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新科目「歴史総合」をよむ 3-2-3. アジアの経済発展と日本


メイン・クエスチョン
石油危機後、アジアの経済はどのように推移し、各国の社会はどのように変化していったのだろうか?


■アジアNIESとASEAN諸国の経済発展

サブ・クエスチョン
アジア諸国の経済成長はどのような政策によって達成されたのだろうか?


 日本は主権回復後、東南アジア諸国にたいして技術援助や民間部門を進めていった。これには太平洋戦争の被害に対する賠償という意味も含んでいた。
 また、イギリスは、イギリス連邦内の諸国を中心にコロンボ・プランを組織し、日本も加盟した。


アジアNIES(新興工業経済地域)

サブ・クエスチョン
アジアNIESが急速に発展していったのはなぜだろうか?


 1960年代半ばから急速な経済発展を遂げたアジア諸国・地域を、アジアNIES(新興工業経済地域)とよぶ。
 日本の植民地から独立した韓国と台湾では、戦後に西側諸国の投資を受け入れ、経済成長を進めようとした。
 韓国は、1961年に軍事クーデタがおき、朴正煕政権が成立した。1965年に日韓基本条約が締結されると、日本などの海外から技術や資本をとりいれ、重化学工業化を進めていった。その一方、国内における民主化はおさえられた。
 台湾では国民党の一党支配のもとで、日本やアメリカから積極的に投資をうけいれ、輸出品を生産する工業化(輸出志向工業化)をすすめていった。

 一方、イギリス帝国のもとで繁栄したシンガポールと香港は、ともにイギリス支配下で整備された港湾・通信インフラや、歴史的に形成された華僑・華人資本やネットワークの遺産を活用して発展していった。
 シンガポールでは、リー・クァン・ユーの指導により、1960年代後半から西側先進諸国の外国資本を導入し、輸出品を生産する工業化(輸出志向工業化)をすすめていった。 
 イギリス領香港は、貿易・金融センターとして発展した。

資料 リー・クァン・ユーは日本をどうとらえていたか


ASEAN諸国

サブ・クエスチョン
東南アジアの国々経済発展に、日本はどのように関与していったのだろうか?

 NIESの発展に続き、ASEAN諸国も、ベトナム戦争による特需や、アメリカ合衆国や日本からの援助を受けて経済成長をはじめていった。
 強力な指導者が、民主化をおさえて支配をおこなう政治手法は「開発独裁」と呼ばれる。シンガポールのリー・クァン・ユー、マレーシアのマハティール、インドネシアのスハルトがこれに数えられる。

 初期の日本の開発援助は、商社の利害にのっとったものが多く、1970年代になると東南アジア諸国で、進出した日本企業との摩擦もおこった。

資料 田中首相に対するバンコク国際空港における反日デモ
「田中角栄首相が東南アジア歴訪中、訪問した各地で反日デモが発生した。対日赤字が増大し、それが国民の生活を苦しくさせていると考えた学生らが中心となり、タイ、シンガポール、インドネシアで大規模なデモが行われた。
 インドネシアのジャカルタでは1万人のデモ隊が暴徒化し、日本大使館の国旗が引きずり降ろされ、日本車など200台以上が焼かれた。写真は、ジャカルタで警備する兵士を見て、放火した自動車を尻目に逃げる反日デモの学生(1974年01月15日) 【PANA=時事】」

https://www.jiji.com/jc/d4?p=rit019-jlp01135277&d=d4_mili

 これを受け、1977年に福田赳夫首相は「福田ドクトリン」を発表し、日本とASEAN諸国が対等なパートナーとしての相互信頼関係を構築するとした。日本の開発援助が、社会インフラ整備や人材育成の支援に向かうのはこれ以降のこととなる。

資料 福田ドクトリンを打ち出したマニラ演説(1977年)
私は、今回のASEAN諸国およびビルマの政府首脳との実り多い会談において、以上のような東南アジアに対するわが国の姿勢を明らかにして参りました。このわが国の姿勢が、各国首脳の十分な理解と賛同をえたことは、今回の歴訪の大きな収穫でありました。その要点は、次のとおりであります。
 第一に、わが国は、平和に徹し軍事大国にはならないことを決意しており、そのような立場から、東南アジアひいては世界の平和と繁栄に貢献する。
 第二に、わが国は、東南アジアの国々との間に、政治、経済のみならず社会、文化等、広範な分野において、真の友人として心と心のふれ合う相互信頼関係を築きあげる。
 第三に、わが国は、「対等な協力者」の立場に立つて、ASEAN及びその加盟国の連帯と強靱性強化の自主的努力に対し、志を同じくする他の域外諸国とともに積極的に協力し、また、インドシナ諸国との間には相互理解に基づく関係の醸成をはかり、もつて東南アジア全域にわたる平和と繁栄の構築に寄与する。
 私は、今後以上の三項目を、東南アジアに対するわが国の政策の柱に据え、これを力強く実行してゆく所存であります。そして、東南アジア全域に相互理解と信頼に基づく新しい協力の枠組が定着するよう努め、この地域の諸国とともに平和と繁栄を頒ち合いながら、相携えて、世界人類の幸福に貢献して行きたいと念願するものであります。

(出典:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19770818.S1J.html


 

 その後、1985年のプラザ合意で円高が進むと、電気機械産業を中心とする日本企業が、東南アジアに直接投資するようになった。
 ASEAN域内の分業に日本とASEAN諸国と分業関係が生まれ、日本と東南アジアとの経済関係が強まっていった。
 

資料 日本の対アジア直接投資額の推移

(出典:増田耕太郎「時代」とともに深化した日本の対外直接投資 (回顧と展望) 」『国際貿易と投資』No.101,  2015年秋、https://www.iti.or.jp/kikan101/101masuda.pdf
(出典:同上)
(出典:同上)


■開発パラダイムの変遷


(出典:大坪滋『国際開発学入門―開発学の学際的構築』「第I部:開発, 国際開発とは何か」 「第1章:開発経済学の視座」より、https://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/sotsubo/DevelopmentParadigmChart.pdf)


 1990年代になると、開発援助(国際協力)の内容や手段を見直す動きが国際的に広がり(構造調整政策の見直し)、世界銀行やIMFに代わり、UNICEFや国連開発計画(UNDP)などの国連機関により、「人間の安全保障」が新たなアプローチとして唱えられるようになった。これは理論的にはインドの経済学者アマルティア・センのケイパビリティに関する議論に立脚している。
 経済成長から取り残されたアフリカや南アジア諸国などの貧困を削減する施策は、2000年のミレニアム開発目標(MDGs)に結実し、債務超過に陥った国々の債務削減に向けた取組も進んだ。

 しかし、21世紀に入ると、アメリカの同時多発テロなどのテロリズムやそれに関連してひきおこされた戦争、グローバル化にともなう世界的な格差の拡大や、人口構造の転換、新興国の台頭にともない、安全保障の考え方に変化がもたらされ、地球温暖化に代表される地球環境問題のリスクも相まって、開発援助のアプローチは大きな変容を迫られている。

資料 絵所秀紀「援助・開発・環境」
 
(前略)世銀主導による構造調整プログラムは所得分配および貧困層にマイナスの影響を及ぼしたのではないか,という批判的な問いが発せられるようになり,また大半の途上国では貧困問題,環境問題,公正な分配をめぐる問題,女性と子供の問題,人権問題,軍事問題,エイズ問題等が解決されていないという認識が広まったことである。市場メカニズムだけでは,こうした諸問題は解決できないとされ,改良主義が復活した。国際諸機関の中で,はじめてIMF・世銀の構造調整プログラムに批判的な立場を明らかにし,改良主義的な変更が必要であることを前面に押し出したのは,UNICEFである(…)。スローガンとして打ち出された合い言葉は,「人間の顔をした調整」である。(中略)1990年から,UNDP(国連開発計画)は『人間開発報告』と題する年次報告書を公表するようになった。『人間開発報告』では,「人間開発」とは「人々の選択の拡大過程」であると定義されている。この定義はアマルティア・センの「ケイパビリティ」概念によっているものである。ついで『人間開発報告』は,人間開発の状態をとらえるために,人間開発の状態をとらえるために,人間開発指数の作成を試みた。これは「人問生活にとって不可欠の3つの要素」である「寿命,知識,人並みの生活」を指数化したものである。具体的には,寿命の指数として「出生時平均余命」を,知識の指数として「成人識字率」を,そして人並みの生活の指数として「購買力平価による1人当たり実質GDPの対数値」をとり,この3指数の単純平均からなる複合指数を作成し,この指数の大きさによって各国を順位づけた(…)。

(出典:『国際経済』49号、1998年、28-46頁、https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaikeizai1951/1998/49/1998_49_28/_pdf/-char/ja)


資料 小渕総理大臣演説「アジアの明日を創る知的対話」(1998年12月12日)
 近年のアジアの目覚ましい経済発展は、同時に様々な社会的ひずみを生み出しました。経済危機によりこのようなひずみは一層顕在化し、人間の生活を脅かしています。私は、このような事態に鑑み、「ヒューマン・セキュリティ(Human Security)」即ち「人間の安全保障」の観点に立って、社会的弱者に配慮しつつ、この危機に対処することが必要であるとともに、この地域の長期的発展のためには、「人間の安全保障」を重視した新しい経済発展の戦略を考えていかなければならないと信じています。
この機会に、「人間の安全保障」について私の考え方を一言述べさせていただきたいと思います。
 現在、我々人類は様々な脅威にさらされております。地球温暖化問題を始めとする環境問題は、我々のみならず将来の世代にとっても重大な問題であり、薬物、人身売買等の国境を越えた広がりを持つ犯罪も増加しています。貧困、難民、人権侵害、エイズ等感染症、テロ、対人地雷といった問題も我々にとって深刻な脅威になっております。さらに、紛争下の児童の問題も見過ごすことのできない問題です。
 私は、人間は生存を脅かされたり尊厳を冒されることなく創造的な生活を営むべき存在であると信じています。「人間の安全保障」とは、比較的新しい言葉ですが、私はこれを、人間の生存、生活、尊厳を脅かすあらゆる種類の脅威を包括的に捉え、これらに対する取り組みを強化するという考え方であると理解しております。
 「人間の安全保障」の問題の多くは、国境を越えて国際的な広がりを持つことから、一国のみでの解決は困難であり、国際社会の一致した対処が不可欠です。また、これらの問題は、人間一人一人の生活に密接に関わることから、NGOを始めとする市民社会における活動が最も効果的に力を発揮できる分野であり、各国政府及び国際機関は、市民社会との連携・協力を強化しつつ対応していくことが重要です。
 アジア経済危機に関しても、我が国は、これまでに世界最大規模の支援策を表明し、また、着実に実施してきておりますが、このような支援に際しても、「人間の安全保障」の観点から、経済危機から最も深刻な影響を受けている貧困層、高齢者、障害者、女性や子供など社会的弱者対策を重要な柱の一つとして取り組んでいます。
(出典:小渕総理大臣演説「アジアの明日を創る知的対話」(1998年12月12日)、外務省ウェブサイト、https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/10/eos_1202.html)

資料 ミレニアム開発目標(MDGs)
2015年7月6日、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長は「MDGs報告2015」を発表し、「極度の貧困をあと一世代でこの世からなくせるところまで来た」「MDGsは歴史上最も成功した貧困撲滅運動になった」と成果を強調しました。
報告書では、例えば、開発途上国で極度の貧困に暮らす(1日1ドル25セント未満で暮らす)人々の割合は、1990年の47%から14%に減少し、初等教育就学率も2000年の83%から91%に改善され、既に目標達成済み又は達成目途がたっています。
一方、5歳未満児や妊産婦の死亡率削減について改善は見られたものの目標水準に及ばず、女性の地位についても就職率や政治参加で男性との間に大きな格差が残っています。また二酸化炭素の排出量が1990年比較で50%以上増加しており、気候変動が開発の大きな脅威となっていることを指摘しています。
また国内や地域毎で見ると達成状況に格差が見られ、深刻な格差の問題と最貧困層や脆弱な人々が依然置き去りになっている状況も指摘されています。

https://www.jica.go.jp/aboutoda/sdgs/achievement_MDGs.html


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日本

サブ・クエスチョン
石油危機後の日本経済や社会、人々の意識は、どのように変化していったのだろうか?

 石油危機(1973年)を契機に、他の先進資本主義国と同様、日本経済は大量生産・大量消費を前提に規模を拡大し続けようとする経済から、少量多品種生産・消費を目指す経済へと転換していった(→参照 3-2-2. 石油危機と経済の自由化)。


 1985年9月22日にはニューヨークのプラザホテルにおけるプラザ合意において、日本と西ドイツの貿易黒字を是正するために、為替相場のドル安誘導が決定された。
 これにより円高が進行し、輸出不振となり、円高不況が起きた。輸出力の下がった日本企業は、生産拠点を海外に移転させる動きをすすめることで対処し、これが産業の空洞化の一因にもなった。
 円高の進行と貿易摩擦に対処すべく、日本では内需を拡大するために積極的な金融緩和がおこなわれた。その一方、余剰資金は投機的な取引にむかい、1980年代末には地価・株価の急騰するバブル景気を招くこととなった。
 1987年2月のNTT株上場などをきっかけに株式ブームがおこり、1989年12月29日に日経平均株価は3万8915円を記録した。


サブ・サブ・クエスチョン
石油危機後の日本社会や人々の意識は、はどのように変化していったのだろうか?

 
 働く女性の人口は1970年代から1980年代にかけて増えていき、1992年には専業主婦人口を、働く既婚女性が上回った。
 1975年の国際婦人年、1979年の国連での女性差別撤廃条約採択、1985年の男女雇用機会均等法の制定など、女性をとりまく法制度は変化していった。
 しかし、女性の生き方は、働く女性、専業・兼業主婦など多様化していったが、性別役割分担をめぐる人々の意識も、時代の変化に応じて変わっていったとは限らない。

資料 専業主婦世帯と共働世帯の推移

https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11201000-Roudoukijunkyoku-Soumuka/0000118655.pdf

資料 女性向け就職情報誌『とらばーゆ』(1980年)
「創刊時の編集長、くらたまなぶさんが言う。
「リクルートで新しい女性向けの雑誌を作ることになり、何が今の女性の関心事なのかを知るために、とにかくたくさん話を聞いた。当時リクルートは社員の半数が女性だったので、会社の内線番号を適当に押して、女性社員が出たら片っ端からアポイントメントを取って、話を聞きに行きました。社外の女性も含めると、月に500人ずつのヒアリングを半年間続けました」
 その結果、仕事に対する不満、愚痴、批判がわんさか出てきた。
〈新聞の求人欄で男子は月給20万円なのに、女子は8掛けの16万円だった〉
〈下っ端の新卒男性社員がいるのに、来客時は上司が私に『お茶を入れて』と言う〉
〈大きな仕事を回してもらえない〉
「リクルートに限らず、会社で働く女性は男性社員と女性社員の扱いの不平等さに怒っていました。なかでも彼女たちの多くが抱えていた怒りは“やりがい”に関するもので、口々に『女だって燃えるように仕事をしたい』『情熱を傾けられる仕事をしたい』と訴えていました」(くらたさん)
 女性たちの仕事に対する怒りと情熱を肌で感じたくらたさんは、満を持して『とらばーゆ』を創刊。しかし当初は読者からの「お叱り」も多かった。
「たとえば“明るい貴女に簡単な仕事です”という求人コピーを載せれば、『仕事に明るさなんて関係ない』『簡単な仕事なんてしたくないのよ!』と多くの女性に批判される。もちろん、気楽に仕事をやりたい女性もいましたが、それ以上に、“大変でもいいからやりがいのある仕事をしたい”という女性が多かったんです」(くらたさん)」


資料 主婦向け雑誌の廃刊・リニューアル
 
4月発売号で24年の歴史に幕を閉じた主婦と生活社の月刊誌「すてきな奥さん」が、新たな女性ライフスタイル誌「CHANTO(ちゃんと)」(6月7日発売、540円)にリニューアルしました。時代を映す鏡でもある婦人誌。主婦の生き方にどう寄り添ってきたのでしょうか。
●良妻賢母を念頭に
「すてきな奥さん」の前身は、終戦後の1946年に創刊して47年続いた月刊誌「主婦と生活」です。良妻賢母を念頭に、料理や家事の知恵を専門家に聞くというスタイルでした。
男性が一家の大黒柱として専業主婦と子どもを支える核家族世帯が主流となるなか、90年に「すてきな奥さん」は創刊されました。同誌の編集長(39)は「女性たちが主婦としての自分に自信を持っていた時代だった」と見ています。
同誌は一般家庭の暮らしの知恵を紹介する新しいスタイルを確立し、創刊号では「普段の暮らしの中にもワクワクできる“ときめき”がある」と題した特集を組みました。だがバブルが崩壊し、97年に消費税が5%に増税されると、「節約」と「貯金」が2大テーマになっていきました。
●働く母親に狙い
一方、時代とともに女性のライフスタイルは多様化していきます。昨年末に行った読者アンケートでは、4割が仕事を持つ「兼業主婦」であることが判明しました。さらに仕事を持っていない6割の読者のうち9割が「2014年からは働きたい」と考えていることがわかりました。編集長は「働く女性が増え、『時間がかかってもお金を節約したい』より『多少お金がかかっても時間を節約したい』と考える女性が増えてきた」と指摘します。
こうした傾向は少しずつ顕著になってきて、主婦向け生活雑誌が次々と休刊を発表。08年には「主婦の友」(主婦の友社)が91年の歴史に終止符を打ち、「おはよう奥さん」(学研)も昨年10月号で休刊しました。
後継誌「CHANTO」のテーマは「働いていても、家事も育児も自分のことも『ちゃんと』したい」。働く母親の声をもとに、時短術や便利グッズなどを紹介します。
編集長は引き続き重責を担いますが、「目指すのは完璧ではなく、うまく回すこと。『生活の知恵』にこだわり、女性に『幸せな毎日』を提案していきたい」と話しています。

(出典:毎日新聞生活報道部、https://www.kyoeikasai.co.jp/kpa/agent/monosiri2014-12.htm


 バブル経済期には、高度経済成長期とは異なり、人々の意識はいっそう自由なものとなり、価値観も多様化していった。さまざまな商品が人々の欲望を刺激し、人々はファッションやライフスタイルを通して個性を表現しようとした。

資料 西武百貨店のコピー「おいしい生活。」(糸井重里、1982〜83年)


 また、従来は欧米諸国に比べ遅れた側面が取り沙汰されることの多かった日本や日本文化を、再評価する動きもさかんになった。日本文化論の隆盛である。

資料 エズラ・ヴォーゲル『ジャパンアズナンバーワン』
いずれにせよ、今日の諸制度の効率性を追求し、脱工業化時代に向けて焦眉の問題に対してあらかじめ対策をたてるという意味で、日本はナンバーワンである。狭い国土と乏しい資源しかもたずに、過剰な人口を抱えた日本が、経済、教育、保健、治安などの各方面に成果をおさめていることは他の国の追随を許さない。


 子どもたちの世界にも変化が見られる。1970年前後から「校内暴力」が問題化し、1980年代以降、「いじめ」や「学級崩壊」など、以前は取り沙汰されなかったような変化が「問題」として取り沙汰されるようになった。



中国

サブ・クエスチョン
1980年代以降、中国経済が急速に発展していったのはなぜだろうか?

 中国では、1966年以降の文化大革命により、国内の社会経済が混乱に陥った。1976年に周恩来、毛沢東が亡くなると、党主席となった華国鋒は海外からの技術導入による重化学工業化を進める方針を示した。
 その後、鄧小平が事実上の最高指導者となると、「改革開放」が推進され、市場経済の導入と工業化が、中国共産党による一党独裁を維持したままに推進されていくこととなった。
 ゆきすぎた社会主義化を是正し、沿岸部の経済特別区には、外国資本を誘致した工業発展がめざされた。
 1980年代になると中国経済は急速に発展し、その分、中間層も増えた。中間層の若者は政治的な権利を要求し、1989年には天安門事件が起こされたが、軍による弾圧を受けた。
 しかし、民主化要求をおさえこみつつ市場経済を導入する「改革開放」の路線はその後も継続され、1992年には「社会主義市場経済」が掲げられた。鄧小平の死後、2000年代には市場経済のグローバル化の恩恵を受け、「世界の工場」としての地歩を築いていくこととなった。


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3-2-3-1. 開発援助の世界史

 以下のリンク先を参照。



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