのお金に依存したり、国民のために使われない例もよく見られたよ。


***


1-6. テクノロジーの発展が地球に大きな負荷をかけた

人口の爆発的急増が加速。コンピューターの登場が、次の時代には「第3の空間」(サイバー空間)に発展していく。



そうなると、世界中で自然破壊も進むのではないですか…?

―その通り。
 今までは工業化の進んでいなかった地域でも工場が建てられたり、道路ができたりするからね。
 農業の機械化もすすんで食料がたくさんつくられるようになるし、病院も建てられたり医療技術のクオリティも上がったりして、世界各地で「人口が増えまくる」のもこの時代。

 そうなると食べるものが足りなくなって、畑や牧場も増えていくし、燃料にするために森が切り開かれていく


 はじめのうちはみんな「無意識」であったわけだけど、しだいに「このままだと、いつか人間の使える資源はなくなるんじゃないか?」ということに気付く人も出てくるよ(注:ローマ・クラブ)。

 ちなみにコンピュータの開発も、この時期に進んでいく


 もともと二度目の大戦のときに、爆弾を正確に飛ばすために開発された技術だった。コンピューターとは、「人間だったら考えられないほどのスピードで計算できる機械」のこと

 これが次の時代になると、今までは目に見える「モノ」の取引を中心に成り立っていた人間の社会が、目には見えない「情報」が中心となる社会へと根本的に転換してしまうほどのインパクトを発揮することになるよ。


***


◆1953年~1979年のアメリカ

ーこの時代の始め、アメリカ合衆国とソ連の仲が一端改善されることになった。

どうしてですか?

―きっかけはソ連の最高指導者が亡くなったことだった。
 いったん「頭を冷やす」時間がもうけられるようになる(注:雪どけ)。


それは良いことですね!

―ただ、水面下で対抗関係は続いている。

 ソ連が先に「地球外にロケットを飛ばして、地球のまわりをぐるぐる回らせる機械」(注:人工衛星)を開発することに成功したからだ。
 これにアメリカの科学者たちはショックを受けた


 爆弾を積めば、宇宙からの攻撃だって可能になってしまうからだ。

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ついに人類は、地球の外にまで活動範囲を広げたわけですね…。

―その通り。
 宇宙時代の幕開けだ。
 アメリカは躍起になって開発をすすめ、「月に人類を送る」ことに成功した。

 でも、大陸をこえる核ミサイルの開発や、核兵器を積み原子力を燃料とする潜水艦の開発などがどんどん激化し、一時、ソ連とアメリカの間に核兵器を使った3度目の戦争が勃発するかしないかの「瀬戸際」にまで発展したんだ(注:キューバ危機)。



それはヒヤヒヤものですね…。

―ギリギリのところで回避したんだけど、対立はつづく。

 キューバはソ連グループ側に立ち、アフリカの独立国家を独自に支援する動きも見せるようになっていった。


 
 アメリカの政治家は、「ソ連は自分の“子分”をドミノだおしのように増やしていく。どこかで止めないと、大変なことになる」(注:ドミノ理論)と考えていた。


なんだか単純な考え方ですね。
 
ーそこでどうしたかというと、「次にソ連の“子分”となるのはベトナムだ」と考え、ベトナムの社会主義国化を全力で阻止しようとしたんだ(注:ベトナム戦争)。


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そんな理由で、そんな遠いところの戦争に連れていかれる兵士も大変ですね…。

悲惨戦場状況に対し、国内では若者による戦争反対運動が激化した。
 戦場カメラマンが現地の悲惨な様子をレポートしたからだ。
 Tシャツを着て、フォークロックを歌って愛と平和を叫んだんだよ。

大人はわかってくれない」と、「上の世代の政治家」への反発が強まると、新しいアメリカ」をつくろうとする動きが活発になった。
 とくに、今までろくに発言権もなく苦しんでいたインディアン黒人、それに女性性的少数者のような人々が権利を求めて声をあげるようになったんだ。



ベトナムでの戦争はどうなったんですか?

―お金の使いすぎと国内外の批判を受け、大統領は撤退を決断した(注:アメリカ合衆国のベトナム撤退)。

 でも、ベトナムから軍隊を撤退するなら、作戦の変更が必要だ。
 撤退したらベトナムは社会主義国になってしまうだろうからだ。

 そこで目をつけたのが、当時起きていた社会主義国の「仲間割れ」だ。
 ソ連が“子分”だと思っていた中国が、ソ連に対して反抗的になっていたのだ(注:中ソ対立)。


 もともと中国は、国際連合の常任理事国ではなかった
 そこでアメリカは、中国に「常任理事国にさせてやるから、その代わりアメリカに協力してくれないか?」と誘ったのだ。

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でも、中国も社会主義国ですよね? アメリカは血迷ったんですか…?

―ソ連と中国を比べたとき、ソ連のほうが「より大きな敵」だと判断したわけ。
 非常に現実主義的な選択だよね。
 中国と仲良くしておけば、中国との関係の悪いベトナムが社会主義国になっても、中国がなんとかしてくれるはずだと考えたわけだ。


 なお、この時期のアメリカ合衆国は中東にも首を突っ込んでいるよ。


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中央アメリカや南アメリカはどんな感じですか?

―やはりアメリカの影響力がとても強いね。

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 例外的に、カリブ海のキューバという島では、アメリカとつるんでいたリーダーを追放し社会主義の国をつくることに成功している(注:キューバ革命)。

 だけど、その他の地域でそんなことが起ころうものなら、アメリカによる秘密作戦によって反抗したリーダーが「消されアメリカに忠実なリーダーに「取り替え」られてしまうというようなことも起きたんだ。
 伝統的に軍隊の力も強い国が多く、国民の「人気とり」(注:ポプリスモ)によって票を得ようとする政治家も多く、社会のゆがみは根本的にはなくならなかった。


強引ですね…。

―アメリカの政治家たちは、「お金を貸し付けて産業を活性化し、社会が豊かになっていけば、あとは勝手にアメリカの側に立ってくれるはずだ」と考えていた(注:ケネディ大統領の「進歩のための同盟」)。
 このときにこの地域の国々が借りた莫大な資金が、のちのち「返しきれないほどの借金」となって経済を苦しめることになるよ。



***

◆1953年~1979年のオセアニア

オセアニアの地域の独立は進んでいますか?

―この時期になると、次々にイギリスやフランスから独立していったよ。

 でも小さな島が多いので、独立しても「やっていけない」ところも多かった(注:MIRAB国家)。

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 でも一部の島はまだニュージーランドやアメリカの支配下にある。
 アメリカが「信託統治(国連の管理下でしばらくの間、面倒を見る形での支配)」していた地域(上の地図でいうと青い◯で囲んだところ)にあるマーシャル諸島、ミクロネシア、パラオにいたっては、アメリカと軍隊などに関して協力をする形での独立(注:自由連合)だった。


イギリスとフランスが去って、今度はアメリカがパワーを残そうとしたわけですね。


***

◆1953年~1979年の中央ユーラシア

ユーラシアの草原地帯の多くは「ソ連」か「中国」の一部になっていますね。
―そうだね。
 伝統的な言葉や文化を否定された人たちも多かった。
 
 「○○スタン」という名前の国がいくつかあるよね。
 この地域も、ソ連の指導者の都合によって「民族運動が盛り上がらないように」意図的に引かれた国境線だったから、おなじ国だからといっておなじ民族が暮らしているとは限らなかったんだ。

 中国でもチベット人ウイグル人モンゴル人の権利は、かなり制限された状態になっている。



◆1953年~1979年のアジア

ソ連側に立つか、アメリカ側に立つか。それをめぐってアジアは「巻き添え」を食らっていましたね。

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◯アメリカ・ソ連のアジアでの”場外乱闘”は一休み

ソ連の指導者の死去をきっかけに、朝鮮とベトナムの戦争は一端保留に。


―前の時代には朝鮮半島で大きな戦争が起きていたよね(注:朝鮮戦争)。
 北のほう(注:朝鮮民主主義人民共和国)をソ連、南のほう(注:大韓民国)をアメリカがバックアップしていたんだった。

 しかし、ソ連の最高指導者(注:スターリン)が亡くなったことがきっかけで、朝鮮半島は休戦するよ。

 ベトナムでも、同じように北をソ連南をフランスがバックアップして戦争(注:インドシナ戦争)が起こっていたんだけど、こちらも一端フランス劣勢のまま休戦した(注:ジュネーヴ休戦協定)。


「休戦」ってことは、決着はついていないってことですよね。

―うん。実質的には「先延ばし」だ。

 ベトナムからはフランスが撤退したんだけど、そこへ今度はアメリカ合衆国が「社会主義を広めない!」という使命感から南側の政府をバックアップしたもんだから、その後アメリカは北の政府との泥沼の戦争に突進していく。
 最終的にあきらめて撤退するけどね。


◯「第3の勢力」の登場!

アメリカかソ連かの二者択一はもうたくさん。「非同盟諸国」が先進国に対して「首を突っ込むな」と宣言した。


アメリカかソ連側の「二者択一」意外に、チョイスはなかったんでしょうか?

―「アメリカでもなくソ連でもない、第三の選択肢」を掲げる指導者も現れるよ(下の地図の黄色い◯の国・地域が参加)。

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 ソ連との関係が悪くなった中国が、インド、スリランカ、パキスタン、ビルマ(以上は元イギリスの植民地)、インドネシア(元オランダ植民地)と組んで、「アメリカ合衆国とソ連よ、いつまでアジア、アフリカを困らせるんだ!」とクレームをつけたのがはじまりだ。

 インドネシアでも、アジアやアフリカの植民地から独立した諸国が集まって、「わたしたちはアメリカにもソ連にもつかないぞ!」と宣言した(注:地図の黄色い◯の国・地域)。


あれ? アメリカ寄りの日本も参加していますね。

ー日本にとっては第二次世界大戦後初めて主体的に出席した国際会議。
 もちろん当時、反対論もあったけれども、国際社会に再入場していく日本がその存在感を示す上では格好の舞台だったんだ


◯アメリカによるソ連「封じ込め」は続く

アメリカは各国の経済発展を支援し、自由に貿易をするグループに引き入れようと画策。多少 ”手荒”な指導者であっても、多めに見た。


東南アジアの中にはアメリカ側についた国もあるんですか?


―タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどはアメリカ寄りの方針をとったよ。
 ソ連寄りの政策をとる政治家が現れると、政変によってアメリカ寄りにチェンジした国さえある(注:インドネシアのスカルノ政権からスハルト政権への転換)。


どうしてアメリカ側についたんでしょうか?

ーやはり経済的なメリットが大きいね。

 たとえば、日本、韓国、フィリピンやタイ、シンガポールといった東南アジアの国々はアメリカ側についたよね。

 どの国も、整膚が大きな力をふるい一致団結した経済成長が図られていったよ。

 順番的には日本がトップランナーで、それを韓国やシンガポールが追いかけていったんだ

 「独裁なんじゃないの?」って思える始動者もなかには現れるよ(注:開発独裁)。
 社会主義を広めないためには、少々「手荒」(てあら)な指導者であってもやむを得ないと考えられたんだ。アメリカ合衆国としては「アメリカのいうことさえきっちり聞いてくれればいい」というわけだ。


◯「ソ連離れ」 中国の独自路線!

ソ連の介入を嫌った中国は、独自路線を追求。しかし経済政策に失敗した中国は、指導者どうしの権力争いにもつれこんでの大混乱に。



社会主義の側の国は、経済を成長させることはできたんですか?

―例えば中国だね。
 「アメリカなんてすぐに追い抜いてやる!」と、農民たちを総動員して経済成長を目指したよ(注:大躍進政策)。


 農民の人口だけは負けないからね。
 でも結果は大失敗。
 名誉挽回をねらう指導者(注:毛沢東)によって全国の学生が動員され、政敵を追いやるキャンペーンがスタート。その暴走はやがてコントロール不能となり、長らく大混乱が続くよ(注:プロレタリア文化大革命)。


 その間、日本ではアメリカのバックアップもあって、経済が「V字回復」している(注:高度経済成長)。



 その日本からの経済援助もあって、今度は韓国が経済成長していくよ(注:漢江(はんがん)の奇跡)。


◯アメリカとソ連は中東にも首を突っ込む

中東では、アメリカ側の応援するイスラエル(ユダヤ人の国)と、ソ連側が応援するアラブ人の国々が何度も戦争を繰り返した。しかし、アラブ人の産油国の中にはアメリカ側につく国もいて、”一枚岩”にはなれなかった。

この頃、西アジアはどんな情勢ですか?

―ソ連が南に支配エリアを広げることをおそれ、アメリカ合衆国がいろんな作戦を実行している。

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 ソ連(ロシア)が南に下がってくるとしたら、もっとも「要注意」な箇所のひとつがトルコだ。
 トルコまで下がってしまえば、地中海に出ることができてしまうからね。

 そこで、トルコ、イラク、イラン、パキスタンにかけて、アメリカ合衆国を“親分”とする軍事同盟が結ばれた(注:中東条約機構)よ。



でも当時のアジアやアフリカでは、アメリカ側にもソ連側にもつきたくない!という国が増えていたんですよね?

―そうそう。
 その筆頭格がエジプトだった。
 エジプト(注:ナセル大統領)は、イギリス軍が依然として軍を配備していたスエズ運河の国有化を宣言



 ヨーロッパ諸国の支援するイスラエルという国とともに、イギリスとフランスは「スエズ運河をとりかえすため」の戦争となった(注:第二次中東戦争)。

スエズ運河、引っ張りますね~。

ー要するに、この地域の植民地にしがみつこうとしたイギリス・フランスの最後の悪あがきだったともいえる。
 これに対してアメリカやソ連が距離をとったため、戦争はエジプトに有利に働くよ。

 この結果エジプトの大統領の株は上がったけど、その後イスラエルは再び戦争を起こして(注:第三次中東戦争)エジプトは領土をもぎ取られてしまった。



イスラエルに対する反発も起きそうですね。

―そうだね。
 アラブ人の間ではアメリカに対する反発もエスカレートしていき、イラクでは革命(注:イラク革命)によって王様が倒されアメリカとの同盟(注:中東条約機構)も解消されていた。


 そこでアメリカが“子分”として選んだのはイランの王様だった(注:パフレヴィー2世。まもなく、民衆の蜂起によって亡命することとなる)。

 一方、アラブ人の国々はイスラエルと、それをバックアップするアメリカ合衆国に対する「リベンジ」の計画をちゃくちゃくと進めていた。
 その結果思いついたのが、「石油の値段のつり上げ作戦」(注:石油戦略)だ。



石油の値段を吊り上げる?

―そう。
 西アジアは世界有数の産油地帯。
 当時は世界的に、「自分たちの国でとれた資源は、自分たちの国のもの!」という風潮が高まっていた(注:資源ナショナリズム)。
 この地域の石油会社を伝統的に牛耳っていたのはヨーロッパやアメリカ系の企業だったけど、それに対抗するアラブ人による石油価格を決める組織もつくられていた。

 その組織が中心となって石油の値段をつり上げ、イスラエルとそれを応援する欧米諸国を困らせようとしたわけだ。

 こうして日本を含む欧米諸国は、これまでの「中東の安い石油」に頼った工業化による経済成長プランを、根本的に見直さざるをえなくなっていくよ。


***


◆1953年~1979年のアフリカ

◯古巣のヨーロッパ、新参のアメリカ・ソ連の介入

せっかく独立したアフリカは「国づくり」に難航。「タダでは独立させまい」とするヨーロッパや、アメリカ・ソ連が ”援助”というニンジンをぶら下げて、鉱産資源目当てに特定の民族・政治家を支援。民族紛争があちこちで生まれた。


アフリカはまだ「植民地」として支配されたままでしょうか?

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―ついに独立への動きが現実化するよ。
 まずはサハラ砂漠の北にある国々から始まって、奴隷貿易の盛んだったサハラ砂漠の南の方の地域も次々に独立していった



ついにアフリカにも明るい社会が訪れそうですね!

―「独立すれば、すべてがよくなる」。
 はじめはみんなそう思っていた。
 だけど、そんなに甘くない。
 だって、ヨーロッパ諸国だって「資源取り放題」「物売り放題」「核実験し放題」の植民地をやすやすと手放すと思う?



うーん…。でも、「独立」した国は誕生したわけですよね。それでも「首輪」がつながれているってことですか?

―そう。「首輪」だ。
 例えば、新しい国をつくるといっても、その場所にはたくさんの民族がいたわけだ。
 植民地支配を受けていた時期には、「特別扱い」をされていた民族もいれば、ハブられていた民族もいたわけで。
 だから、どの民族も仲良く平等に新しい国をつくろうってことにはなりにくい。


 「独立の父」を出した民族は、独立後も新しい国の中で「特別待遇」を受けることもあって、それがもとでギクシャクすることにもなりかねない。
 「国の言葉」を何にするか、「国の文化」を何にするのかでもモメてしまう。
 だからたいてい国の言葉は、もともと支配していたヨーロッパ諸国の言葉になりがちだ。



アフリカの人たちにヨーロッパ諸国の言葉がわかるのでしょうか?

―生活に必要なレベルの会話程度なら話せる人もいた。
 でも、そもそもヨーロッパ諸国は本気でアフリカの人たちのために教育なんてする気はなかったから、専門的な力までは育たない。
 というわけで、結局新しい国の支配者は、もともと植民地時代にエリートだった特定の人たちに偏りがちだ。たとえばケニアの「建国の父(注:ケニヤッタ)は、特定の民族だけを「ひいき」する国づくりを進めている。



ヨーロッパ諸国が特定の民族だけ「ひいき」するのにも「裏」があるんでしょうね。

―その通り。
 例えばその場所が地理的に重要なポイントだったり、そこに大量の地下資源が眠っていたりといった具合に。

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「アフリカの資源の賦存状況」アフリカの鉱物資源の重要性と我が国の取組み(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/africa/pdfs/sm_kanmin_1_6.pdf)



じゃあ、独立したてのアフリカの国々はそういう地下資源を売れば、もうけることができるんじゃないですかね?

―うーん、そこがなかなか難しい。
 ヨーロッパ諸国があの手この手を使って、地下資源を自分の手にとどめようとしたからだ。
 とくにベルギーから独立したコンゴフランスから独立したアルジェリアでは、とくに悲惨な戦争が起きているよ。


 のちにポルトガルから独立したアンゴラモザンビークも、国内の資源を目当てに、さまざまな国がいろんなグループに武器を援助したことで、ぐちゃぐちゃな状況になってしまったんだ。

モザンビークの独立戦争のバックにも、ソ連とアメリカがいた。


 戦争だけでなく、他の方法でも確保しようとしている。



どんな方法ですか?

―例えば、「援助」をした見返りに、地下資源をもらうといった形をとった。
 ヨーロッパ諸国にとっては、「なんのために」援助するかということは大切じゃない。「どのくらい資源を得るか」ということがアタマにある。だから、現地の人のことを考えない援助ばかりがおこなわれ、援助物資が支配者によって「横取り」されることも起こった。



それじゃあ意味ないですね…。

―それに、物を売るっていっても、平等な取引(注:フェアトレード)ではない。アフリカ側が販売価格を自分で決められるわけではない。
 価格を決めるのは、あくまでヨーロッパやアメリカの諸国だった。

 そこで、当然こんな主張も出てきた。


「世界経済という「ゲームのルール」は,地球の北側(欧米)がつくったものだ。このゲームは,最後には北側が有利となるようなルールになっている。だから,いくらがんばっても南側(アジア,アフリカ,ラテンアメリカ諸国)は豊かになれないのだ」


なるほど。それじゃあ、いつまで経ってもアフリカは貧しいままじゃないですか。

―先進国にとっては貧しいままにしておいたほうが、都合が良いわけだ。
 でも、治安は安定していたほうが安定して資源が得られるから、それを締め付けるだけの強力な独裁者も現れやすい。

 ソ連とアメリカも「子分」をつくろうと必死だ。エチオピアでは長らく続いた皇帝(注:ハイレ・セラシエ)が倒されて、社会主義の国づくりが始まった。


 インド洋に突き出し、地中海に通じる海に面したソマリアでも、有力者どうしの内輪もめにさまざまな国が介入して複雑な状況となっている。

 アメリカなどの支援を受けたウガンダの独裁者(注:アミン)は10年弱で失脚するけど、10年、20年も連続して大統領の座にとどまり続けるような人物すら現れた。は10年弱で失脚するけど、10年、20年も連続して大統領の座にとどまけるような人物すら現れた。
 例えばリビアでは、独自の社会主義を掲げて石油資源を武器に長期間にわたって独裁をおこなう指導者(注:カダフィ)が現れている。


でも、それはひとえにアフリカの人たちの責任というわけではなさそうですね。
―そうだね。アフリカは,植民地時代のモノカルチャー制度が残り,環境が破壊され,産業も未発達のまま。
 さらにさかのぼれば,大西洋の奴隷貿易によって,労働力がアメリカ大陸やヨーロッパに奪われたことも,傷跡として残っていると考えられる。
 こうした「不公平な力関係」をなおために、国際連合も動き出しているけど、根本的な解決には至っていない。

イギリスによって「自治」が認められていた南アフリカはどんな感じになっていますか?
―少数の白人が、大多数の先住民を支配する差別的な制度」が依然として続けられている
 「ピラミッドの底辺」に置かれた黒人は、住むところや働くところすら白人とは別の地域に隔離されていたんだ。 

 南アフリカの北の地域(注:ローデシア)でも、白人の指導者たちが土地や鉱山を守るために白人中心の国をキープしている。




◆1953年~1979年のヨーロッパ

◯東ヨーロッパの「ソ連離れ」にソ連が軍事介入

東ヨーロッパの「自由行動」を求める動きに対し、ソ連は軍事介入でこたえた。


―ヨーロッパにも、ソ連の指導者(注:スターリン)が亡くなったことの余波が出ているよ。

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亡くなったってことは、ソ連の「子分」だった国では「お悔やみ」ムードになったんじゃないですか?

―たしかに彼の死は多くの国にショックを与えた。
 だけど死後数年経って、彼の生前の「悪事」が明るみになるや、形勢は一変する。



自分のことを「神様」レベルの存在としてあがめさせ、敵対する人たちを追放・処刑していたんですよね。

―そう。恐怖によって押さえつける体制(注:スターリニズム)をとったんだ。
 対抗する資本主義をつぶすためだという“正義”はあったわけだけど、どう考えても独裁者による暴走だ。

 これに関する秘密報告(注:スターリン批判)が徐々に明るみになると、今まで「子分」としてソ連の理想に従っていた国々からもさすがに不満が噴出した。

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 「「純粋」に「夢の国」をつくりたいと思って従っていたのに、なんてひどいことをしていたんだ!」とか、「「しっかりした人」だと思っていたのに裏切られた!」とかね。
 ソ連の近くにあっても、もともと言うことを聞いていなかった国もあったわけだけど、多くの「子分」の国では政党は共産党しか認められず、いろんな面で我慢を強いられていた。

 ポーランドハンガリーでは暴動が起きるし、中国や東ヨーロッパのアルバニアルーマニアも「これからは自分たちのやり方で「夢の国」をつくっていくからな」と決別することになった。



ソ連vsアメリカの対立っていう単純な構図ではなくなるわけですね。

―となると、この時期に対立がエスカレートしていたソ連とアメリカは、「いったん頭を冷やそう」という歩み寄りをみせることになった。この「クールダウン」のことを「雪どけ」というよ。
 この時期にオーストリアは中立国として独立している。



「雪どけ」はしばらく続いたんですか?

―根本的な決着がつかないまま、数年で終わってしまったんだ。
 きっかけは「親分」であるアメリカとソ連との対立の再燃だ。

 この時期になると、ソ連グループについた国々の中には「アメリカグループにつけばよかった…」と感じる人も出てくる。生活の自由度や豊かさに差が出はじめていたからね。

 ドイツのベルリンも東西グループに分かれていたけど、この時期には東から西に逃げる人を防ぐための壁までつくられた(注:ベルリンの壁)。


 さらにソ連の「子分」国家チェコスロバキアでも、自由を求める大規模な運動が起きたけど、ソ連は軍事力をつかって鎮圧しているよ(注:プラハの春)。



よその国なのに軍隊が出せるんですね。

―ソ連グループの結束を乱す行動には、国を超えて制裁をくだすことができるという方針をとっていたんだ。強気だけど、焦りがあるね(注:ブレジネフ・ドクトリン)。


◯ヨーロッパの「団結」をめざす動きが生まれる

この時期には東ヨーロッパと西ヨーロッパの「和解ムード」も生まれた。西ヨーロッパの中には、アメリカ・グループとは別の「ヨーロッパ・グループ」をつくろうとする動きも生まれる。



なんだか状況がどんどん悪化していますね。

―さすがにマズいと感じたヨーロッパ諸国の中には、「アメリカとソ連の事情でヨーロッパが混乱するのは避けたい。ヨーロッパの秩序を守る努力としくみづくりが必要だ」と考える指導者も現れてくる。

 たとえば、西ドイツの首相は東側のドイツをはじめとするソ連グループの国々と話し合う外交(注:東方外交)を続け、グループに関係なくヨーロッパの平和を守るための組織(注:CSCE)もつくられた。


 西アジアの国際関係が悪化し、石油の値段がものすごく上がってしまったこともあって、ヨーロッパの国々の中からは「アメリカやソ連とは別個のグループ」としてまとまろうという動きも加速した。


ヨーロッパの「アメリカ離れ」ですね。


ーそうだね。
 ちなみにこの時期に働き手として、ヨーロッパの外から多くの移民が導入された。
 たとえば、西側のドイツにはトルコから(注:ガストアルバイター)、フランスには元・植民地のカリブ海やアルジェリアの人々、イギリスには世界中の元・植民地の人々がなだれこんでいったんだ。

 これが次の時代になると、「ヨーロッパはイスラム教徒とどうやって付き合っていけばいいのか」という大きな問題に発展していくんだ。


◯ついにイギリスが「ヨーロッパ」にエントリー

長年ヨーロッパと距離を置いていたイギリスが、ついに「ヨーロッパ・グループ」に加入。世界中の植民地を失い、国力が低下したことが背景にある。


 現在のEU(ヨーロッパ連合)のもとになる組織に、この時期には植民地やエジプトの物流拠点を失いさすがに一カ国ではやっていけなくなったイギリスが加盟しているよ(注:イギリスのEC加盟)。

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イギリスもついに「一匹狼」をやめるんですね

―さすがにもう限界だったわけだ。
 イギリスが輝いているのは、「若い世代」の支持を受けたロックバンドの四人組(注:ビートルズ)くらい。

 国内ではいろんな改革もおこなわれるけど、そもそも国民の福祉のためにお金を使いすぎだという議論も高まっていった(注:イギリス病)。


 福祉といえば北ヨーロッパの国々(スウェーデンやフィンランドやノルウェー)は世界最高レベルの「福祉の国づくり」を実現させようとした。だけれど、石油の値段の高騰もあって、この時期にはほころびが見え始めている。


 ちなみにイギリスがヨーロッパチームへ足を踏み入れるのに反対した国があるけどわかるかな?


◯「自由行動」をとるフランス

ヨーロッパの中でも、この時期のフランスは自由行動派。個性的な大統領が独自路線を突き進んでいった。


いままでの歴史を考えると…フランスですか?

―その通り。筋金入りのライバルだ。
 植民地の矢継ぎ早の独立で揺れていたフランスでは、憲法そのものを変えその問題を一挙に解決した軍人上がりの強力な大統領(注:ド・ゴール)が人気を博した。
 まず植民地独立戦争(注:アルジェリア独立戦争)を独立を認める形で終結させた。

 さらに原爆を持ったりアメリカを中心とする軍事同盟(注:NATO)から離脱したりと、イギリスにもアメリカにもハッキリとモノを言える指導者として、存在感を発揮したんだ。

 でもそのフランスでも「若い世代」の運動が高まり(注:5月革命)、大統領は失脚。その後は石油価格の爆上げによる影響に悩まされる(注:石油危機)こととなる。


◯スペインやポルトガルでは独裁者が引退

「大航海時代」の栄光はどこへやら。スペインとポルトガルでは長期独裁が終わり、ついに世界各地に残された植民地を失うことに。



ところで、昔活躍したスペインやポルトガルはどんな状態になっていますか?
独裁者(注:スペインのフランコ、ポルトガルのサラザール)がずーっと支配していて、もはや「大航海時代」のおもかげもなく、経済の停滞に悩まされていた。


 この時期にはようやく両国ともに独裁者が去りスペインでは王様が復活しているよ。両国の植民地だった地域は、この時代にほとんどが独立しているけれど、その後も正常不安定や内戦が続くところが多かった。


以上で1953年~1979年の世界史のまとめは終わりです。
次はいよいよ26ピース目の「輪切り」、1979年~現在に至る世界をまとめていきましょう。





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