■アジアNIESとASEAN諸国の経済発展
日本は主権回復後、東南アジア諸国にたいして技術援助や民間部門を進めていった。これには太平洋戦争の被害に対する賠償という意味も含んでいた。
また、イギリスは、イギリス連邦内の諸国を中心にコロンボ・プランを組織し、日本も加盟した。
アジアNIES(新興工業経済地域)
1960年代半ばから急速な経済発展を遂げたアジア諸国・地域を、アジアNIES(新興工業経済地域)とよぶ。
日本の植民地から独立した韓国と台湾では、戦後に西側諸国の投資を受け入れ、経済成長を進めようとした。
韓国は、1961年に軍事クーデタがおき、朴正煕政権が成立した。1965年に日韓基本条約が締結されると、日本などの海外から技術や資本をとりいれ、重化学工業化を進めていった。その一方、国内における民主化はおさえられた。
台湾では国民党の一党支配のもとで、日本やアメリカから積極的に投資をうけいれ、輸出品を生産する工業化(輸出志向工業化)をすすめていった。
一方、イギリス帝国のもとで繁栄したシンガポールと香港は、ともにイギリス支配下で整備された港湾・通信インフラや、歴史的に形成された華僑・華人資本やネットワークの遺産を活用して発展していった。
シンガポールでは、リー・クァン・ユーの指導により、1960年代後半から西側先進諸国の外国資本を導入し、輸出品を生産する工業化(輸出志向工業化)をすすめていった。
イギリス領香港は、貿易・金融センターとして発展した。
資料 リー・クァン・ユーは日本をどうとらえていたか
ASEAN諸国
NIESの発展に続き、ASEAN諸国も、ベトナム戦争による特需や、アメリカ合衆国や日本からの援助を受けて経済成長をはじめていった。
強力な指導者が、民主化をおさえて支配をおこなう政治手法は「開発独裁」と呼ばれる。シンガポールのリー・クァン・ユー、マレーシアのマハティール、インドネシアのスハルトがこれに数えられる。
初期の日本の開発援助は、商社の利害にのっとったものが多く、1970年代になると東南アジア諸国で、進出した日本企業との摩擦もおこった。
これを受け、1977年に福田赳夫首相は「福田ドクトリン」を発表し、日本とASEAN諸国が対等なパートナーとしての相互信頼関係を構築するとした。日本の開発援助が、社会インフラ整備や人材育成の支援に向かうのはこれ以降のこととなる。
その後、1985年のプラザ合意で円高が進むと、電気機械産業を中心とする日本企業が、東南アジアに直接投資するようになった。
ASEAN域内の分業に日本とASEAN諸国と分業関係が生まれ、日本と東南アジアとの経済関係が強まっていった。
資料 日本の対アジア直接投資額の推移
■開発パラダイムの変遷
1990年代になると、開発援助(国際協力)の内容や手段を見直す動きが国際的に広がり(構造調整政策の見直し)、世界銀行やIMFに代わり、UNICEFや国連開発計画(UNDP)などの国連機関により、「人間の安全保障」が新たなアプローチとして唱えられるようになった。これは理論的にはインドの経済学者アマルティア・センのケイパビリティに関する議論に立脚している。
経済成長から取り残されたアフリカや南アジア諸国などの貧困を削減する施策は、2000年のミレニアム開発目標(MDGs)に結実し、債務超過に陥った国々の債務削減に向けた取組も進んだ。
しかし、21世紀に入ると、アメリカの同時多発テロなどのテロリズムやそれに関連してひきおこされた戦争、グローバル化にともなう世界的な格差の拡大や、人口構造の転換、新興国の台頭にともない、安全保障の考え方に変化がもたらされ、地球温暖化に代表される地球環境問題のリスクも相まって、開発援助のアプローチは大きな変容を迫られている。
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日本
石油危機(1973年)を契機に、他の先進資本主義国と同様、日本経済は大量生産・大量消費を前提に規模を拡大し続けようとする経済から、少量多品種生産・消費を目指す経済へと転換していった(→参照 3-2-2. 石油危機と経済の自由化)。
1985年9月22日にはニューヨークのプラザホテルにおけるプラザ合意において、日本と西ドイツの貿易黒字を是正するために、為替相場のドル安誘導が決定された。
これにより円高が進行し、輸出不振となり、円高不況が起きた。輸出力の下がった日本企業は、生産拠点を海外に移転させる動きをすすめることで対処し、これが産業の空洞化の一因にもなった。
円高の進行と貿易摩擦に対処すべく、日本では内需を拡大するために積極的な金融緩和がおこなわれた。その一方、余剰資金は投機的な取引にむかい、1980年代末には地価・株価の急騰するバブル景気を招くこととなった。
1987年2月のNTT株上場などをきっかけに株式ブームがおこり、1989年12月29日に日経平均株価は3万8915円を記録した。
働く女性の人口は1970年代から1980年代にかけて増えていき、1992年には専業主婦人口を、働く既婚女性が上回った。
1975年の国際婦人年、1979年の国連での女性差別撤廃条約採択、1985年の男女雇用機会均等法の制定など、女性をとりまく法制度は変化していった。
しかし、女性の生き方は、働く女性、専業・兼業主婦など多様化していったが、性別役割分担をめぐる人々の意識も、時代の変化に応じて変わっていったとは限らない。
資料 専業主婦世帯と共働世帯の推移
バブル経済期には、高度経済成長期とは異なり、人々の意識はいっそう自由なものとなり、価値観も多様化していった。さまざまな商品が人々の欲望を刺激し、人々はファッションやライフスタイルを通して個性を表現しようとした。
資料 西武百貨店のコピー「おいしい生活。」(糸井重里、1982〜83年)
また、従来は欧米諸国に比べ遅れた側面が取り沙汰されることの多かった日本や日本文化を、再評価する動きもさかんになった。日本文化論の隆盛である。
子どもたちの世界にも変化が見られる。1970年前後から「校内暴力」が問題化し、1980年代以降、「いじめ」や「学級崩壊」など、以前は取り沙汰されなかったような変化が「問題」として取り沙汰されるようになった。
中国
中国では、1966年以降の文化大革命により、国内の社会経済が混乱に陥った。1976年に周恩来、毛沢東が亡くなると、党主席となった華国鋒は海外からの技術導入による重化学工業化を進める方針を示した。
その後、鄧小平が事実上の最高指導者となると、「改革開放」が推進され、市場経済の導入と工業化が、中国共産党による一党独裁を維持したままに推進されていくこととなった。
ゆきすぎた社会主義化を是正し、沿岸部の経済特別区には、外国資本を誘致した工業発展がめざされた。
1980年代になると中国経済は急速に発展し、その分、中間層も増えた。中間層の若者は政治的な権利を要求し、1989年には天安門事件が起こされたが、軍による弾圧を受けた。
しかし、民主化要求をおさえこみつつ市場経済を導入する「改革開放」の路線はその後も継続され、1992年には「社会主義市場経済」が掲げられた。鄧小平の死後、2000年代には市場経済のグローバル化の恩恵を受け、「世界の工場」としての地歩を築いていくこととなった。
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3-2-3-1. 開発援助の世界史
以下のリンク先を参照。