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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第25話 冷戦下の戦後体制・高度経済成長と国際環境の複雑化(1953年~1979年)

アメリカとソ連の「にらみ合い」が続く中、国際関係が複雑化する時代

※時系列がわかりやすいように、一部に年(・月・日)を付記しました。

【1】東アジアは、引き続き冷戦に翻弄される

ソ連側に立つか、アメリカ側に立つか。それをめぐってアジアは大きく影響を受けていますね。

―朝鮮半島で大きな戦争(注:朝鮮戦争)が起きていたよね。
 北の朝鮮が韓国に侵攻したことが発端だ。
 北をソ連と中華人民共和国、南の韓国をアメリカがバックアップする形となった。

 しかし、ソ連の最高指導者(注:スターリン)が亡くなったことがきっかけで、朝鮮半島は休戦(注:板門店での朝鮮休戦協定)。


 ベトナムでも、同じように北をソ連、南をフランスがバックアップする形で戦争が起きていた(注:インドシナ戦争)。こちらもフランス劣勢のまま休戦した。


「休戦」ってことは、決着はついていないってことですよね。

―うん。実質的には「先延ばし」だ。

 ベトナムからはフランスが撤退したんだけど、そこへ今度はアメリカ合衆国が「社会主義を広めない!」という使命感から南側の政府をバックアップしたもんだから、その後アメリカは北の政府との泥沼の戦争に突進していく。
 最終的にあきらめて撤退するけどね。


アメリカかソ連側の「二者択一」意外に、チョイスはなかったんでしょうか?

―「アメリカでもなくソ連でもない、第三の選択肢」を掲げる指導者も現れるよ。

 ソ連との関係が悪くなった中国が、インド、スリランカ、パキスタン、ビルマ(以上は元イギリスの植民地)、インドネシア(元オランダ植民地)と組んで、「アメリカ合衆国とソ連よ、いつまでアジア、アフリカを困らせるんだ!」とクレームをつけたのがはじまりだ。

 インドネシアでも、アジアやアフリカの植民地から独立した諸国が集まって、「わたしたちはアメリカにもソ連にもつかない!」と宣言した。


日本が戦争中に与えた被害に対して、なんらかの補償はなされたんですか?

―講和条約の中には、こんな規定があった。

第14条(a) 日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。

 でもアメリカ政府は、日本にはいちはやく復興してもらったほうが東アジアに盤石なパートナーができると期待していた。
 そこで、講和条約にはあわせてこんなふうな規定がもうけられた。

第14条(b)この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する

 こうして、ほとんどの国では、国単位の賠償請求権は「チャラ」にされたのだ。

たしかに、第一次世界大戦後のドイツのような「莫大な賠償金」が日本にも課せられたって話は聞かないですよね。

―そういうこと。
 返しきれないほどの賠償金を課したことが、第二次世界大戦の原因になったということへの反省もあったけど、アメリカ政府による東アジアでの「足場固め」という思惑も絡んでいたんだ。


でも、戦勝国に対する何らかの補償はされなかったんですか?

―「賠償」の代わりに導入されたのが、国別に資金を提供したり、貸し付けたりするというもの。無償で経済協力をする場合もあった。
 また、日本国外にあった資産を、現物でそれぞれの国に提供している。

どれも国に対する対応ですけど、個人に対する補償はあったんですか?

―個人に対する補償はサンフランシスコ講和条約の中に明記されていないけど、講和の時点で国への補償と同じく「放棄」されたものと見なされている。
 のちのち個別に講和した国の場合も、同様だ。

 しかし、個人が国を相手どるのではなく、個人が国ではない主体(企業など)に対して賠償を請求できるかについて、現在にいたるまでしばしば問題となり続けている(注:中国人の個人賠償請求権が棄却された地裁判決元徴用工の個人請求権問題)。

)サンフランシスコ講和条約にもとづき、フィリピンと南ベトナムに対して賠償をおこなった。
 サンフランシスコ講和条約の調印を拒否したビルマとは個別に賠償の協定が結ばれた
 同じく調印を拒否したインドとは、個別に講和条約が結ばれ、このときに賠償の請求権が放棄された。
 インドネシアはサンフランシスコ講和条約に調印したけれども、国内で批准(ひじゅん)されなかったため、その後個別に賠償に関する協定が結ばれている。

 一方、戦前に日本の植民地だった台湾、北朝鮮韓国に対する賠償や、サンフランシスコ講和条約に参加しなかったソ連ポーランドチェコスロバキアに対する賠償は、個別の検討課題として残されることになった。

 日本と中国(中華人民共和国)との間に賠償金の問題は存在しないが、のちのち政府開発援助(ODA)という形での円借款、無償資金協力、技術協力がおこなわれることになる。

  
アメリカ側についた国々には、何かメリットがあったんですかね?

―経済的なメリットが大きい。
 たとえば、日本、韓国、フィリピンやタイ、シンガポールといった東南アジアの国々はアメリカ側についたよね。

 どの国も、国が大きな力を発揮して、一致団結した経済成長が図られていったよ。

 順番的には日本がトップランナーとなり、それを韓国やシンガポールが追いかけていったんだ。

 日本の場合は、こう。
 太平洋岸に鉄鋼の工場や石油化学コンビナートをじゃんじゃん建てる。
 復興のためには鉄鋼やアルミニウムといった、産業に欠かすことのできない基本的な素材(注:基礎素材型産業)の生産力をアップすることが重要と考えられたんだ。
 それが一通り発展すると、今度は自動車や電化製品・電子部品(コンピューターの頭脳の部分)を組み立てて輸出する産業(注:加工組立型工業)が発展していく。

 この経済成長の過程では、「独裁なんじゃないの?」って思える指導者もなかには現れるよ(注:開発独裁)。
 社会主義を広めないためには、少々「手荒」(てあら)な指導者であってもやむを得ないと考えられたんだ(注:韓国の軍事政権台湾の戒厳令。日本の自民党の長期政権)。
 「アメリカのいうことさえきっちり聞いてくれればいい」というわけだ。


ひとつの国が経済成長を遂げれば、自然とその地域全体が「アメリカ中心の経済のしくみ」にしたがうようになるって考えられたんですね。

―まるで渡り鳥が、1匹を先頭にしてV字型に群れを引き連れていくような形をイメージしたんだね。
 これってあくまで、アメリカが政治的に大きな影響を与えていたからこそ実現したわけで、ほかの地域でも通用するモデルとは限らない

 当時の東アジアには、アメリカによって、日本・韓国・台湾に軍が駐留され、社会主義の拡大を防ぐための「重要なパートナー」と位置づけられる特殊な状況があったからね。


どうしてアメリカの力が必要だったんでしょうか?

―核兵器を持っている国は、この時代の当初、アメリカ、ソ連、イギリスだけだった。
 核兵器をもっていれば、相手は怖くて攻撃できないと考えられていたため、日本は核保有国のアメリカの後ろ盾を求めたわけだ(注:核の傘)。


でも、日本は唯一の被爆国ですし、反対もあったんじゃないですか?

―そうだよね。
 特に、当時ちょうどアメリカが太平洋で核実験をおこなっていた時、なんの知らせも受けず近くを通っていた日本の漁船に放射性物質が舞い降りた。

 これにより漁船の乗組員の一部が死亡(注:第五福竜丸事件。1954.3.1)。


 「唯一の被爆国」として「ゆるせない」という声が全国各地で強まり、この翌年には広島で核爆弾に反対する世界大会(注:第1回原水爆禁止世界大会。1955.8.6)がひらかれた。

こんなことになるんじゃ、ソ連グループについてもアメリカグループについても大変そうですね。

―って考える国も現れるようになる。
 とくに、第二次世界大戦後に独立した国々は、ソ連と距離を置き始めていた中華人民共和国の指導者(注:周恩来)のバックアップを受けて、「ソ連でもアメリカでもない第3のグループ」(注:第三世界)をつくろうとしていった。

 まず、スリランカ(当時の国名はセイロン)での話し合い(注:コロンボ会議。1954.4.28-5.2)でアジアやアフリカを支配下に置くのを当たり前とする考えに猛反発。この会議は、当時スイスのジュネーヴでおこなわれていた、インドシナでの戦争の休戦会議(注:ジュネーヴ休戦協定。1954.7)にも大きな影響を与えた(フランスからのベトナム、カンボジア、ラオスの独立が認められた)。

 さらに、1年後にはインドネシアのジャワ島にアジア、アフリカの独立したての国々(下の地図が参加国)が中心となって、「第3のグループ」の結束を世界にアピールした。インド、エジプト、インドネシアの指導者の果たした役割が大きいね(注:アジア・アフリカ会議。1955.4.18)。

 

* * *

【2】アメリカ軍の日本駐留は続いた

まだ世界には植民地がたくさん残っていますね。

―おまたせ。この時代、ようやく植民地が独立していく。

よかった!

―そうとも限らないんだ。

 そもそも植民地だったところがそのまま「ひとつの国」として独立するのは、とても難しい。その境界線は、地元の「文化の境界線」を無視してヨーロッパ諸国が勝手に決めたものだからだ。


長い間、支配に置かれていただけあって、複雑なんですね…。


―複雑といえば、国際関係は前よりもっと「複雑」になる。



冷戦ですね。


―そう。冷戦というアメリカとソ連のにらみ合いだ

 しかもお互いが直接戦闘するのは避け、周りの国々を巻き込んでグループをつくることで対立するというやり方だ。

)2度目の世界大戦が終わってからというもの、自由な競争を認め、地球上どこでも好きなように取引ができるよう状態を目指すアメリカと、その反対に自由な競争を禁止し、「貧富の差」をなくそうとしているソ連の「にらみ合い」が続いていたね。

どうして直接対決しないんですか?


―お互い核兵器を手にしてしまったがために、「直接対決」には「恐ろしすぎて」踏み込めないんだ。
 そのかわり「子分」たちに、ライバル国の「子分」と戦わせ、自国の「理想」に従ってくれる地域をできる限り増やそうとしているよ。
 「理想」といっても、支配するための「口実」に過ぎないのだけれど。



世界のいろんな地域が、アメリカとソ連のいずれかの「正義」に従うかによって「色分け」されていったということですね。

―そういうことだ。

日本はアメリカのグループに入っていましたね。

―そうだね。

 日本が占領国と結んだ条約には以下のような規定が盛り込まれていた。


第6条(a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない

…どういう意味ですか?

―「占領」が終わっても、別の協定が結ばれれば、外国の軍隊が「駐とん又は駐留」してもいいよっていうことだ。

別の条約とは、日米安保条約のことですね。

―そうそう。
 日本の講和条約は、アメリカが軍を日本に駐留させつづけることとセットだったわけだ。
 日本は憲法で「軍を持たない」とうたっている以上、自国だけで防衛することはできない。
 アメリカの軍事力を借りようという発想だ。

 でも、これでは憲法の内容と矛盾がのこるもの事実…。


前の時代の終わりには、「だったら憲法を変えてしまって、軍を持てるようにすればいいじゃないか」(注:親米改憲)という主張も出ていましたね。

―そう。
 そもそもアメリカ軍の軍事力を頼りにする方針を決めた首相は、「憲法を変える必要はない」「そのままアメリカとの関係を維持することは可能だ」という立場だった。
 それに反対する意見が出始めていたわけだ。

 でも、日本に駐留しているアメリカ軍が、「どんな場合」に出動するのかについて、あいまいな点が残っていた。
 たとえば、この第4条。

第4条 締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。

「極東」?

―辞書や事典を見てみよう。

〔1〕東の果て。〔2】ヨーロッパから見て、最も東方にある、日本・中国・朝鮮半島・シベリア東部の称。 (デジタル大辞泉)

東アジア諸国およびその周辺地域の総称で,一般には日本,中国,朝鮮,モンゴル,東シベリアなどを指すが,ときには東南アジアまでも含めることがある。(世界大百科事典)

いろんな定義がありそうですね…。

―例えば東南アジアで「何か」が起きたら、日本にあるアメリカ軍の基地から兵力が出されることがある。
 でもそんなことになったら、日本と関係のない戦争に「巻き込まれることはないだろうか」という主張も出てくる。



なるほど。アメリカの意見に従うか従わないか。憲法を変えるかそのままにするかというところで、意見が分かれたわけですね。

―そういうこと。
 反対派(注:反米護憲派)の日本社会党や共産党、さらに労働組合などは、「これでは戦時中に逆戻りじゃないか」(注:逆コース)と批判した。
 石川県(注:内灘)や東京(注:砂川)ではアメリカ軍の基地に反対する運動も盛り上がっている。

―こうした反対運動を受けながらも、首相(注:第5次吉田内閣)は、アメリカが日本に経済的・軍事的な援助を与えられるようにする取り決め(注:MSA協定)を結んだ。
 こうして、航空部隊をあたらしく設け、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ための組織(注:自衛隊)を組織したんだ(防衛庁が管轄する)。

)この組織の最高指揮監督権は総理大臣にあり、その下で防衛庁の長官が隊務を統括することとされた。自衛隊が出動できるシチュエーションには防衛出動と、災害時の治安出動がある。

「第5次内閣」だなんて、かなり長い間総理大臣を務めていたんですね。

―でも、自衛隊の発足を「不安視」する声もあがるなか、この人(注:吉田茂)の方針に反対する勢力も増えていった。

 彼と同じ政党(注:自由党)にいたライバル(注:鳩山一郎)は、反対派(注:岸信介(きしのぶすけ)ら)を呼び集めて新しい政党(注:日本民主党)を結成。
 アメリカの軍事力を頼ることで経済復興をめざそうとした首相に反対し、いまいちど「戦後の日本を自分たちの手でつくりなおそう!」と訴えた。

 スキャンダル(注:造船疑獄)の影響もあって内閣が倒れると、戦前の政治家たちを呼び寄せて新しい内閣がつくられた(注:第1次鳩山一郎内閣)。

大きな路線変更ですね。

―前の首相の内閣には「官僚出身者」が多かったからね。


どんな政策をとったんですか?

―アメリカとの同盟だけを外交の軸にするのではなく、思い切って中国やソ連とも国交を回復させ、「再軍備」が堂々とできるような憲法の改正もおこなおうとしたんだ。
 憲法の改正のためには、議席の3分の2の賛成が必要だ。
 しかし、翌年(1955.2)の総選挙で首相率いる与党(注:日本民主党)は過半数を割り、同じく社会主義に反対する政党(注:自由党)と組んだとしても、3分の2の議席を占めることが難しくなった。


憲法改正に反対する党が議席を伸ばしたってことですか?

―社会主義をめざす政党の急進派(注:社会党の中の左派)が議席を伸ばしたよ。
 でも、敵対する政党(注:日本民主党と自由党)に比べると、まだまだ数は少ない。
 というのも、社会党の中で「アメリカ軍の駐留」をめぐる対立があったからだ(注:社会党の右派との対立)。

)サンフランシスコ講和条約には賛成するが、日米安全保障条約に反対するグループは社会党の「派」と呼ばれた。右派は社会保障を充実させるなどして、平等な社会をゆっくり実現させようと考えていた。
 一方、サンフランシスコ講和条約にも日米安全保障条約にも反対するグループは社会党の「派」と呼ばれた。左派のほうが、より一層急進的に社会主義をすすめようとしていた。左派は革命によって、急激に平等な社会を建設させようと考えていた。

 しかし、そのことで対立していれば、保守的な政党が一致して憲法改正に向かってしまうかもしれない。
 そう恐れた右派と左派はタッグを組み、統一した日本社会党をつくることにした(1955.10.13)。
 そうすれば、全議席のだいたい3分の1を確保できることになり、憲法の改正をブロックすることが可能となる。

 対抗して保守的な政党2つが集まって(注:保守合同)、あたらしい政党を立ち上げたよ(注:自由民主党。1955.11.15)。

自由民主党 党の使命(1955.11.15)
 …思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。この間隙が新たなる国際情勢の変化と相まち、共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり、その急激な台頭を許すに至ったのである。
自由民主党 党綱領(1955.11.15)
六、 独立体制の整備
 平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。
 世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。


 こうして保守グループは全議席のぎりぎり3分の2に届かないくらいの議席を占めることとなった。

 仮にこの保守グループが3分の2以上になったら、憲法を改正して日本の「再軍備」を可能とすることも夢ではなくなる。
 でもそうなると、「日本には軍がないのだから、アメリカ軍に国防を頼っているのだ」という前提が崩れてしまい、まずは「復興」「経済発展」をめざす日本にとって大きな重荷になってしまう。


つまり3分の2のバランスが崩れると、具体的に憲法を改正する問題に発展し、アメリカもからむ問題になってしまうということですね。

―そう。だから、この保守グループ:革新グループ=2:1というバランスは、改正が問題にならないギリギリのあんばいだったんだ。
 この比率が始まって以降、アメリカとソ連の対立が終わるまでの日本の政治体制を「55年体制」と呼ぶよ。


実際に当時の内閣は憲法改正をしようとしたんですか?

―「憲法改正」をかかげたものの、二の足を踏んでいる状況だ(注:国防会議)。
 
 というのも、国際情勢が大きく動いていたからだ。

* * *

【3】スターリン批判によってソ連グループが動揺した

―この時期の初めにソ連の最高指導者(注:スターリン)が亡くなったことが、波紋をひろげている。

どうしてですか?

―ソ連内部で、この最高指導者の独裁にウンザリしていた人たちが、次の指導者のポストを目指して競争をはじめるようになった。
 その結果、最高指導者にのぼりつめた男(注:フルシチョフ)が、前・最高指導者を批判する秘密報告(1956.2.25)がなされ、その内容がアメリカ政府に漏れたんだ。

 これを知った世界の国々は、ソ連の内部で仲間割れが起きていることを知った。いままで「子分」としていうことを聞いていた東ヨーロッパの国々の中には「もうつきあいきれない」とソ連の方針にNOを突きつけるところも現れた。

アメリカの対応は?

―核兵器の配備など、お金がとってもかかっていたから、ここでいったん緊張をゆるめようという動きにつながった。

 そこで、いったん「頭を冷やす」時間がもうけられたんだ(注:雪どけ)。


日本はどんな方針をとったんですか?

―当時の首相(注:鳩山一郎)は、この年にソ連のあたらしい指導者に接近。

 首相はソ連を訪れ、ソ連との国交の回復にこぎつけた(1956.10.19)。
 首相のアメリカとの関係だけにこだわらない態度が評価されたんだ。

 共同宣言(注:日ソ共同宣言)を出して、戦時中の賠償請求権をお互いにチャラにしている。
 でも「平和条約」を結ぶところにまでは至らず、先送りにされた。

どうしてですか?

―戦争末期に条約(注:日ソ中立条約)に違反してソ連が占領していた、北海道の北東の島々(注:国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島)を日本に返還することを、ソ連がしぶったからだ。
 ただ、日本としては国際連合に加盟するにはソ連との関係改善が必要だった。
 領土問題については、将来、平和条約が結ばれることになったら、そのときに歯舞群島と色丹島を日本に返還することにしようという内容が、宣言に盛り込まれた。


 しかしだ。
 この直後、世界に激震が走る出来事が起きてしまう。

何ですか?

―ソ連の「子分」(注:衛星国)であったハンガリーで、ソ連の政策に反抗する暴動が起きた(注:ハンガリー事件)。
 前・国家指導者の死によって、ソ連にしばられずに自由なハンガリーをつくろうという機運が盛り上がったからだ(注:非スターリン化)。
 ソ連はこれを武力で鎮圧。ハンガリー人17000人が犠牲となり、20万人もの難民が生まれた。
 アメリカはこれに対する非難を展開した(1956.10.23)。

日本の反応は?

―前の年に統一していた日本社会党では意見が割れたものの、最終的には「ソ連に楯突いたハンガリーが悪い」という意見が目立った。共産党も動揺だ。
 当時の日本の多くの知識人は、ハンガリーに対して冷淡だったのだ。

)これについて日本共産党は次のように説明している。
「ハンガリー事件の起きた56年は、党がまだ自主独立の立場を確立する途上でした。それに、党の国際活動がまだ広がっておらず、情報がきわめて限られた状況も加わって、全体としては、「反革命鎮圧のためのソ連軍の介入」とのソ連やハンガリーの党の説明を受け入れる誤った態度をとりました。」(しんぶん赤旗 2008.1.12「1956年ハンガリー人民のたたかい どう考える?」より)

 しかし、その6日後には、中東でイギリス・フランス・イスラエルがエジプトに侵攻し、大きな戦争が勃発(注:第二次中東戦争(スエズ戦争))。
 ソ連は直接エジプトを支援しなかったけど、ソ連の子分であったチェコスロバキアはエジプトを支援。

国際社会の反応は?

―「イギリス・フランスは何やっているんだ!」という厳しい目が向けられたよ。
 その6日前には「ソ連はハンガリーに対して何やっているんだ!」というニュース一色だったのに、世界の注目は一気に中東に向けられることに。

 ソ連を問い詰めたかったアメリカにしてみれば、「イギリス・フランスは余計なことをしやがって」という話。

 世界が揺れる中、当時アフリカではまだ珍しかった独立国エチオピアの皇帝(注:ハイレ・セラシエ1世)が、国家元首としては初めて日本を公式訪問している。

 そしてその年末に、日本は戦勝国のつくった組織である国際連合に加盟することができたわけだ(1956.12.18)。


この内閣は長続きしましたか?

―ううん、ソ連との共同宣言をおこなった年には退陣している(1956.12)。

 代わって、保守グループ(注:自由民主党)の元・ジャーナリスト(注:石橋湛山(いしばしたんざん))が内閣を組織したけれど、病気により内閣はライバルの政治家(注:岸信介(きしのぶすけ))にゆずられた。

どんな人ですか?

―元・経済官僚で、国が主導で経済政策をまわしていこうとする新進気鋭の人物だった。
 その後、アメリカに開戦した内閣のメンバーとなったことから連合国によってA級戦犯として逮捕されたけど、起訴されずに釈放された経歴をもつ。

 首相に就任すると、さっそくアメリカとの関係を新しいものに変えようと動いた。



どんな変更をしようとしたんですか?

―アメリカが日本に駐留し、日本の防衛を担当することを可能にする条約(注:日米安全保障条約)があったよね。
 これを変えようとしたんだ。


当時の日本とアメリカの関係は良好だったんでしょうか?

―良好だよ。
 アメリカは日本を、社会主義が東アジアに広まらないための「反共(産主義)の砦(とりで)」とみなしていたからね。


 たしかに、当時のアメリカとソ連との間には一時的な関係改善がみられ、ソ連のトップがアメリカを訪問するなど(1959.9)、「雪解け」が進展していた。

 でも、国際情勢は刻一刻と変化し、いつソ連との対立が再燃するとも限らない。


 新しい日本の首相(注:岸信介)は就任後にアメリカを訪れ、大統領と会談。新しい条約を結ぼうということで合意した(1960.1)。

 彼が変更したかったアメリカとの条約の内容は、具体的には、経済面での協力をしつつ日本の防衛力も上げていきましょう、共同で防衛しましょう、アメリカ軍が日本で大きく動くときには事前に協議するようにしましょう、そして、条約の期限10年に設定し、その後は自動で延長できるようにしましょう、というものだ。

 反対派によって特に問題視されたのは、この新たな条約(注:新日米安全保障条約)の第5条だ。

)「第5条は、米国の対日防衛義務を定めており、安保条約の中核的な規定である。
 この条文は、日米両国が、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対し、「共通の危険に対処するよう行動する」としており、我が国の施政の下にある領域内にある米軍に対する攻撃を含め、我が国の施政の下にある領域に対する武力攻撃が発生した場合には、両国が共同して日本防衛に当たる旨規定している。」(出典:外務省 日米安全保障条約(主要規定の解説)

 そんな中、アメリカのスパイ飛行機がソ連に撃墜されるという事件が勃発。アメリカとソ連の関係は急速に冷え込んだ(注:U-2機撃墜事件)。

 反対派は「これでは不要な争いに巻き込まれてしまうおそれがある」として、総力をあげて反対運動をおこなった(注:安保改定阻止国民会議)。
 採決(1960.5.19)された後も反対運動は続き、デモが国会を取り巻く中、アメリカの大統領(注:アイゼンハワー)の訪日も中止となった(1960.6)。
 新たな条約のほうは、憲法の規定にのっとって「自然成立」をみた(1960.6.19)。


こんなに大勢の人が運動に参加したんですね。

―当時はまだ戦争の記憶も生々しいし、戦後の政治体制がスタートしたばかりで、人々の力で政治を動かすのではにかという気概も大きかった。

 実際に世界でも「古い時代」の象徴だったアフリカの植民地が、独立運動の結果次々に独立していた。

 上の地図の黄色い国が1960年に独立した国だ(注:アフリカの年)。
 そのほとんどがもともとフランスの植民地だったところ。
 前年に大統領が、「独立した後もフランスとの関係は継続してあげよう」(注:フランス共同体)と表明したことを受けて独立が相次いだのだ。 

)フランス共同体はのちに解消されたが、その後もアフリカの旧フランス植民地とフランスとの結びつきは、さまざまな面で残された。



***

【4】アメリカとの同盟を追い風に、日本は高度経済成長を達成した


 アメリカとの関係をめぐる混乱の責任をとって首相が退陣すると、後任となった首相(注:池田勇人(いけだはやと))はうってかわって「経済」に力を入れた政策を展開していく(1960.7)。

 10年間で所得を倍増させる!というスローガンをかかげて国民の意識を経済発展へと向けさせた(注:所得倍増計画)。

倍増なんてできたんですか?

―当時の日本経済の発展ペースをかんがえれば、実はむずかしい目標ではなかった。
 結果的に、その年の選挙では与党が大勝(1960.11)。
 アメリカとの条約問題で揺れた国会も、ひとまず「保守:革新=2:1」の比率が維持される形となった。

 その後、先ほどのスパイ機撃墜事件や、ベルリンの壁の建設などをきっかけに、アメリカ(注:大統領はケネディに交替していた(1961.1~))とソ連との関係が一気に冷却し、「第3次世界大戦」が起きるんじゃいかともいわれるほどの事件も起きた(注:キューバ危機)けど、その後は緊張緩和に向かっていく。

)キューバ危機の後も、キューバは社会主義の国づくりを進めていく。キューバで革命を指導した人物の一人(注:ゲバラ)はその後もラテンアメリカの別の地域で社会主義の革命運動を続けた。そのメンバーには日系人がいたことが、近年話題になった


日本はどうやって経済を発展させていったんでしょうか?

―日本の近くにある巨大なマーケットといえば中国だよね。
 この中国との貿易ルートを開拓したんだ。
 でもまだ当時、北京に首都を置く中華人民共和国との国交はない。
 国交のないまま、たがいの国に連絡事務所を置いて、政府が半分かかわる形での貿易だったんだ(注:LT貿易。1962.11~1968.3)。

 また、戦後の日本は国際社会の「荒波」の影響を受けずに済むよう、関税や為替レートの面で優遇されていた。
 でもいつまでも「過保護」の状況では、国際競争力はつかない。
 そこで、先進国並みの条件を導入することになった(注:GATT12→11条国(1963年)、IMF 14→8条国(1964年))。

本当に次々に「経済」に焦点を当てていったんですね。

―うん。きわめつけは東京のオリンピックだ(1964年)。
 このときに国内の高速道路、新幹線などの建設がすすみ、日本の復興を世界にアピールする絶好の機会ともなった。


日本がここまで短期間に経済発展できたのはどうしてでしょうか?

―やはり、アメリカを中心に、世界の広い範囲で「自由」に貿易がおこなえるようにしようという国際的な制度が整備されたことが大きかった(注:ブレトン・ウッズ体制)。

 アメリカに防衛を頼る形となったことで、予算面で経済発展に力を注ぐことが可能になった点も大きい。

 それに戦争前から、進学率・貯蓄率(注:郵便貯金財政投融資)が高い。

日本人は「勤勉」と言われますね。

―スローガンに向かって、国が音頭(おんど)をとってそれに従うのには慣れていたしね。年金や保険といった社会保障のしくみも、すでに戦時中に国民を一丸となってまとめあげるために整備がすすんでいた。

 ただ、世界的な視野で日本の経済成長をみてみると、燃料となった石油を安く輸入できた点も見逃せない。

石油って中東とかでとれますよね?

―そう。当時の中東(西アジア)の石油はアメリカやイギリス、オランダといった国々の企業が握っていた。

 というわけでアメリカのグループについた日本は、安く石油を仕入れることができたわけだ。

そうすると、石油をつかった産業が盛んになっていきますね。

―この時代には、石炭から石油へとエネルギーの主力がうつっていく(注:エネルギー革命)。

)この時期には、廃鉱になる炭鉱も相次いだ。三井三池炭鉱ではリストラに反対する大規模なストライキが起きたけど、会社側はこれを抑えている(注:三井三池炭鉱争議)。


 一方、石油をつかった自動車産業が、一躍日本の花形産業となっていくよ。


 日本の円とドルの交換レートは固定されていたので(注:固定相場制)、円安が進行して、日本製品を海外で安く販売することが可能となったことも「追い風」となった。

 同じころには西ヨーロッパでも経済成長が達成され、アメリカ合衆国の有力なライバルとなりつつあった。「ヨーロッパ独自の経済グループ」をつくろうという動きもあった。
 アメリカは特に日本の製品に規制をかけるようになっている(注:日米繊維交渉)。


 また、トラクターを導入することで経営規模を大きくする農家も増えていった。農家の収入を増やすことで、国内でお金を使う人を増やし、景気拡大につなげようとしたからだ(注:農業基本法)。


国内向けにはどんな物が販売されたんですか?

―まず白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれて「憧れの商品」となり、のちに車・クーラー・カラーテレビの「3C」が続いた。
 今ではほとんどの家庭にあるような物が、当時の日本人にとって生活をよりよくするための「目標」となったのだ。
 それに合わせて食生活などのライフスタイルも変わっていった。



 国内で「憲法改正」をめぐる問題が落ち着いたことで、それから立て続けに好景気が続いていった(注:神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気)。


 オリンピック後(1964.11)に首相となった人物(注:佐藤栄作)は長期政権を実現させ、棚上げになっていた外交問題を次々に解決させていった。


例えば?

―韓国との国交を樹立させたんだ(注:日韓基本条約。1956.6.22)。
 東京で結ばれた取り決めには、日本が無償・有償の援助を5億ドルおこなう代わりに、戦時中の賠償請求権を放棄するという内容が盛り込まれた(戦時中、朝鮮半島は日本の植民地だった。「韓国」が成立したのは戦後のことだから、「講和」という形ではない)。
 当時の朝鮮半島は、南北に2つの政権が並び立つ状態となっていたけれど、日本は南にある韓国を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」とした。

 日本も韓国もアメリカ・グループの側に属するから、もちろんこの条約にもアメリカによる強い後押しがあったんだ。


 また、急速な発展の影で起きていた公害問題にも目をむけた。公害問題が深刻化し各地で住民運動が活発すると、それに合わせて地方自治体の中には「企業の進出を阻止!」「福祉を重視!」といった目標をかかげる、社会主義の政党に近い知事や市町村長も現れるようになっていた(注:革新自治体)。
 こうしたことも背景にあり、対策のための法律(注:公害対策基本法 。1967年)や役所(注:環境庁。1971年)を設置したわけだ。

企業がまわりの環境のことを考えず、有毒物質を垂れ流した結果、各地で深刻な健康被害が起きていた(注:四大公害)。


* * *

【5】ベトナム戦争の影響は日本にも及ぶ

―そこでアメリカはベトナム北部の政権に対して、空爆を開始。

 沖縄や韓国のアメリカ軍基地からも、兵力が投入されていった。韓国軍も兵力を提供
 日本と韓国が国交を正常化させた背景には、ベトナム戦争に参加する韓国への支援を日本にやってもらおうという思惑もあった。


日本にもアメリカ軍基地はありますが、アメリカとベトナムの戦争が激化したら、「巻き込まれる」というおそれはなかったんですか?

―当然心配されたことだから、当時の日本ではさまざまな反対運動が起きたよ(注:べ平連)。

 核爆弾を積んだ空母(注:航空機を発着させることができる船)が日本に立ち寄るんじゃないかという疑惑も持ち上がり、港に入るのを阻止しようとする運動も起きた(1968年)。


反対運動はかなり大規模なものですね。

―当時は、中国(注:プロレタリア文化大革命)、フランス(注:5月危機)、アメリカ(注:ベトナム反戦運動)でも、学生が主体となって「権威に立ち向かおう」という運動が世界規模で起きていた。

 そのようなムードも手伝って、革命をめざす過激なグループが連携する形で、日本でも学生が中心となって運動が拡大していったんだ。

 しかし、運動はまもなく沈静化していった。

アメリカに反対する声は大きかったんですね。

―政治的には大きな問題になったけど、国民の多くはアメリカやヨーロッパの文化を積極的に受け入れていったよ。
 この頃、絶大な人気を博していたイギリス出身のロックバンド(注:ビートルズ)も、日本公演をおこなって爆発的なブームを巻き起こしている。
 日本にとってアメリカの文化は、遅れた日本を映し出す「」のような存在だったんだ。



 なお、アメリカとの条約に反対する過激なグループは地下での運動へと後退し、追い詰められていくこととなった(注:あさま山荘事件(1972.2.19~2.28))。また、反対に「戦後の日本はダメになってしまった」「憲法改正が必要だ」という過激な主張を行うグループも存在した(注:三島由紀夫らの楯の会)。


 ちなみに、空母反対運動の前年(1967年)には、首相(注:佐藤栄作)が、核兵器は「持たず、作らず、持ち込ませず」と表明していた(注:非核三原則)。
 だけど実際には、アメリカからの要求によって、核兵器の「持ち込み」はされていたことがわかっている。


これもベトナム戦争に備えてですか。

―そう。
 首相とアメリカの大統領との会談(注:ニクソン米合衆国大統領と佐藤日本国総理大臣による共同声明に関する合意議事録。1969.11)では、「沖縄を日本に返還する代わりに、沖縄に核兵器を持ち込めるようにすること」について「秘密の約束」が交わされていたことが明らかになっている。

 国内では過激な運動が続く中、沖縄の返還に向けた段取りが進められていく(注:祖国復帰運動)。
 ベトナム戦争が長引いたため、ますます近くに位置する沖縄の重要性が高まったんだ。

 一方、ベトナムからは船で脱出した難民(注:ボートピープル)が日本にも漂着している。


当時のソ連は、ベトナム戦争に対してどのような対応をとったのですか?

―ベトナムを社会主義国として統一しようとした北ベトナムを支援した。
 戦車などの重火器を提供し、派兵もしている。
 北ベトナムと、南ベトナムを拠点とした反政府武装組織(注:ベトコン)を勢いづかせたよ。

 社会主義国としては、中華人民共和国も北ベトナムを支援した。
 しかし、この頃、中華人民共和国とソ連の対立が深刻化(注:中印国境紛争)。

ソ連も中華人民共和国も同じ社会主義国なのに。

―当時の中華人民共和国では、指導者を中心に「ソ連に頼らない自主的な社会主義国」をみんなの手で建設しよう!という運動(注:プロレタリア文化大革命)が起こされていた。
 この運動の内実は、この指導者が政治のトップに君臨するための権力闘争だったわけなんだけどね。

ソ連グループは内部がガタガタですね。

―ソ連の「子分」であったチェコスロバキアでも、ソ連に距離を置いて自主的な改革をしようとする指導者が就任(注:ドプチェク。1968.1.5)。その後、ソ連グループ(注:WTO)は共同でチェコスロバキアでの自由化運動を武力で鎮圧。
 よその国に武力で介入するのはおかしいという批判もあったけど、「社会主義を守るためには、しかたない」とソ連の指導者は主張した(注:制限主権論)。


アメリカの反応は?
―事を荒立てるようなことはしなかった。
 当時、中華人民共和国との関係悪化にともない、ソ連の指導者(注:ブレジネフ)は、アメリカの大統領に接近する姿勢をみせるようになっていたから、ソ連側に配慮した形だ(注:米ソデタント)。
 

* * *

【6】アメリカが中華人民共和国に接近した


アメリカ軍による沖縄の占領はいつ終わったんですか?

―正式な協定が結ばれた1年後に、ようやく終了し、戦前と同じく日本の「県」となったよ(1971.5)。

 その直後、アメリカの大統領(注:ニクソン)は、突如、おどろくべき声明を発表した(1971.7.15)。

 なんと、今まで正式な国交をもっていなかった中華人民共和国との関係を改善させるというのだ。


中華人民共和国って社会主義の国ですよね。なぜですか?

―当時の中華人民共和国がソ連との間に深刻な対立を抱えていたというのは、先ほど紹介したよね。
 しかも、ソ連もこの時期にアメリカに接近する姿勢を見せていたから、アメリカの行動はまさに青天の霹靂(へきれき)!

 中華人民共和国は、「ソ連は、「覇権」を世界中に広げようとしている」と非難。
 同じ社会主義の国といえども、協調できないという態度をとっていた。


つまり、そこにソ連と敵対するアメリカ政府が歩み寄ったっていうことですね?

―「敵の敵は見方」というやつだね。

 もう一方で、当時のアメリカの大統領は、泥沼化していたベトナム戦争を終結させる方向に動いていたことも背景の一つだ。
 ベトナムからアメリカ軍を撤退させれば、ベトナムに社会主義の国ができてしまうかもしれない。
 そんなときに近隣の中華人民共和国との関係を改善させておくことで、「安心材料」を確保しておきたかったんだ。


じつに現実的な政策ですね。

―さらに大統領は、翌月に世界に向けてまたもや驚くべき政策を発表する。
 今後いっさい、アメリカのドルは、アメリカの保有する金と交換することができなくなるというものだった(注:金・ドル兌換停止。1971.8.15)。


 アメリカはベトナム戦争の長期化によって、対外的な支出が増え、保有する金(きん)が流出することに頭を悩ませていたからだ。


 同時に日本からの輸入品に対する課徴金が課されることになり、日本の輸出産業にも大きな打撃を与えることとなった。

 アメリカの保有する金が、アメリカの発行するドルと結び付けられることで、世界の経済を安定させようとしてきたのだけれど、それができないとなると、代わりのしくみを考えるしかない。
 その2年後(1973.2)には、ドルの価値を、各国の通貨のそのときそのときの評価によって変動させるしくみ(注:変動相場制)が新たにとられることになったよ。


 結局、中華人民共和国は国際連合に加盟(1971.10.25)し、今まで「中国を代表する政府」として認められていた台湾の政府は国連から脱退。
 代わって中華人民共和国が安全保障理事会のメンバーとして受け入れられた。

 さらにアメリカの大統領夫妻が北京を直接訪問して、世界を驚かせた(1972.2.21。あさま山荘事件の最中だった)。


日本の対応は?

―日本はすでに政府が関わる形で、北京の中国(中華人民共和国)との貿易(注:LT貿易)をおこなっていたよね。
 でも、さすがにアメリカ合衆国が中華人民共和国を「中国を代表する政府」と認めるなんて予想はまったくしていなかった。

 情勢の急変を受け、日本の首相(注:田中角栄)は中国に訪問し、中華人民共和国のトップとともに声明(注:日中共同声明)を発表した。

 この中で、日本は「戦争責任」を認めた。


でも、日本が戦っていた相手は、当時台湾にうつっていた国民党の政権のほうですよね?

―日本が戦争をしていたときには、まだ中華人民共和国という国はなかったし、すでにに戦争の終結は台湾のほうの政府との間でおこなっていた(注:日華平和条約)。
 そこで、「戦争を終わらせる」という表現はとられず、「不正常な状態を終わらせる」という表現がとられることになったんだ。
 このときに、賠償請求権は互いに放棄されることとなった。

 ただ、しっかりと平和条約が結ばれるまでには時間がかかった。ソ連に対する関係をどうとるかという問題で、意見が割れたからだ(注:覇権条項)。


 ともあれ、民間では「パンダ」や「ピンポン」による交流が展開され「中国ブーム」が巻き起こる。



北京の中国政府と条約をむすんだら、台湾の中国との関係はどうなってしまうんでしょうか?

―さすがに「二枚舌」はとれないからね。
 台湾との間の平和条約は破棄され、国交が断絶されてしまったよ。
 

* * *

【7】オイルショックによって経済成長が止まった

日本の経済成長はその後もつづいたんですか?

―日本の輸出産業は好調で、ハイペースの経済成長が続いていた。

 日本の首相(注:田中角栄)も、あらゆるところを高速道路や新幹線でつなぎ、地方にも拠点となる都市をつくることで、都会だけではなく田舎にも経済成長の成果をひろげようとした。
 そのためにあちこちで積極的に開発がすすめられていった(注:『日本列島改造論』)。

 しかし、アメリカが世界経済のしくみを大きく変更させたこと(注:ドル・ショック)への対策から、不景気にならないように国内に多くの資金を供給させた結果、日本各地の土地の価格が急激に上がっていった。

 そんな中、日本向け石油の主要な生産エリアである中東(西アジア)で、深刻な戦争が起きた。


石油の供給がストップしてしまったんですか?

―中東の石油生産国グループ(注:OAPEC)が、敵であるイスラエルという国を応援する国々(アメリカを中心とするグループ)の経済に打撃を与えようと、石油の輸出を禁止したんだ。


 これをうけて、中東以外の石油生産国のグループ(注:OPEC)も、石油の価格をいっきに4倍に引きあげたことで、たいへんな混乱が起こったのだ(注:第一次石油危機)。

 これを受け日本は、「マイナスの経済成長率」を記録。戦後はじめてのことだった。

 首相も総選挙に負け、代わって新しい首相(注:三木武夫)が就任した(1974.12.4)。

 しかし、この首相のときに、前の首相がアメリカの企業から多額のワイロを受け取っていたことが発覚(注:ロッキード事件)。

 混乱をおさめることができずに、内閣(注:三木武夫内閣)は約2年で退陣することとなった(1976.12)。

 次の首相(注:福田赳夫(ふくだたけお))は景気回復をめざすとともに、中国との平和条約を締結(注:日中平和友好条約。1978年)。
 この頃の中国では政治的な混乱(注:プロレタリア文化大革命)は指導者の死(1976.9.9)により収拾に向かっており、「工業の近代化、農業の近代化、科学技術の近代化、国防の近代化」(注:四つの現代化)を掲げて経済のしくみの見直しが検討されるようになっていた。


 しかし、党内の指示が得られず、次の首相(注:大平正芳(おおひらまさよし))に交替した。スキャンダルの影響から「政治不信」となり、野党が勢力を伸ばしたことで、国会の運営は難しいものになっていった。


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