見出し画像

5.1.2 ゲルマン人の大移動 世界史の教科書を最初から最後まで


アルプス山脈よりも北のヨーロッパには、前6世紀頃(今から2600年ほど前)からケルト人と総称される人々が広く住みついていた。



しかし、バルト海沿岸を現住地とするゲルマンが西に移動を開始すると、ケルト人は次第に西のほうへとおいつめられていった。


この「ゲルマン人」は「ひとつのまとまった民族」を指すものではなく、その中には、言語的に「ゲルマン語派」というグループに属するさまざまなグループが、互いに分かれて暮らしていたようだ。

紀元前後(今から2000年ほど前)には、ライン川から黒海沿岸にいたるまでの広いエリアに広がり、ついにはローマ帝国と境を接するまでとなる。


フランスの国民的アニメ『アステリックス』には、カエサルと戦ったガリア人英雄ウェルキンゲトリクスをモデルとする主人公が登場する。(ガリア人とフランス人を結びつける言説の変遷については、クシシトフ・ポミアン「フランク人とガリア人」、ピエール・ノラ『記憶の場』所収、岩波書店、2002年を参照)

その頃のゲルマン民族の様子がわかるのは、当時のローマ人の記録のおかげ。
カエサルの『ガリア戦記』やタキトゥスの『ゲルマニア』がその代表例だ。

それらによるとゲルマン民族は数十のグループにわかれており、各部族は一人の王や数人のリーダー(首長)のもとで束ねられていたという。
人々には貴族・平民・奴隷の身分差がすでにあった。
大切なことを決めるときには民会という会議がひらかれた。参加メンバーは奴隷ではない成年の自由人(貴族と平民)だった。



なお、彼らの信仰していた宗教は、おそらく北欧神話に近い神々を信仰する多神教だ。
のちのちゲルマン人はキリスト教に改宗するけれど、Wednesdayの語源が北欧神話の主神オーディン(Woden)、

画像2

木曜日(Thursday)の語源がソーであるように、神話の神々は今でもにヨーロッパの文化の様々なところに染み付いているんだよ。


やがて家畜の飼育や狩猟よりも農業のほうが生活の基盤になると、人口が増加。土地の不足が問題となった。
そのためローマ帝国との境を平和的に超え、ローマにつかえる下っ端の役人や、雇われ兵、小作人として働く道を選ぶ者も現れる。

ゲルマン人は体格がよく戦いにもすぐれていたので、ローマ帝国にとってもゲルマン人の兵隊は重宝されたのだ。

マーベル映画の『マイティー・ソー』は典型的なゲルマン民族の特徴を持つ


***


一方、ゲルマン人の小さなグループも、軍の指導者である王の下で大きなグループへと発展。

ブルグンド、フランク、ヴァンダル、ゴート(東ゴート、西ゴート)、アングル、サクソン、ジュート、ランゴバルドなど、有力なな大部族がドナウ川とライン川の向こうで成長し、しだいにローマ帝国の国境付近を脅かす存在となっていった。



まずフン人が東ゴート人を従えた

そんな中、4世紀後半(1700年ほど前)には、中央アジアから移動してきた騎馬遊牧民のフン人が、黒海の北岸にそそぐドン川という川を西に越え、さらに西へと移動。巻き込まれたゲルマン人の一派の東ゴート人を征服した。


フン人+東ゴート人が西ゴート人を従え、ローマ帝国領内に侵入

フン人は東ゴート人を巻き込み、さらにドナウ川の北部にいた西ゴート人を征服する。

フン人の支配の下で東ゴート人、西ゴート人などは大量の“難民”となってローマ帝国国境に迫った。

これに対してローマ皇帝は適切な対応をとることができず、376年に“難民”の波はドナウ川をわたり、ローマ帝国の領内に大挙して押し寄せることに。


ローマ帝国が「東西に分裂」

この事態に、ローマ帝国はもはや広大な帝国を「ひとつのまとまり」として支配することはできなくなっていった。

395年にテオドシウス帝は帝国を東西の2エリアに分割し、2人の息子に分け与えることを決定。
これが世に言う「ローマ帝国の東西分裂」だ。
”ローマ帝国が分裂した”というよりは、”広すぎるローマを2人の皇帝で担当するようにした”といったほうが正確かな。



西ゴート人がガリア、イベリア半島に移動

西ゴート人は410年にローマを略奪、418年にはガリア(現在のフランス)西部からイベリア半島にかけてのエリアに移動した。



ローマ皇帝には、彼らを新たな侵入に対する「軍事力」として利用しようという考えもあり、領内への移住と定住を承認。
これによりローマ帝国領内における、ゲルマン民族諸グループの建国が加速した。


ヴァンダル人は北アフリカで建国

「チャンスだ」とばかりにほかのゲルマン人の諸グループもローマ帝国内部への移動を開始。
ヴァンダル人は北アフリカの現在のチュニジアでヴァンダル王国(429〜534年)建国。


ブルグンド人はガリア東南部で建国


ブルグンド人はバルト海沿岸から移動し、アルプス山脈の西(ガリア東南部)でブルグンド王国(443〜534年)を建国した。

534年にフランスに併合されてしまうけれど、地方名としてのブルゴーニュ(ブルグンドのフランス語読み)は、その後も残り続けるよ。


フン人はハンガリーで建国する

一方、ヨーロッパに侵入したフン人は、5世紀前半(今から1600年ほど前)にアッティラ王を中心に現在のハンガリーのあるパンノニア平原に帝国を建てた。
騎馬遊牧民にとって、草原の広がるハンガリーの平原は、馬に餌を与えるにももってこいの場所。

しかしそれに飽きたらないアッティラ王は、さらに西方の征服を目指す。
そして迎えた451年、カタラウヌムの戦いが勃発。


***


単独で応戦することができなかった西ローマ帝国は、ゲルマン人の国家の助けを借り、西ゴート王国(418〜711年)などと連合、アッティラ大王を破ることに成功した。

この後、アッティラはローマを攻撃しようとするも、ローマのキリスト教会のリーダー(ローマ教皇レオ1世)の説得により退散したという「伝説」が、後代に広まった。

画像6

ともあれアッティラの帝国は崩壊。フン人の一部はハンガリーの平原に定住したと見られる。


ゲルマン人の傭兵隊長がローマ皇帝をやめさせた

フン人とゲルマン人の侵入に苦しんだ西側のローマ帝国(西ローマ帝国)は、軍事力をますますゲルマン人に依存するようになっていく。

軍事力を傭兵(ようへい)に任せるってのは、まずいパターンだね。

結局476年に西ローマ帝国の皇帝は、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって退位されてしまった。


画像7


オドアケルは西ローマ帝国の皇帝を引き継ぐことはなかったけれど、みずから国王としてイタリア周辺を支配しようとする。


東ゴート人がオドアケルの国を滅ぼし、建国した

しかし、そこに移動してきたのはゲルマン人の一派 東ゴート人テオドリック大王

画像8


彼はオドアケルの王国を倒し、イタリア半島北東部のラヴェンナに都を置き東ゴート王国(493〜555年)を建国した。
ゲルマン人の国家としては比較的”遅咲き“の国だね。



東ゴート王国は東ローマ帝国に滅ぼされた

その後、東ゴート王国は555年に勢力を挽回した東ローマ帝国によって滅ぼされてしまう。



東ローマ帝国は、ランゴバルド人により滅ぼされた

しかし東ローマ帝国は、北イタリアに移動してきたランゴバルド人によって滅ぼされることに。
展開が早いね(笑)


ランゴバルド人は568年にランゴバルド王国(568〜774年)を建国。
ゲルマン人の国家としてはかなり”遅咲き“の国だ。



フランク人はガリアで王国を建国


一方、フランク人はライン川の東部から西部に移動し481年にフランク王国を建国。小麦の栽培に適した豊かな土地をゲットした。


アングル人やサクソン人は、ブリテン島へ

現在のデンマークがあるユトランド半島にいたアングル人やサクソン人は、北海を渡りブリテン島に移動し、9世紀までの間、7つの王国(アングロサクソン七王国(ヘプターキー)、449〜829年)を建てている。


ケルト人は隅っこへ追いやられた

なお、このようなゲルマン人諸グループの大移動により、かつてはヨーロッパに広く分布していたケルト人は辺境の地へと追いやられてしまった。

画像14

青:スコットランド、緑:アイルランド、赤:ウェールズ
この3つは、現在「イギリス」を構成する国々だ。
黒:ブルターニュ地方。現在「フランス」一部となっている。




現在でもケルト人は、スコットランド

アイルランド

ウェールズ

さらにフランスのブルターニュ半島

といったヨーロッパの”西の端っこ“(ケルト辺境)に分布している。多くの国々に支配されながらも、紆余曲折を経て、特色ある文化を受け継いでいる地域だよ。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊