孔子像_-_panoramio

2.3.4 春秋・戦国時代 世界史の教科書を最初から最後まで

封建制を確立した「」の王朝は、前8世紀に絶体絶命の危機を迎える。

西の方から遊牧生活を送る民族が侵入し、首都の鎬京(こうけい、ガオジン)が奪われてしまったんだ。
周は都を東の「洛邑」(らくゆう、ルオイー)にうつすことでなんとか乗り切ったけれど、おかげで王様の権威は丸つぶれ。


でも、各地を支配する“家来”たちは、すぐさま“親分”である王様に反乱を起こすことはしない。だって、家来たちが自分たちの土地を確保できたのは、あくまで周の王様の権威あればこその話でしょ。

大ピンチに陥った周の王様に対して、逆に「忠誠心」を示すことで勢力を拡大させようとしたんだ。複数の“家来”をまとめることができる“学級委員”のような“家来”が現れてくれれば、周の王様にとってもありがたい。そのような“学級委員”のような有力諸侯は「覇者」(はしゃ)と呼ばれ、周の王様のもとに盟約の儀式をにぎり、「異民族を追い払い、周の王様をお守りします」(尊王攘夷(そんのうじょうい))と誓ったのだ。

覇者としては、(せい、チー)という封土(ほうど)をいただいた桓公(かんこう、ホアン)という諸侯や、(しん、ジン)という封土をいただく文公(ぶんこう、ウェン)が有名だ。

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この時代を、当時のことについての記録が書かれた歴史書『春秋』(しゅんじゅう、チュンチウ)にちなんで「春秋時代」と呼ぶよ。まだかろうじて周の王様の権威が残されていた時代だね。


しかし、しだいに状況は一変。

初めは王の“家来”として諸侯を名乗っていた覇者たちが、みずから「」を名乗るようになっていったんだ。

ここからがいわゆる「戦国時代」の始まりだ。
日本史の「戦国時代」の由来でもあるよ。

各国の王は、周王の権威を無視して自国を強くするため経済を盛んにし、軍事力を強め始めた。
戦いの中で弱小国は滅び、やがて「戦国の七雄(しちゆう)」と呼ばれる7つの王国が、周を取り囲む形成となってしまう。



各国は農業技術を発達させ、お金(貨幣)を使った物の交換(貨幣経済)も発展していく。

そのために各国は領土を積極的に拡大させていったので、自分たちは「中国だ」という意識を持つエリアも、それにともなって広まっていったよ。

たとえば長江流域の地域は、黄河流域の文明とはもともと違った特徴を持っていたよね。
けれども「」(そ、チゥー)という王国は周の中国文明を積極的に取り入れていき、「中国」の一員としての意識を高めていった。
この時期の楚では『楚辞』(そじ)という漢字で読んだ見事な詩(作者は屈原(前340頃〜前278年)など)も著されているよ。


農業が基本の生活スタイルをとった「中国」人にとって、遊牧や狩りを営む生活スタイルは低レベルで“野蛮”な生活に見えたに違いない。


高レベルで“文明”的な「中国」こそが世界の中心(中華)であり、言語も生活スタイルも違う「夷狄(いてき)」の住む地域とは違うんだ―このような価値観のことを、「華夷思想」(かいしそう)と言うよ。
誰が「中華」で誰が「夷狄」なのかをめぐっては、時代によって変わっていくけど、この考え方は中国の歴代の支配者たちによって抱き続けられることになる。

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さて、戦国の七雄の中でも西方の黄河・長江上流を支配した(しん、チン)は、ずば抜けて強力な国家に短期間で成長していった。
その様子を確認していこう。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊