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6.3.4 モンゴル帝国の解体 世界史の教科書を最初から最後まで

14世紀は14世紀の危機と呼ばれるほど、ユーラシア大陸各地が大混乱におちいった時代だった。


天災や、飢え、疫病の流行などを背景に、モンゴルの支配した各地では「支配権争い」が頻発。


サマルカンドのトルコ系勢力が拡大する!

タリム盆地からアム川上流を支配したチャガタイ=ハン国は東西の王家に分裂。

このうち、東西ルートの重要ポイントにあったサマルカンド

を中心とする西チャガタイ=ハン国側のトルコ系武将ティムールが 、1370年に独自のハンを立て、国家(ティムール帝国)を建てた。

父方の祖先がチンギス=ハンであれば「ハン」を名乗ることができたものの、チンギス=ハンが祖先なのは彼の母方であったため、みずから「ハン」と名乗ることができなかったのだが、実質的には彼みずからが君主として君臨した。



ティムールの帝国については、後ほど 7.3.1 で詳しく見ていこう。


ロシアではロシア人の勢力がアップ!

南ロシアのキプチャク=ハン国でも、14世紀半ば頃から仲間割れが起きる。

そんな中、モスクワ周辺を支配したロシア人の有力者がまわりのロシア人の諸国をおさえ、モンゴル人から自立する勢いを見せていく。

彼らは1480年に「モスクワ大公国」として、キプチャク=ハン国の支配を脱するようになるよ。


このモスクワ大公国が、その後の「ロシア帝国」のルーツとなる。
ロシアはモンゴル人の支配を脱して建国されたんだね。



元は宗教グループの大反乱で滅亡!

元の支配していた中国でも、やはり元の統治は「お金の使い過ぎ」と「仲間割れ」で揺らいだ。

紙幣の擦りすぎによる物価上昇や、専売制度による負担増加、さらには飢えの発生により民衆は苦しみ、1351年からは宗教グループの指導した大反乱、紅巾(こうきん;ホンジン)の乱が勃発。



元はこれを止めることはできず、1366年に反乱軍に大都をうばわれ、モンゴル人はモンゴル高原に撤退。

1368年に、反乱軍のリーダー 朱元璋(ヂューユェンヂァン;しゅげんしょう)が、漢人による新たな王朝「」(ミン)を建て、モンゴル人による中国支配は幕を閉じた。



一方のモンゴル人はモンゴル高原に撤退した後も、ハーン(大ハーン)を中心にその勢力を維持することになる。
彼らの国家を、中国側からは「北元」(ベイユェン;ほくげん)と呼ぶ。


こうして、ロシアでも中央アジアでもイラン高原でも中国でも、1400年〜1500年頃(いまから500〜600年ほど前)までにはモンゴル帝国による支配は崩壊。

しかし「ハン」を君主として商業を振興しながら農耕エリアも支配する彼らの方式は、その後のユーラシア大陸各地に色濃く受け継がれていくことになる。

特に、モンゴル帝国以降は、ユーラシア大陸東西を結ぶ「陸のルート」だけでなく「海のルート」もさらに活性化。


大交易時代」と呼ばれる一大貿易ブームがスタートすることとなるよ。


)最近では、モンゴル帝国によりユーラシア大陸東西の交易がさかんになる時代を「第1次大交易時代」、1400〜1650年頃の貿易の再活性化を「第2次大交易時代」と呼ぶことが増えている。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊