2-3-3. 東南アジア文明の展開 新科目「世界史探究」をよむ
東南アジア史はむずかしい?
東南アジアの歴史を学ぶのは、むずかしい。
それは、東南アジアが、われわれのうちにある、さまざまな常識の通用しない地域であるからだ。
逆に言えば、東南アジアを学ぶには、われわれがあたりまえだと思っている見方、考え方を、いったん揺さぶる必要がある。
いくつか具体的にみていこう。
都市や国家はどんなところにできるのか?
たとえば、これまでわれわれは、世界各地にさまざまなタイプの国家が登場してきたのを見てきた。
国家とは、ひとことでいえば、ある一定の領域に暮らす人々によって構成される階層的な組織で、その支配にはしばしば強制力=暴力がともなう。
古代の国家の多くは、灌漑農耕に基盤を置く都市国家として始まった。
たとえばエジプトでは、ナイル川流域に強大な王権が出現し、巨大なピラミッドが建設された。
灌漑農耕によって高い生産性が実現すると、生産物があまり、分業が発達し、階級が分化する。
ここに国家が誕生する。
そのようなストーリーは、たとえば浜島書店の資料集『世界史詳覧』にみることができる。
国家黎明のストーリーとして、いまだによく引き合いに出されるこの筋書き。
しかし、世界のどの地域においても、国家が出現する条件は同じなのだろうか。
自然環境や生業が異なれば、国家の成立条件も、おのずと異なるのではないだろうか。
都市はどのようなところに立地するのだろうか
たとえば、農耕がはじまると、人は一定の生活圏のなかで暮らすことができるようになる。
焼畑農耕など、農耕のスタイルによっては移動をともなうことはあるが、狩猟採集民にくらべれば、生活圏はずいぶんと狭まった。
それは家畜を追って暮らす遊牧生活にもいえる。
遊牧にともなう移動には季節的なサイクルがあるから、生活圏はいたずらに広大無辺というわけではない。
だが、生活圏が定まり、食料が安定的に手に入るようなれば、人口は増加する。人口が増加すれば、足りない物資も出てくる。
そのぶんは、生活圏の外部から入手せざるを得なくなる。
ここに交易の必要性が生じる。
このあたりについて、中国史の上田信氏の説明をみてみよう。
交易においてやりとりされるモノは、自分たちの生活圏にないものである。
自然環境が異なれば、その地で産出されるモノも変わる。
したがって、モノの交易は、異なる自然環境の境域において、もっとも盛んになると考えられる。
双方の生活圏にとって渇望されるモノが集積する場は、安全とはいえない。
言語も風俗も異なる、異人のあつまる場所である。
交易のつもりが、略奪に発展するおそれだってある。
そのような地にあっては、秩序を維持する支配者が求められ、あるいは秩序をもたらし経済的な覇権をおよぼそうとする支配者が現れ、それが政治権力に結びつくことがある。
かくして歴史学者の妹尾達彦氏の述べるように、「環境の境域に立地する境界都市が、政権の拠点地となる」わけである。
港市国家って何だろう?
異なる環境の接する地帯といえば、陸と海の境目も重要な境域だ。
陸域の産物が、海域からやって来た人々の持ち込む産物と交換される場所には港市が立地し、そこを拠点として国家が成立する。
港町(港市)を中心とした国家を港市国家という。
東南アジアは、古くから港市国家の発達したエリアである。
港市国家には、以下のような機能がある。
航路の治安の維持
港市の商取引の安全の保障
外部から訪れた商人に、水や食糧、船の修理などの便宜を提供
見返りに、税として商品をとりたて、それを別の地域と交易
物を取引する交易のネットワークというのは、現代のように必ずしもハッキリとした「航路」が定まっているわけではない。人と人の結びつきが先にあって、その上を人や物が移動するのだ。安全に航海するためには、船から降りたときの陸上の社会が安定していることが第一条件となる。宿はあるか、倉庫があるか、買い手がいるか、儲けはでるか、それに治安は良いか。
これらを保障してくれるような支配者が東南アジアに現れたのは、紀元後1世紀末のことだった。
ここでいう「首長」というのは、一族、集落のなかの「かしら」のこと。
たとえば東南アジアの山岳地域における、焼畑農耕の導入された集落では、ある特定の先祖の霊が、稲のような栽培植物の霊と交信することができるとしばしば信じられた。焼畑農耕をおこなう人々は、不安定な技術をおぎないう、イネの生育を促すためには、「依代」などを使って精霊を招き集めて、稲の魂を守る必要があると考えていたのだ。
この先祖の霊をよびだす特別な能力をもつと考えられたの人物は、その一族でもっとも古い家の先祖の血統に属し、やがて「首長」として共同体の間の不和を調停し、まとめあげる役割を果たしていくようになった(参考:石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』(世界の歴史13)中央公論社、1998年、53頁)。
こうした首長国は、マレー半島中部で早くから形成が進んだ。
インド方面から中国にむかうには、マレー半島を陸路で通過する必要があったから、この地は国際商業ルートの大動脈となったのである。
ここには、主にインドから来航した商人の居留地がいくつも生まれ、現地の首長・住民との間に、混血の人々を含む社会集団が生まれていった。
首長のなかには、来航した商人の助けを得て、ほかの首長よりも強い支配力を獲得した首長、すなわち国王が生まれ、王国が形成されていくようになる。
王国の習俗が、インド的なものであったことを、唐代の中国の史書が伝えている。記事の一部を見てみよう。
紀元後1世紀にギリシア人によって記された航海書『エリュトゥラー海案内記』には、東南アジアの情報もみえる。
ティーナというのは、シナ、すなわちChina、中国のことだ。
そしてクリュセーはおそらくマレー半島を指す。
東南アジアが、後1世紀の時点で、すでに国際商業の要衝となっていたことを示す、非常に興味深い資料である。
以上見てきたように、国家はかならずしも、陸において農業を基盤にした場合にのみ成立するわけではない。
交易が、国家成立の条件となることもあるのだ。
余談になるが、最近たいへん感服した世界史の参考書として、平尾雅規氏の『面白いほどシリーズ』を挙げておきたい。
平尾氏は、先史時代の項目で、しっかりと【3】農耕に立脚した文明・国家の形成と、【4】交易に立脚した文明・国家の形成を並列させてとりあつかっている。
おそらく、このようなまとめかたを、しっかりと先史段階であつかっている世界史の参考書は、初めてなのではないだろうか。
熱帯エリアは魅惑の産物の宝庫
熱帯の産物への関心は古くから世界各地で見られる。
たとえば、東南アジアで産出する香薬(香辛料・香料)、象牙やサイの角、真珠、錫や鼈甲(ウミガメの一種であるタイマイの甲羅が材料)などの産物は、東アジアや南アジアの支配層の欲望をかきたてた。
世界ぜんたいをみわたせば、アクセスの容易な熱帯地帯というのは、実は多くない。
アフリカの赤道付近やアマゾン川流域は、陸上からもなかなか足を踏み入れにくいどころか、海からのアクセスも難しい。
その点、東南アジアの熱帯エリアは、季節風にも助けられ、アクセスが容易であった。
ここがポイントだ。
東南アジアは小人口エリア
熱帯エリアは人口密度が小さい。
だから、東アジアや南アジアと異なり、古代の東南アジアには、広い領域を支配する強い政治権力は生まれにくかった。
たしかに人間の生存に必要な水は、熱帯雨林気候においては豊富だし、赤道に近いぶん、太陽エネルギーは大きく、生物多様性も大きい。温帯地域に比べて、さまざまな微生物の活動もさかんだし、そのうち病原性をもつ微生物も少なくない。
また、年中雨が降りっぱなしの熱帯雨林地帯においては、乾燥地帯のように、デンプンを種子にたくわえるような小麦、大麦のような穀物はみられない。そのなかで栽培化された作物には、バナナがある。野生種には種子があったが、品種改良によって種子なしバナナがつくりだされていった。
一方、乾季のある熱帯サバナ気候では、水不足に備えて炭水化物をたくわえるイモ類が栽培化されていった。ヤムイモは毒性があり、熱を通す必要がある。その後タロイモ(日本の里芋)も栽培化され、やはり加熱によって毒を除いて食されるようになった。
中尾佐助は、これにサトウキビの栽培を加え、乾季のある熱帯気候の山地に「根菜農耕文化複合」が生み出されていったとみた。
他方で、山地から降り、海にほど近いエリアは、ながらく人間にとって暮らしにくいエリアであった。
漁業によって魚からタンパク質を得ることはできても、炭水化物の入手は難しい(「島嶼部のうち、赤道直下の低地は毎年高温多湿なので、穀物のような、低温や乾燥の期間のために栄養を蓄積する植物はできにくい。大陸部デルタと同じく、低地は人間にとって病気の巣でもある。一面の熱帯多雨林やマングローブにおおわれ、食用デンプンが採れる植物はサゴヤシぐらい、人はほとんど住まない、という世界が最近まで広がっていた。」(桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社、1996年、9頁)。
こういった自然環境においては、広い範囲の「面」的な支配は成立しにくい。代わりに王は各地の有力者との親分・子分関係によって、支配力を及ぼそうとした。しかし、その支配権は不安定で、特定の家計による世襲という観念が育ちにくい。「支配は基本的に一代限りで、勢力範囲も伸縮を
繰り返す。官僚制など組織の助けも領域支配の観念も弱いなかで、特別な「霊魂の質」にヒンドゥー教の神格などを結びつけて無限の支配力を主張することで、なんとか地方勢力を支配しているマンダラが、いくつも並立したがいに重なり合っている」(桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社、1996年、63頁)。東南アジア研究者のウォルタースは、このような性格を持つ東南アジアの国家のありかたをマンダラ国家と呼んだ。
この問題を解決したのはサゴヤシの利用だ。
幹を割り、繊維質を掻き出し、水洗いすると、デンプンを得ることができる。
これにココヤシの利用が加わり、人々は熱帯の群島部の沿岸地帯においても活動することができるようになったのだ(参考:石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』(世界の歴史13)中央公論社、1998年、36-37頁)。
しかし、人手の少なさは、権力者にとっては悩みの種である。
そういうわけで支配者は、外来の文明を導入して人々に威光を示したり、モニュメントをつくるなどして、人手をかきあつめようとしたわけである。
低地のデルタ(三角州)や沿岸部で政権による支配が強まると、これを避け、山地に拠点を置く人々もいた。
彼らは国家による支配を避け、山地では焼畑農業をおこなったり、狩猟採集によって生計をおこない、みずから国家を形成することもなかった。
そのような人々の分布するエリアは「ゾミア」とも呼ばれ、現在でもなお少数民族の暮らすエリアとなっている。
逃げることも、また戦略のうち。
国家をつくらないことも、また選択肢のうち。
「国があるのが当たり前」となりがちな世界史学習においては、そのような視点を持つことも重要だ。
東南アジアの大陸部
◆現在のビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム
東南アジア大陸部の人々は長い間、豊富に取れるフルーツや魚、動物を取ることで生活してきた。
しかし、焼畑による農業や家畜の飼育が始まると、しだいに富が蓄えられ、t特定の地域を支配する有力者が現れるようになっていった。
たとえば前1000年(今から3000年前あたり)に近付く頃、ベトナムやタイの東北部で青銅器がつくられるようになる。
そして、前4世紀(今から2400年ほど前)になると、独特な形をもつ青銅器の太鼓が出現。
人々はこの太鼓を使い、収穫を祈るお祭りの中で神様にささげる音楽を演奏していたと見られるよ。
代表的な出土地の名を取って「ドンソン文化」という。東南アジアの島々に至るまで広い範囲で流通していたことから、広い地域の人々が「銅鼓」に対して畏敬の念を抱き、取引や交換の対象としていたことがうかがえる。その表面の文様には、細長い川船や、高床式倉庫、腰巻き式の衣服、さらに臼・杵で米をつく人々の姿があらわされ、東南アジアの基層文化のルーツをみることができる。
インドネシアの島々のリーダーたちも、「俺は銅鼓を手に入れることができるんだぞ。知り合いがいるんだぞ」っていえば、住民たちを納得させることができたわけだ。
一方、南シナ海やタイランド湾の沿岸では、海の生み出した文化である漁労文化サーフィン文化(前3/前2世紀〜後2/3世紀)が栄え、東南アジアの陸と海を繋いだ。弥生時代の日本にもみられた甕棺墓を特色とし、特徴的なアクセサリーも出土している。
このドンソン文化やサーフィン文化は、のちに中国やインドの文明と融合し、独自の東南アジア文明を形成していくこととなる。
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◇カンボジア
メコン川下流のデルタ地域を中心に、港町を束ねた「扶南」(ふなん、)という国家組織だ。現在のカンボジアで多数を占めるクメール人の国であったと考えられているが、最近ではオーストロネシア系の人々であったといく説も出ている(参考:古田元夫『東南アジア史10講』岩波書店、10頁)。
扶南の王は、港町だけでなく商品の生産地や航路の安全も確保し、インドからやって来た商人たちとも関係を持っていた。
中国の歴史書にのこる建国神話によれば、扶南は「インドのバラモンが、メコン川下流の女性と結婚して建国された」ということになっているくらいだ。
古田元夫氏も、扶南の「建国」説話を示す中国史料について次のように説明する。
『世界史探究』の教科書のなかには、史料にみえる「混塡(バラモン僧)」が扶南に何をもたらしたのか問う記載もある。
たしかにインドとの通交はあったし、支配層の間では「インド化」は進んだけれども、東南アジアの基層をなす文化は残された。かのイギリスがインドを植民地化していたこともあって、東南アジアにおけるインド的な特徴は、古代のインド人が、その文明をひろめていった結果であると考えられ、かつて東南アジアからインドにかけての地域が「グレーター・インディア」と呼ばれていた時代もあった(学説の簡単な変遷は桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社、1996年、28頁以下を参照)。しかしインドの文明のおかげで、未開の地であった東南アジアに国家が形成されたという解釈は、もはや支持されていないという点は、おさえておくべきだろう。
さて、扶南の領域のうち、現在のカンボジアに位置する港オケオは商業の一大中心地であったことが遺跡発掘により明らかとなっている。ローマの金貨(下図1)やインドの神様の像(下図2)、中国の銅鏡(下図3)が出土していることから、「海のシルクロード」の拠点であったことがわかる。
一方、2世紀末(今から1800年ほど前)には、中国に近いベトナム中部には、複数の港町を束ねるチャム人の王様も現れた。チャンパーだ。時代によって中心地が変わるけれど、なんと17世紀(今から400年ほど前)まで存続した。
チャンパーの歴史は、2世紀末に中国の漢王朝によって置かれた日南郡から独立した林邑にさかのぼる。
4世紀末から5世紀になると、モンスーン航海が確立し、インド商人のみならず知識人であるバラモンも来航するようになる(ちょうどインドの大部分がグプタ朝によって支配されていた時期だ)。
すると林邑も、中国文化の摂取からインド文化の摂取に方向を転換。国名もインド風のチャンパーとなる。
4世紀後半には東南アジア最古のサンスクリット語の碑文が、チャンパーの地方政権の中から見つかっている。碑文を製作したチャンパーの在地勢力は、扶南や中国と抗争を繰り返しながら、中国への朝貢もおこなっていたことがわかっている。
中国からインドに仏典を求めて旅した法顕(ほっけん)というお坊さんは、次のように記している。
この史料からは、インドや中国とを結ぶ交易が、季節風を利用しておこなわれていたことが、よくわかる(この文章には、法顕の便乗した商船の航海ルートにミスがあったであろうことも記されている。全文は上記出典を参照)。
しかも、その船は中国人の船ではなく、インド人の船だったようだ(以下も参照)。
扶南やチャンパーを初めとする東南アジアの国々は、競うようにしてインド風の文化、服装、生活スタイルを取り入れていったんだ。サンスクリット語で碑文が刻まれ、建築もインド式のスタイルに。宗教は、ヒンドゥー教や大乗仏教が一緒くたになって紹介された。教義の細かい違いはどうでもいい。「インドから伝わったもの」だということだけで、なんでも箔が付いたのだ。
しかし、7世紀になると、これまで通航が困難であったマラッカ海峡が、インド洋と南シナ海をむすぶ航路として発展するようになった。
マラッカ海峡の交易を管理し栄えたのが、後述するシュリーヴィジャヤである。この変化に対応できなかった扶南は衰退し、南シナ海の交易はでチャンパーがにぎることとなった。
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さて、6世紀になると新たな民族がメコン川中流域で国家組織を建てていく。
現在のカンボジア人の大多数を占めるクメール人だ。
彼らの建設した都市連合真臘は7世紀に扶南を併合するも8世紀初頭に南北に分裂したが(中国の史料では、サバナ平原の都市連合を陸真臘、メコン川流域の都市連合は水真臘と記録されている)、8世紀後半になるとトンレサップ湖北岸のアンコールを中心とする勢力が台頭し、9世紀に再統一された。
この国をカンボジア王国(アンコール朝)という。
アンコールは気候的には乾期をともなうサバナ気候に位置する。
海上交易のさかんな沿海部からも離れているし、どうしてそんなアンコールを拠点とする勢力が強大化することができたのだろうか?
その秘密は、この時期に彼らの導入した、南インドの農業技術にある。
クメール人は南インドの稲作技術をとりいれたサバナ平原の稲作農業(水牛に犂をひかせ、籾を直播にし、雨季の雨水をためて乾期にそなえるもの。畑作技術を稲作に応用した)を発展させていった。
アンコールはメコン川と連結する巨大な湖(トンレサップ湖)の近くにあたり、王は乾季の日照りに耐えるため、ため池や水路などの水利施設が盛んに建造された。王は、ヒンドゥー教の権威を利用して国を広げ、人々を王都に集め、動員させたのだ。
資金の出所は、住民たちからヒンドゥー教のお寺に集まる「お布施」だ。
対外戦争にも勝ち抜いたカンボジア王国は、12世紀にアンコールに巨大な寺院を造営した。
これがかの有名なアンコール=ワットだ。
寺院内のレリーフは細かい所まで作り込まれた壮麗なもので、ヒンドゥー教や仏教の影響を受けつつクメール人独自のスタイルを発展させたことがよくわかる。
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◇ビルマ
一方、現在のビルマでも個性ある民族の活動が始まっていた。
北の山地から流れるイラワディ川の流域を支配したビルマ系のピュー人という民族が、5世紀頃から都市国家群を建て、銀貨や綿布の輸出で栄えた。
ピュー王国はインドのガンジス川河口にほど近く、インドの稲作技術による開発も進み、西南中国とベンガル湾を陸路で結び、内陸交易網を海上交易とリンクした。次項で紹介するタイのドヴァーラヴァティーと同じく、インドから仏教を導入している。
ところが9世紀には、中国西南部の雲南の勢力である南詔に侵略されて衰えてしまう。
11世紀になると、今度はビルマ人が新たな王国「パガン朝」(1044〜1299年)を建国。スリランカにある上座仏教の王国との交易関係から、王様は熱心に上座仏教を保護した。「パガン」というのはブッダをまつる塔(仏塔)のこと。この時代に建造された仏塔は、今もビルマに多く残されている。
◇タイ
ピュー王国のライバルであったのは、現在のタイを流れるチャオプラヤ川下流に建てられたモン人の王国「ドヴァーラヴァティー王国」(7世紀〜11世紀)。さきほどのピューから扶南に輸出された銀貨や綿布の中継地点として栄えた。
モン人は日本人にはあまり馴染みがない民族だけれど、タイ人が北の方から南下してくる以前、この地域に広く分布していた民族だ。
ドヴァーラヴァティー王国もスリランカとの関係を重んじ、先ほどのピューと同じく上座仏教を受け入れて栄えたよ。この伝統はのちにタイ北部に建てられたタイ人最古の王国「スコータイ朝」(13〜15世紀)にも受け入れられることになる。
ところがドヴァーラヴァティーは11世紀にカンボジアのクメール人の支配下にはいり、13世紀には移動してきたタイ人によって滅ぼされてしまう。
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◇ベトナム
最後にベトナムを見ていこう。
古くから農業が栄えていたベトナムは、陸続きの中国の侵略を受けやすい位置にある。
現在のハノイを中心とする北部は、前3世紀(今から2200年ほど前)に前漢(中国の王朝)によって侵略を受け、それ以降ずっと服属を受け続けていた。後漢の時代には、大規模な反乱も起きたのだが、鎮圧されてしまった。これを徴(チュン)姉妹の「反乱」(後40〜43年)といい、この姉妹は現在のベトナムで英雄視されている。
その後、北宋(中国の王朝)の時代の10世紀末(今から1100年ほど前)にようやく独立を認めさせることに成功。
11世紀初め(今から900年ほど前)には、李の姓を名乗る王様が晴れて「大越(ダイベト)国(李朝)」を建国する。
その後、王朝が陳朝(ちんちょう、1225〜1400)に代わるけど、どちらも支配エリアはベトナム北部に限られた。南部はチャム人の港町を中心とする王国(チャンパー)が支配していたからね。
陳朝の王族は地方で開発した田庄を奴婢に開墾させた。王族の奴婢は軍事力の中核ともなった。陳朝は官僚制を整備し、文人官僚を採用する科挙試験も実施。儒教の影響力が増していった。
そういうわけで、現在でもベトナムは南北では様々な面で違いが残っているんだよ。
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諸島部の東南アジア
◆現在のマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ブルネイ、東ティモール
さて、今度は諸島部に目を転じてみよう。
東南アジア諸島部の人々も、大陸部の人々と同じくながらく豊富に取れるフルーツや魚、動物を取ることで生活してきた。
やがてインド方面との交易が盛んになると、インド文化の影響を強く受けた王国が建国されていく。
たとえば7世紀にスマトラ島でマレー人によって建国されたシュリーヴィジャヤ王国は、マラッカ海峡を中心に海の安全を保障し、インドとの友好関係を結んで大乗仏教を保護した。最盛期に首都のパレンバンに滞在した中国人のお坊さんの義浄さんも、仏教の盛況ぶりにおどろいている。
王の使命は、中国船、アラブ船、ペルシア船、インド船など、各地から来航する貿易船のあいだでおこなわれる取引を円滑におこなわせることにあった。
その後はシュリーヴィジャヤを引き継ぎ、三仏斉(10〜14世紀頃)が繁栄。これは中国語史料における表記で、アラブ人はザーバジュと呼んでいた。かつてシュリーヴィジャヤが影響力をおよぼしていたマラッカ海峡地域の港市国家群の総称と考えられている。
マレー人がどうしても入手したかったのは、モルッカ諸島で産出される香辛料だ。
そのためにマレー人は、はるばるジャワ島の北岸にも進出。
ジャワ島中部のマレー人勢力がシャイレーンドラ朝(8〜9世紀)を名乗り、交易の利益で海軍をととのえ、マラッカ海峡にいたる海路を支配し、シュリーヴィジャヤにも支配を及ぼすことになった。
マレー半島、カンボジア、チャンパーにも進出し、中国の唐王朝がベトナム北部に置いていた安南都護府も陥落させている。
諸島部の東南アジアが、いかにインドの影響を受けているかがわかるね。
なお、シャイレーンドラ朝は世界最大級の仏教寺院であるボロブドゥール寺院を建造したことで知られるけれど、その後9世紀半ばにはヒンドゥー教を保護するマタラム朝(732〜1222年、古マタラムともいう)がシャイレーンドラ朝を追放。内陸部とジャワ海を結びけながら、支配地域を中部から東部に広げていった。ジャワ島ではヒンドゥー教の神々に対する信仰のほうが強まっていくよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊