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12.1.2 アラブ民族の目覚め 世界史の教科書を最初から最後まで

18世紀半ば(今から270年ほど前)、イブン=アブドゥル=ワッハーブという人(1703〜92年)が、アラビア半島でイスラーム教の改革運動をおこす。


「われわれアラブ人が、オスマン帝国のトルコ人や、カージャール朝のイラン人に比べてしょぼくなってしまったのは、トルコ人やイラン人のアレンジしたイスラーム教を、アラブ人が受け入れてしまったからだ。
そもそもイスラーム教はわれわれアラブ人が広めたもの。
神秘主義や聖者崇拝のように、預言者ムハンマド本来の教義をむやみにアレンジするのではなく、オリジナルの教えに立ち返ろうじゃないか!」


このように説くワッハーブにしたがったアラブ人たちはワッハーブ派とよばれ、アラビア半島中央部の有力者であったサウード家と

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コラボし「ワッハーブ王国」(1744頃〜1818年、1823〜89年)を建国した。


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これが現在の「サウジアラビア🇸🇦」の源流だ。


彼のすすめた運動は、今日までつづく「イスラーム教を改革しようとする運動」(イスラーム改革運動)のルーツともいえる。




その思想はオスマン帝国の支配を「おかしい」と考えるようになったアラブ人たちにも受け入れられ、各地のアラブ人が「自分たちはアラブ人、アラブ民族なんだ」と自覚するきっかけをつくっていくこととなった。

もちろんその背景には、「国民としてのメンバー意識」を強めて、国力をパワーアップさせていったヨーロッパ諸国のやり方を学ぼうという意識がある。




19世紀初めのオスマン帝国支配下のシリアでは、アラブ人のキリスト教徒の知識人のあいだで、アラブ文化の復興運動も起きる。

「アラブ人といったらイスラーム教徒なんじゃないの?」って思うかもしれないけれど、そんなことはない。オスマン帝国のエリア内では、キリスト教徒だけでなくユダヤ教徒を信じるアラブ人も大勢暮らしていた。

ヨーロッパ諸国の容赦ない進出を受け、弱体化していたオスマン帝国に対し、「こうなったのは、トルコ人の腐った支配のせいだ!」と非難。「こうなったからには、われわれは宗教・宗派を超え、「アラブ人」として独立を勝ち取らなければ、やられてしまう」と訴えた。
そして、キリスト教徒のアラブ人を中心に、その地で広く使われていたオスマン帝国の言葉(オスマン=トルコ語)やギリシア語に代わり、「アラビア語」を見直そうじゃないかと提案。19世紀末以降に展開するアラブ民族運動への道を切り開くこととなる。

ただ、さまざまな宗教・宗派の人々がひしめくシリア地方(現在のシリアとレバノン)では、キリスト教徒とともに「アラブ人」としてひとくくりにされることを嫌ったイスラーム教徒の有力者も多く、まとまりの欠ける状況が続いていくよ。

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エジプトは地中海からアジアに向かう重要ポイント!


さて、そんな激動の中、1798年にフランスのナポレオンはエジプトを占領。


ナポレオンは「自分はイスラーム教徒の味方だ」と宣伝するも、支配は困難をきわめ、まもなくエジプトを確保しようとするイギリスとオスマン帝国の連合軍に破れた。


双角のフランス軍帽とターバンの二つをかぶったナポレオン 「冷徹な植民地主義と奇妙なロマンティックな夢がまじり合ったナポレオンの性格がよく表現されている」(加藤博『ムハンマド・アリー』山川出版社、2013年、15頁)


その後エジプトに対するオスマン帝国の支配権が回復したんだけれど、混乱状況の中で治安を回復させることに成功したムハンマド=アリーに人々の注目があつまった。

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彼はカイロ市民や高名なウラマーの支持を得て、オスマン帝国のエジプト総督(在位1805〜1848年)に就任。
これを1805年にオスマン帝国に認めさせた。
形の上ではオスマン帝国の領土の一部であるものの、その後もエジプトはムハンマド=アリー一族が世襲(せしゅう)することになるので、この国家を「ムハンマド=アリー朝」のエジプトという。


史料 同時代人のフランス人歴史家の記録
(フェリックス・マンジャン、アラブ世界に関するフランスの歴史家。ナポレオンのエジプト遠征に参加。1823年に『ムハンマド・アリー統治下のエジプト小史』を著した)
「フランス革命の最初期におけるフランスと同じ熱狂が支配した。誰もが武器を買っている。…すべてをとりしきっているのはウマル・マクラム師である。彼はほかの指導者たちより豪胆で気骨があり、それゆえに、より影響力を持っている。…ムハンマド・アリーは引き続き、彼の主たる力である民衆と提携している。」

加藤博『ムハンマド・アリー』山川出版社、2013年、19頁。


史料 同時代人のエジプトの歴史家による記録
ジャバルティー(1753〜1825/26)近代エジプトの歴史家。年代記『伝記と歴史における事績の驚くべきこと』


「月曜日の朝、彼らはカーディー[裁判官]の館で会合をもった。ふたたび、多くの民衆が集まった。しかし門戸は閉じられ、人びとはカーディーの館に入ることはできなかった。サイード・アガーと多くの群衆であった。彼らは集団でムハンマド・アリーのところに行き、彼に言った。「われわれはこのパシャ(おすまんていこくの任命した新エジプト総督)を、われわれの支配者として望まない。彼は総督職から離れるべきである」。
[ムハンマド・アリーは]言った。「それでは、君たちは誰を総督として望むのかね」。
彼らは言った。「われわれが受け入れるのは、あなただけだ。われわれは、あなたが公正で善良な人物だということを知っている。あなたは、われわれの条件にかなった、われわれの総督になるだろう」。
最初、彼は断った。それから受け入れた。彼らはムハンマド・アリーに毛皮のコートとガウンをもっていった。サイイド・ウマル(ウマル=マクラムのこと)とシャイフ・シャルカーウィーが、それらを彼に着せた。それは昼下がりのことであった。その夜、このことは、市中において公に宣告された。」

加藤博『ムハンマド・アリー』山川出版社、2013年、17-18頁。
1804年、オスマン帝国が任命した新エジプト総督に対する反発から、カイロで暴動が起きた。指導者は、ナポレオン軍に対する市民蜂起[注:フランス軍撤退の後のカイロでは、フランス軍によっていったん排除された旧支配層マムルーク勢力、オスマン帝国軍、その有力な一翼アルバニア軍、さらにはイギリス軍が三つ巴、四つ巴の対立・抗争を繰り広げていた]を誘導したウラマー、ウマル・マクラムであった。翌年の1805年、ムハンマド・アリーはカイロ市民の支持を背景に、ウマル・マクラムからのエジプト総督就任要請を受け入れ、オスマン帝国も、これを追認した。
なお、ウマル・マクラムは、カイロのアズハル学院の指導的なウラマー。また、シャイフ(長老)は高名なウラマーで、政治権力者と庶民の間の仲介者としての役割をもっていた。



ムハンマド=アリーが目指したのはエジプトをヨーロッパに負けない強国にすること。
そのために、古いやり方の一掃、そしてヨーロッパ式の国づくりの徹底的な導入をおこなった。


フランス式の陸海軍をつくるため、軍を牛耳っていたマムルークをカイロの城塞にまねきよせて一気に虐殺。

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さらに蒸気船をつくるための工場など国営の工場を設置。
出版物を大量に刷ることができる印刷所も建設した。
また、経済力をつけるため、欧米に販売するための綿花などの作物を奨励し、農産物を国が専売。教育制度も改革した。


史料 ムハンマド・アリーの国民観

「私は、私のすべての臣民に同じ負担を課し、同じ奉仕につかせようと決意した。私は、シャイフ(指導的ウラマー)であれ遊牧民であれコプト(キリスト)教徒であれ、カイロの住民であれ農民であれ、そのほかの階層の犠牲のもとに、一つの階層を優遇することなどしない。すべては平等だ。(シニアー『エジプトとマルタでの会話録と日誌』)

加藤博『ムハンマド・アリー』山川出版社、2013年、54-55頁。


こうした「富国強兵」の政策を背景に、強気となったムハンマド=アリー。
アラビア半島のワッハーブ王国(1744年頃〜1818年)を退治するために、オスマン帝国がムハンマド=アリーに軍を出すことを要請すると、エジプト軍はワッハーブ朝を滅亡に追い込むことに成功。
さらにオスマン帝国に「シリアを領有する権利がほしい」と求め、拒否されると、2度にわたりオスマン帝国と戦争。
これをエジプト=トルコ戦争(第一次1831〜33、第二次1839〜40年)という。


一見「エジプト 対 オスマン帝国」の1対1の戦いにも見えるけれど、実はそう単純な構図じゃない。

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エジプトとオスマン帝国が争っている状況で、ヨーロッパ諸国は両者をそれぞれサポート。
エジプトを治める最終勝者と仲良くしておけば、地中海からアジアに抜ける重要ポイントをおさえることができるからね。

フランス王国はエジプトを、ロシア帝国はオスマン帝国をサポートする形に。

これを見たイギリスの外務大臣は「ロシア帝国が南下したらマズい。しかもフランスがエジプトと結びつくのもマズい」と判断。
それにエジプトが強国化して、アラビア半島周辺に進出すれば、「インドへのルート」に危害が及ぶ恐れがあるから、それも回避したい(実際にイギリスはすでにペルシア湾岸と、紅海沿岸に拠点を築きつつあった)。

1840年にロンドンで国際会議(ロンドン会議(1830年のロンドン会議とは別もの))を主宰し、以下のことを関係各国に合意させた。

・エジプトに対しては、オスマン帝国が「宗主権」(そうしゅけん)を持つ
・しかし、エジプトの総督には、ムハンマド=アリー 一族が世襲する
・ムハンマド=アリーはエジプトとあわせスーダンも支配する


どうだろう?

エジプトをサポートしていたフランスにとってみると、「オスマン帝国がエジプトに対する「宗主権」を持つ」というのだから、エジプトへの進出を邪魔された形。
また、オスマン帝国にはエジプトに対する「宗主権」を認めてあげたということで、イギリスは“恩を売る”ことができる。
じつに鮮やかで“ずるがしこい”外交だよね。


こうして、国際的には独立国家ではなく「オスマン帝国の一部」として処理されることになったムハンマド=アリー朝のエジプト。
その後は、近代化と戦争によってかかえた莫大な債務(返済しなければいけないお金)に苦しむことに。
「返せないんだったら、お前んとこの国の財布を管理させてもらうぞ」と、イギリスとフランスは1860年代からエジプトを財務管理下に置いてしまう。


1869年にはフランスが資金を注ぎ込んだ「スエズ運河」が開通するも、その半分の資本を提供し、財政的にも苦しんだエジプトは、1875年にスエズ運河会社の株式のうちの4割を、なんとイギリスに売却
船に乗ったまま地中海からインド洋に至るルートである「スエズ運河」の支配権を握ったことで、イギリスはますますエジプトへの介入を強化する。


こうした状況に反抗した人物が、軍人のウラービー(オラービー、1841〜1911年)だ。彼は「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、「憲法をつくろう」と1881年に運動(ウラービー運動)を起こすと、さまざまな階層の人々がイギリス支配に立ち向かった。

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史料 ウラービーの主張(1881年)
3、…エジプト国民党(エジプト初の民族主義政党)は外国に対する債務を—それがエジプトのためではなく、ある不誠実で無責任な支配者の個人的利害のために生じたものであることは知りつつ—国家の名誉にかかわるものとして全面的に受け入れることを宣言し、国民的な責務を完全に果たすため、財政管理官たちに協力する用意がある。しかしながら…国民党の目的は、いつの日かエジプトが完全にエジプト人の手に委ねられるのを見ることである。

歴史学研究会編『世界史史料8』(一部改変、実教出版『世界史探究』)


しかし、1882年にイギリスはエジプトを単独占領。
事実上エジプトの政治をコントロール下に置くことに成功した(イギリスによるエジプト=スーダンの保護国化)。

しかし、その後もエジプト人の中からイギリス支配に対する抵抗運動は根気強く続いていった。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊