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6.2.3 宋の統治 世界史の教科書を最初から最後まで

五代の政権の最後となった後周(こうしゅう)の将軍 趙匡胤(ヂャオクァンイン;ちょうきょういん、在位960〜976年。太祖)は、960年に(ソン;そう)を建国。
次の太宗(在位976〜997年)は、「十国」としてまとめられる地方政権をまとめて、中国の主要エリアの統一に成功した。



そうはいっても唐とくらべると、支配エリアはぐんと減る。
しかし、宋にとって契丹(遼)・大夏(西夏)・金といった北方民族の圧迫を退けることは、現実的ではない。


宋の支配層は、防衛力を強化するため、首都の開封(カイファン;かいほう)に長江下流域の穀物や特産品(陶磁器・茶・絹)の富を吸い上げた。
古くからの長安を「京都」に例えるなら、開封は「大阪」だ。
市場や繁華街が立ち並び、水路を通じて中国の東西南北を結びつける役割を果たしたよ。

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莫大な経済利権を束ねるため、皇帝は役人たちの厳格な採用にこだわった。
家柄や“武勇伝” ではなく、能力に応じた優秀な役人を取り立てたかったのだ。


そこで従来からあった科挙から、“裏口”ルートを極力一掃し、役人登用のほぼ唯一の道として活用することにした。
なんと最終面接官は皇帝。

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この「殿試」(でんし)により、役人たちに「皇帝様に採用していただいた」という恩義を感じさせようとしたのだ。


そもそも膨大な量のテキストを揃えることができるのは、大商人や大地主のおぼっちゃんぐらいなもの。唐滅亡後の混乱で、貴族の手放した土地をゲットした新興地主(形勢戸(けいせいこ))たちは、自分の子供たちに儒学だけでなく即興で詩を読んだり、公用文を書く力を小さな頃からスパルタ教育で詰め込んだ。
一族から科挙の役人が出れば、地方における家の名声もあがるし、政府関係者とのパイプがあればビジネスにも都合が良いからね。

こうして、唐の時代に比べると、皇帝の権限は多少なりともアップしていったよ。
しかし、やはり問題なのは周辺民族に対する対応だ。

契丹、大夏に対しては、毎年贈り物を送る方法が取られたけれど、「どうしてやっつけないんだ!?」という反対の声も当然あった。

長年、中国の漢人たちは、北方や西方の文化の影響を受けつつもうまく取り込み、漢人の「文明」に誇りと愛着を持ってきたからね。周辺国家がパワーアップしていく事態は、「野蛮」人によって「文明」が乗っ取られる「屈辱」的な事態だったのだ。

それでも内政重視の宋は、戦争よりも経済開発を優先し、その利益を周辺民族に分配することで和平を保とうとしてきた。

いわば“お金で平和を買う”作戦だ。


しかし、その費用がしだいに国家財政を圧迫するようになると、11世紀後半の神宗(しんそう、在位1067〜85年)が、宰相の王安石(ワンアンシー;おうあんせき、1021〜86年)を採用して政治改革に取り組ませることになった。
これを「新法」(しんぽう;シンファ)というよ。



大商人や地主の利権に規制をかけ、中小の商工業者や農民の生活安定を優先させるもの。
改革によって政府の収入は増加したものの、前者を支持する役人たちによる反対を受け、王安石が亡くなると、新法党と旧法党(司馬光を中心とする地主・大商人派)との間の対立(党争)が長くつづいた。


こうした混乱によって宋の国力はさらに低下し、迎えた12世紀初め。

中国東北地方のジュルチン(女真)人が1115年に金を建国し「皇帝」を名乗り、華北に軍事侵攻。
首都の開封は占領され、皇帝の欽宗(チンヅォン;きんそう、在位1125〜1127)と、アーティストとしても名を馳せた上皇の徽宗(フェイヅォン;きそう、在位1100〜25)

が生け捕りにされてしまったのだ。



この事件を、靖康(せいこう)の変というよ。

皇帝の弟だった高宗(こうそう、在位1127〜62年)は、長江下流域の臨安(りんあん)に逃れた。ここは現在の大都市 杭州(ハンジョウ、くいしゅう)にあたり、大運河の終点だ。

ここで立て直された、後半の宋のことを宋(なんそう、1127〜1276)というよ。
前半の宋は「宋」(ほくそう、960〜1126)として区別する。


復興した南宋にとっての最重要課題は金に対してどう対応するかということ。

徹底抗戦を主張する「主戦派」の岳飛(がくひ、1103〜41年)は、和平派の秦檜(しんかい、1090〜1155年)によって排除され、結局南宋の「皇帝」は金の「皇帝」に対してなんと“家来”の形をとり、毎年銀と絹をおくる立場に転落することになったのだ。

なお、このとき「金」との徹底抗戦を説いた岳飛は、「悲劇の将軍」として現在の中国では “神様級”の扱いを受けている。
その壮麗なお墓(岳廟)は、浙江省の西湖の船着場近くにあって、お墓の敷地内には「柵に入れられ、ひざまずく秦檜夫妻と部下たちの像」が陳列されている。


黄河と長江のあいだを流れる淮河(わいが)をさかいに、金と南宋が向かい合い、中国を二分する体制は、その後、モンゴル人によって1234年に金が滅ぼされるまで続く。
しかし、結果的に1279年には南宋もモンゴル人によって滅ぼされることになるよ。

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