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史料でよむ世界史 6.2.4 宋代の社会と経済 世界史の教科書を最初から最後まで


宋は、これまでの中国の王朝(漢や隋や唐)と違って、タリム盆地方面の領土を持っていなかった。そこで貿易の重心は「海ルート」に移り、長江下流部から南の港町が急速に発達した。インドや東南アジア、それにさらに西からはイスラーム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒の商人もさかんに来航し、さまざまな文物が流れ込んだ。


ジャンク船という帆船が大型化していったのも、宋代のことだ。
遠洋航海のために、方位を知るためのコンパス(羅針盤(らしんばん))が発達。

火薬の実用化技術とともに、インド洋をわたってイスラーム世界に伝わり、やがてヨーロッパにまで伝わることになるよ。なお、羅針盤と火薬、活字の印刷は、あわせて「中国三大発明」ということがある。


宋代には沿岸の港町がたいへんに繁盛し、外国からの商人も多数来航した。その様子をうかがえる史料を読んでみよう。


● 岳珂(がくか)『桯史』(ていし)番禺海獠(ばんぐうかいりょう)

番禺〔現在の広東省広州の地名〕には海獠〔外国商人のこと〕の雑居する有り。
其の最も豪なる者は蒲(ほ)姓なり。

もっとも符号であったものは「蒲」(ほ)という姓を持っていた。
「蒲」というのは、「アブー」というアラブ人の姓の漢字表記で、南宋から元の時代に活躍した蒲寿庚(ほじゅこう)という富豪が有名だ。

(中略)獠、性は鬼を尚(たっと)びて潔を好む。平居〔ふだん、日常〕、終日相与(あいとも)に膜拝〔ほはい。ひざまずき上体を地に伏せて両手を額にあてて拝する礼〕して福を祈る。


この拝み方、一体何のことを表現しているかわかるだろうか?







そう。

イスラーム教の礼拝だ。
宋代の中国人は、すでに広州のモスクでアラブ人たちが礼拝する様子を目撃していたのだ。

「焉に堂有り、以て名を祀ること中国の仏の如し、而れども実は像の設くる無し。」

「像の設くる無し」。これもイスラーム教の特徴だね。


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宋が金(きん)の攻撃を受けて南に首都をうつすと、長江下流域(江南(こうなん))の開発がすすんだ。

大土地を所有していたのは形勢戸(けいせいこ)と呼ばれた新興地主層だ。この時代の官僚が、一部の地主層に土地の集まる状況を懸念し、規制を提案した文書の中に、「形勢」(形勢戸)という言葉が現れる。ちょっと読んでみよう。


● 乾興元年12月の臣僚の上言(1022年)

「開国以来、天下が平和を保つこと六十余年に至っておりますが、民間には蓄えがなく穀物倉の備蓄も十分でなく、少しでも凶作になるとたちまち流民が発生します。その理由は、徭役(ようえき)の割り当てが平等でなく、また形勢・豪強の収奪を受けるからです。(中略)

(徭役の負担が非常に大変なので)… 人々は恐れをいだき、現に持っているわずかの田産を形勢の家に典売(★1)して徭役を避け、流浪したりぶらぶらと過ごすに至ります。さらに諸々の悪賢い者たちが、〔逃亡した農民の〕戸を詐称して、田産がやや多い者たちは〔勢力家の〕佃戸(でんこ)の名を騙ります。もしこのような悪事を禁止しなければ、天下の田土の半ばは形勢に占拠されてしまうでしょう。(後略)」

★1 典とは、買戻し条件付きの売却を言う。売とは、典と対比して原価買い戻しのできない売り切りの売却を指すこともあるが、典の場合とあわせて「売」という場合もある。

(出典:『世界史史料4』岩波書店、2010年、22-23頁)


「形勢戸」は、奴隷や小作人として働く佃戸(でんこ)を労働力として働かせ、各地で大土地を経営した(佃戸は特定の階層を表す言葉ではないことに注意)。


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では、こうした貧富の差を当時の人々はどう見ていたのだろうか。

南宋の時代に活躍した葉適という学者による意見を、注釈を交えながら読んでみよう。


● 葉適(しょうてき)『水心別集』巻2、民事下(13世紀初)

今の民を愛すという者、臣其の説を知れり。

最近「人々のためを思っている」という人々は、しばしば次のような説を展開する。

俗吏(ぞくり)は近事を見、儒者は遠謀を好む。

故に小なる者は兼併の家〔大土地所有者〕を抑奪して以て細民を寛(ゆた)かならしめんと欲し、

一方には「大土地所有者の土地を奪い、貧しい人を助けるべきだ」という考え方がある。

大なる者は則ち古えの井田の制を復し〔復活し〕其の民をして皆な其の利を得しめんと欲す。

他方で、古代の「井田の制」という土地を平等に分配する制度を復活させようとする儒家のような人々がいる。

......夫れ二説は、その論通ずべしと雖(いえど)も皆な当世に益あるに非ず、治を為すの道は終(つい)に此(ここ)に在らず。

これら2つは現実的ではない。
葉適はむしろ「大土地所有者」のおかげで国の税収は潤い、地方の人々の生活も成り立たせることができるのだと主張したのだ。

(出典:『世界史史料4』岩波書店、2010年、22-23頁)


貧しい人々を救うためにはどうすればいいかという議論は、いつの時代にも普遍的な論争を巻きおこすものなのだ。


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またこの時期には、泥や水でグチャグチャだった長江下流域の氾濫原の多くが、大規模な干拓(かんたく)によって囲田(いでん)や圩田(うでん)と呼ばれる耕地に変えられていった。

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圩田というのは、低湿地に堤防をつくって、水を外の水路に排出してつくる田んぼのこと。別名を囲田という。官による大規模なものもあれば、民間による小規模なものもあった。


なお、長江下流域のことを「江南」ということも覚えておこう。現在の、江蘇(こうそ)、浙江(せっこう)、安徽(あんき)といった地域だ。

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ベトナムのチャンパーから伝わった、長雨には弱いがひでりに強い早稲種のチャンパー米(占城稲(せんじょうとう))が導入され、収穫も安定化する。1012年に、皇帝の真宗の命令で江南地方で栽培されるようになった。



収穫量が増えれば、陶磁器・茶・絹などの特産品を集中的に生産する商工業者も現れる。無意味な競争をおさえるため、同業者どうしの組合もつくられた。
商人の組合は(こう)、手工業者の組合は(さく)と呼ばれる。


多種多様な商品は、陸路や水路でさまざまな地域に運ばれた。
特に、長江から黄河につながる大運河には、多数の船が行き交った。

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北宋は、その首都を黄河と大運河の交わる開封(かいほう)に置いた。五代の後梁が都に置いたのがはじまりだ。ここに物資を集めることで、北方の民族たちとの戦いや平和な交易に備えたのだ。


孟元老『東京夢華録』(1147年)

「夜市〔飲食などの露店〕......馬行〔街〕を北に去けば、旧封丘門外の祆廟〔ゾロアスター教の寺院〕斜街に州北瓦子あり。新封丘門大街の両辺は民戸の舗席の外、餘の坊巷に院落(やしき)が縦横万数にして紀極〔終極〕を知らず。処処門を擁し、各々茶坊、酒店、勾肆〔芝居小屋〕、飲食有り。市井の経紀〔商売人〕の家は、往往只市店で飲食を旋買し、家に蔬を置かず〔家で料理しない〕。」

瓦子(がし)というのは、演劇、歌、手品、酒場、屋台などの密集する庶民の娯楽場のこと。瓦舎ともいう。
唐の時代の都市では夜間営業が禁止されていたのに対し、宋代の都市では夜間営業も許可された。
ここには勾欄(こうらん)という常設の劇場や、平話を披露する寄席、妓楼などもあった。あらゆる庶民文化がここから生まれていったのだ。

この『東京夢華録』は、北宋が滅亡して、江南に逃げた孟元老が、かつての開封の繁栄をしのんで記した記録だ。


宋の時代の都市は、首都の開封に代表されるように、軍事的・政治的な目的でつくられたというよりは、商工業がさかんになって建てられたところが多い。
唐の時代の都市といえば城壁の中に “建設される” のが普通だったけれど、宋の時代の都市(草市(そうし)・(ちん))は城壁の外や、人通りの多い地点に自然発生的に“ 発生する” ことが増えていった。

お金による取引が増加すると、これまで使われていた銅銭(どうせん)だけでは足りなくなり、金・銀を地金(じがね)で使用されていた。

そうすると交子(こうし)・会子(かいし)といった紙幣として使われるようになった。これは世界最古級の紙幣だよ。

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