11.2.7 ドイツ帝国の成立とビスマルク外交 世界史の教科書を最初から最後まで
1871年1月、プロイセン王国のヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝としては在位1871〜1888年)は、敵国フランスのヴェルサイユにのりこみ、ドイツ帝国(1871〜1918年)が成立した。
宰相(ビスマルク)に、陸軍大臣、参謀総長、それにヴィルヘルム1世で成し遂げた電撃的統一だった。
領土は現在のドイツから、ぶわ〜っと東(地図上では右)のほうに領土が広がっているのがポイントだ。
プロイセン王国の発祥の地や、ポーランド分割で獲得したエリア(現・ポーランド)、かつてオーストリア継承戦争・七年戦争で獲得したシュレジエン(現・ポーランド)を含んでいるからね。
帝国はドイツの諸邦で構成される連邦の国家で、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねる形だった。
あくまで、プロイセン王国中心でトップダウンの政治を貫く姿勢が見えるよね。
こうして、ビスマルクは宰相(在任1871〜90年)として20年間近く、なかば独裁的な権力をふるうことになった。
たとえば南ドイツで有力なローマ=カトリック教徒を警戒した彼は、「文化闘争」という名目で彼らを弾圧する。
また、ビスマルクの政策において見逃せないのは、蒸気機関を導入した工業化(産業化)だ。
産業化にはプラス面もあれば、マイナス面もある。
労働者の人口が増えるため、自分たちの生活をよくしようとする労働者の運動も起きやすいのだ。
ドイツの社会主義運動は、1860年のラサール(1825〜64年)にはじまり、ベーベル(1840〜1913年)に受け継がれる。
ベーベルは、マルクスの影響を強く受けた理論化で、1875年にはラサールのグループと合同し、「社会主義労働者党」を結成した。
これが現在のドイツの社会民主党だ(1890年に名称が社会民主党に変わった)。
こうした活動に対し、ビスマルクは1878年に皇帝狙撃事件が起きると、「社会主義者を弾圧するチャンス」と見て社会主義者鎮圧法を制定。社会主義の政党を弾圧した。
しかし、弾圧しているばかりでは不満もでるので、不満の“ガス抜き”も必要だ。
そこで、労働者が仕事中の事故で怪我をしたときに、みんなから集めたお金を元手に給付する制度(災害保険)や、病気になってしまったときに同じくみんなから集めたお金を元手に医療費を給付する制度(疾病(しっぺい)保険)、さらに仕事から引退した後の生活費をみんなから集めたお金を元手に給付する制度(養老保険)を整備。
今では世界的に広がっている国家の運営する保険の制度を、史上初めて国が整えたのだ。
こういった“ムチ”(マイナスのこと)だけではなく“アメ”(プラスのこと)も用意する“アメとムチ”の政策が功を奏し、労働者たちの反抗をおさえようとしたんだね。
また、機械工業化の邪魔にならないよう、外国製品には高い関税(かんぜい)をかけた。
これを保護関税政策という。
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ビスマルクがとくに手腕を発揮したのが、外交分野だ。
もっとも重視したことは、普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)で負けたフランス(その後、1875年に憲法が定まりフランス第三共和制となっている)が “リベンジ”をかけて、ドイツに対して戦争を起こさないようにすること。
しかし、1853〜56年のクリミア戦争のように、ロシア 対 イギリス・フランスの対決構図ができてしまうと、間に置かれたドイツとしてはとっても都合がわるい。
悪くすると、かつての三十年戦争(1618〜1848年)のように国土が戦場になってしまうかもしれないよね。
そこで、仮想敵国(戦争が起きる前から「敵国」と設定しておく国)はフランスに設定した上で、ドイツの一刻も早い工業化のため、「ヨーロッパの平和を、大国同士のバランスによって守る」という基本原則(列強体制)の立て直しを図ったのだ。
まず1873年、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国は三帝同盟を結成。
どれも皇帝の国だから「三帝」だ。
しかし、ビスマルクにとっての悩みの種は、ロシアの“単独行動”だ。
スラヴ人の国であるロシアは、当時バルカン半島にいるスラヴ人たちの“まとめ役”を演じることで勢力拡大をはかろうとしたのだ。
当時のバルカン半島はオスマン帝国の支配下。
しかし、当時のオスマン帝国はヨーロッパ諸国の経済的な支配を受け、支配がぐらぐらだった。
なんとかしようとしてオスマン帝国が取り入れたのは、ヨーロッパ流の「国民がガッチリまとまっている国」。
その影響を受けバルカン半島でも「自分たちスラヴ人の国をつくろう」という運動が盛り上がるようになっていた。
バルカン半島のスラヴ系の人々が団結して、オスマン帝国からの独立をめざす運動のことをパン=スラヴ主義というよ。
こうした動きをオーストリア=ハンガリー帝国は警戒。
支配層がゲルマン系のドイツ人であったオーストリア=ハンガリー帝国は、チェコ人・クロアチア人・スロヴェニア人など、領域内にスラヴ系の民族を抱えているわけで、ロシアが「スラヴ人よ、まとまれ!」なーんて言ったら、国が崩壊しちゃう恐れすらある。
そんな中1875年に、オスマン帝国の領域内にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナというところで、農民反乱が発生。
翌年、1876年にはブルガリアでも独立を求める蜂起が起きる。
これを受け、ロシアは蜂起の指導者との協議を求めたのだが、オスマン帝国の政府は武力で蜂起を弾圧した。
これを受け、ロシアは「スラヴ人たちを守る必要がある!」と1877年にオスマン帝国に対して開戦した。
これをロシア=トルコ戦争(露土(ろと)戦争)という。
翌年1878年、イスタンブル郊外まで迫ったロシアは、サン=ステファノというところでオスマン帝国と講和(サン=ステファノ条約)。
ロシアは勝利し、ブルガリアをロシアのコントロール下(保護下)に置くことを認めさせた。
これにツッコミを入れたのが、オーストリア=ハンガリー帝国とイギリスだ。
ビスマルクはこれら大国を1878年にベルリンに招き、会議(ベルリン会議)を招集、これら大国の利害を調整することに成功した。
その結果、ロシアがオスマン帝国と結んだサン=ステファノ条約は破棄され、あらたに結ばれたベルリン条約で、ロシアの拡大はブロックされることになる。
ベルリン条約の内容は具体的には以下のとおり。
・黒海沿岸のルーマニアはオスマン帝国から独立する。首都はブカレスト。
・ドナウ川流域のセルビアはオスマン帝国から独立する。首都はベオグラード。
・地中海沿岸の小国モンテネグロはオスマン帝国から独立する。
・ロシアの保護下に置かれていたブルガリアは、オスマン帝国の領域に戻した上で、「自治国」とする(当時のブルガリアの南部にあった「東ルメリア」という地域は1885年以降、ブルガリアが併合している)。
これらの条項によって、ロシア帝国の影響力を極力なくそうとしたんだね。
また、東地中海に浮かぶキプロス島はイギリスの領土となった。イギリスのインド・ルートを保障するためだ。
さらに重要なのは、オーストリアには、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領することと行政権が認められたこと。
スラヴ人系の住民の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナが、ドイツ系のオーストリアに占領されたことは、のちのちとんでもない事件(第一次世界大戦の開戦理由)を巻き起こすことになるよ。
まあひとまずこうしてビスマルクによって、なんとか「ヨーロッパ大戦」を防ぐことには成功したわけだ。
バルカン半島への南下に失敗したロシアは「バルカン半島がだめなら中央アジア、東アジアに進出しよう」と考えるようになり、バルカン半島をめぐる対立はやわらいだ。
1881年には、ロシア、ドイツ、オーストリアの間にもう一度三帝同盟(新三帝同盟)が成立している。
なお、ビスマルクはアルプス山脈の南で、1861年にオーストリア帝国を破って新しく成立したイタリア王国にも注目。
1881年に、イタリア半島にほど近いチュニジアがフランスによって保護国化されると、ビスマルクは不満をもつイタリアを誘った。
こうして成立したのが、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの間の三国同盟だ。
第一次世界大戦の片方のグループとして知っている人も多いんじゃないかな。
でも、なにもかもうまく行くわけじゃない。
オーストリア=ハンガリーとロシアの対立が激化し、1887年にドイツ、オーストリア、ロシアの結んでいた三帝同盟が消滅してしまったのだ。
「これはまずい」とビスマルクはロシアとの間にその名も「再保障条約」を締結。
ロシアとの間の安全保障を再確認した。
ビスマルクにとって、ドイツの平和はなんとしてでもフランスとロシアが同盟を結ぶのを防ぐことによって果たされるものだった。
もしフランスとロシアが同盟を締結したら、ドイツは“挟み撃ち”になってしまうからね。
このようなビスマルクによる一連の「同盟の網をはりめぐらせた体制」ことを「ビスマルク体制」というよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊