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2.2.2 インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成 世界史の教科書を最初から最後まで
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東南アジアの大陸部
◆現在のビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム
東南アジア大陸部の人々は長い間、豊富に取れるフルーツや魚、動物を取ることで生活してきた。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17188974/picture_pc_8e0d3e5ca81d38172d1156342edc7d46.jpg?width=800)
しかし、焼畑による農業や家畜の飼育が始まると、しだいに富が蓄えられ、t特定の地域を支配する有力者が現れるようになっていった。
たとえば前1000年(今から3000年前あたり)に近付く頃、ベトナムやタイの東北部で青銅器がつくられるようになる。
そして、前4世紀(今から2400年ほど前)になると、独特な形をもつ青銅器の太鼓が出現。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17189058/picture_pc_c9353e438c1d1c428a52f00aece5bd0f.jpg?width=800)
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17189049/picture_pc_bdfe4358f26000c0e89066fd07a1cc74.jpg)
人々はこの太鼓を使い、収穫を祈るお祭りの中で神様にささげる音楽を演奏していたと見られるよ。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17189065/picture_pc_c2d596e13653b810416a52658f215cf7.jpg?width=800)
代表的な出土地の名を取って「ドンソン文化」という。東南アジアの島々に至るまで広い範囲で流通していたことから、広い地域の人々が「銅鼓」に対して畏敬の念を抱き、取引や交換の対象としていたことがうかがえる。
インドネシアの島々のリーダーたちも、「俺は銅鼓を手に入れることができるんだぞ。知り合いがいるんだぞ」っていえば、住民たちを「すげー」と納得させることができたわけだ。
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物を取引する交易のネットワークというのは、現代のように必ずしもハッキリとした「航路」が定まっているわけではない。人と人の結びつきが先にあって、その上を人や物が移動するのだ。安全に航海するためには、船から降りたときの陸上の社会が安定していることが第一条件となる。
宿はあるか、倉庫があるか、買い手がいるか、儲けはでるか、それに治安は良いか。
これらを保障してくれるような強力な指導者が東南アジアに現れたのは、紀元後1世紀末(今から1900年ほど前)のことだった。
◇カンボジア
メコン川下流のデルタ地域を中心に、港町を束ねた「扶南」(ふなん、)という国家組織だ。現在のカンボジアで多数を占めるクメール人の国であったと考えられている。
扶南の王は、港町だけでなく商品の生産地や航路の安全も確保し、インドからやって来た商人たちとも関係を持っていた。
中国の歴史書にのこる建国神話によれば、扶南は「インドのバラモンが、メコン川下流の女性と結婚して建国された」ということになっているくらいだ。
◆史料を読もう
「扶南国の俗は本(もと)裸体(らたい)なり。文身・被髪して〔いれずみして髪を結わず〕、衣裳を制せず。女人を以て王と為し、号して柳葉と曰う。…(中略)…其の南に徼国(きょうこく。扶南の辺外の国)有り、鬼神に事(つか)える者有りて字(あざな)は混塡(こんてん)なり。夢に神の之(こ)れに弓を賜い、賈人(商人)の舶に乗りて海に入る。…柳葉を納めて妻と為し、生子は分かれて七邑に王たり。」
超訳
扶南の人々はもともと裸で、いれずみをし、髪を結わず、ちゃんとした服も着ることなく、柳葉という女王の下で暮らしていた。
そこにインドから混塡(こんてん)という外国人がやってきて、神のお告げ通り、扶南の神殿で、「神の弓」を発見。柳葉女王はこれを取ろうとしたが、混塡に屈して妻となり、その子は王として扶南の7つの都市を支配することになった。
解釈
これをどうとらえるかをめぐっては、かつて大きな論争があった。「もともと東南アジアには文明がなく、インド人が文明をもたらした」(・・・①)のか、それとも「もともと東南アジアにあった文明が、インドの文明を受け入れた(支配のために利用した)」(・・・②)のか、という問題だ。
かつて植民地としてヨーロッパ諸国支配されていたころの東南アジアでは、①の説が優勢だった。しかし、独立後の東南アジアでは、考古学と歴史学の発展によって②の説が優勢となり、インドの文明もそれほど浸透していなかったことも明らかになっている。
(出典:『梁書』諸夷伝海南諸国扶南国条、『世界史史料』岩波書店、2009年、蓮田隆志・訳、374頁)
現在のカンボジアに位置する港オケオは商業の一代中心地となり、ローマのコインやインドの神様の像も出現しているよ。
一方2世紀末(今から1800年ほど前)には、中国に近いベトナム中部で、港町を束ねるチャム人の王様も現れた。チャンパーだ。時代によって中心地が変わるけれど、なんと17世紀(今から400年ほど前)まで存続したすごい国なんだよ。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190604/picture_pc_c6df8cc7153a47013cb9d6d065b1e0b5.jpg?width=800)
4世紀末から5世紀になると、インド商人の来航がさらに盛んになっていく。
ちょうどインドの大部分がグプタ朝によって支配されていた時期だね。
中国からインドに仏典を求めて旅した法顕(ほっけん)というお坊さんは、次のように記している。
◆史料を読もう
「ここにおいて商人の大船に乗り、海に浮かんで西南行した。……(中略)
その国(耶婆提(やばてい)国)は外道、バラモン(*1)が盛んで、仏法(*2)は言うに足らない。この国にとどまること5か月、また他の商人に従って(船にのった)。
…(中略)…(船は)東北に進んで広州(*3)に赴いた。」
(出典:法顕『仏国記』(414〜416年)、長沢和俊訳注、『世界史史料』岩波書店、2009年、374-375頁)
*1 バラモン教のこと。 *2 仏教のこと。 *3 中国南部の港市。
この史料からは、インドや中国とを結ぶ交易が、季節風を利用しておこなわれていたことが、よくわかる(この文章には、法顕の便乗した商船の航海ルートにミスがあったであろうことも記されている。全文は上記出典を参照)。
しかも、その船は中国人の船ではなく、インド人の船だったようだ(以下も参照)。
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190620/picture_pc_bdaee56c5d8dc98665d12ed3a993cdbb.jpg)
扶南やチャンパーを初めとする東南アジアの国々は、競うようにしてインド風の文化、服装、生活スタイルを取り入れていったんだ。サンスクリット語で碑文が刻まれ、建築もインド式のスタイルに。宗教は、ヒンドゥー教や大乗仏教が一緒くたになって紹介された。教義の細かい違いはどうでもいい。「インドから伝わったもの」だということだけで、なんでも箔が付いたのだ。
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さて、6世紀になると新たな民族がメコン川中流域で国家組織を建てていく。
現在のカンボジア人の大多数を占めるクメール人だ。
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190696/picture_pc_846b219a6daf67ba0d684dfd21a393be.jpg?width=800)
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190700/picture_pc_b0e51654a6345aa98559504a5f6f5643.jpg?width=800)
クメール人の王様はヒンドゥー教の権威を利用して国を広げ、9世紀(今から1400年ほど前)になるとアンコールというところに王都を築いた。
この国をカンボジア王国(アンコール朝)という。
アンコールはメコン川と連結する巨大な湖(トンレサップ湖)の近くにあたり、王は乾季の日照りに耐えるため、ため池や水路などの水利施設を盛んに建造したのだ。
資金の出所は、住民たちからヒンドゥー教のお寺に集まる「お布施」だ。
対外戦争にも勝ち抜いたカンボジア王国は、12世紀にアンコールに巨大な寺院を造営した。
これがかの有名なアンコール=ワットだ。
寺院内のレリーフは細かい所まで作り込まれた壮麗なもので、ヒンドゥー教や仏教の影響を受けつつクメール人独自のスタイルを発展させたことがよくわかる。
![画像11](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190871/picture_pc_3d88dd2b792d37aa40650046b29de688.jpg?width=800)
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◇ビルマ
一方、現在のビルマでも個性ある民族の活動が始まっていた。
北の山地から流れるイラワディ川の流域を支配したビルマ系のピュー人という民族が、9世紀(今から1600年ほど前)までに王国を建てたのだ。
ピュー王国はインドのガンジス川河口にほど近く、インドの文化を積極的に取り入れて栄えたよ。
![画像12](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190904/picture_pc_b89ee9ef6563c78874738e8317abd3a9.jpg)
![画像13](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190913/picture_pc_b2ccba81ee9ba94185a6674998ac5ee7.jpg?width=800)
しかし11世紀(今から900年ほど前)になると、今度はビルマ人が新たな王国「パガン朝」(1044〜1299年)を建国。スリランカにある上座仏教の王国との交易関係から、王様は熱心に上座仏教を保護した。「パガン」というのはブッダをまつる塔(仏塔)のこと。この時代に建造された仏塔は、今もビルマに多く残されている。
◇タイ
ピュー王国のライバルであったのは、現在のタイを流れるチャオプラヤ川下流に建てられたモン人の王国「ドヴァーラヴァティー王国」(7世紀〜11世紀)だ。
![画像16](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17191017/picture_pc_ba3784bdd96fa30afde83b3d0ac6180a.jpg)
モン人は日本人にはあまり馴染みがない民族だけれど、タイ人が北の方から南下してくる以前、この地域に広く分布していた民族だ。
ドヴァーラヴァティー王国もスリランカとの関係を重んじ、上座仏教を受け入れて栄えたよ。
![画像14](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/17190931/picture_pc_9dd337f5a3887bd846dfb14a994b84a2.jpg?width=800)
この伝統はのちにタイ北部に建てられたタイ人最古の王国「スコータイ朝」(13〜15世紀)にも受け入れられることになる。
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◇ベトナム
最後にベトナムを見ていこう。
古くから農業が栄えていたベトナムは、陸続きの中国の侵略を受けやすい位置にある。
現在のハノイを中心とする北部は、前3世紀(今から2200年ほど前)に前漢(中国の王朝)によって侵略を受け、それ以降ずっと服属を受け続けていた。後漢の時代には、大規模な反乱も起きたのだが、鎮圧されてしまった。これを徴(チュン)姉妹の「反乱」(後40〜43年)といい、この姉妹は現在のベトナムで英雄視されている。
「又た交趾(こうし)の女子徴側(チュンチャク)及び女弟(いもうと)の徴弐(チュンニ)反し、改めて其の郡を没す。」
(出典『後漢書』馬援伝、蓮田隆志・訳『世界史史料3』岩波書店、2009、372頁)
その後、北宋(中国の王朝)の時代の10世紀末(今から1100年ほど前)にようやく独立を認めさせることに成功。
11世紀初め(今から900年ほど前)には、李の姓を名乗る王様が晴れて「大越(ダイベト)国(李朝)」を建国する。
その後、王朝が陳朝(ちんちょう、1225〜1400)に代わるけど、どちらも支配エリアはベトナム北部に限られた。南部はチャム人の港町を中心とする王国(チャンパー)が支配していたからね。
そういうわけで、現在でもベトナムは南北では様々な面で違いが残っているんだよ。
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諸島部の東南アジア
◆現在のマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ブルネイ、東ティモール
さて、今度は諸島部に目を転じてみよう。
東南アジア諸島部の人々も、大陸部の人々と同じくながらく豊富に取れるフルーツや魚、動物を取ることで生活してきた。
やがてインド方面との交易が盛んになると、インド文化の影響を強く受けた王国が建国されていく。
たとえば7世紀にスマトラ島で建国されたシュリーヴィジャヤ王国は、マラッカ海峡を中心に海の安全を保障し、インドとの友好関係を結んで大乗仏教を保護した。最盛期に首都のパレンバンに滞在した中国人のお坊さんの義浄さんも、仏教の盛況ぶりにおどろいている。
一方、遅れてジャワ島でも仏教を保護するシャイレンドラ朝(8〜9世紀)や、ヒンドゥー教を保護するマタラム朝(732〜1222年)が栄えている。どれもインドをお得意様とする貿易と、生産地の確保によって栄えた国々だ。
諸島部の東南アジアが、いかにインドの影響を受けているかがわかるね。
なお、シャイレンドラ朝は巨大な仏教寺院であるボロブドゥールを建造したことで知られるけれど、その後のジャワ島ではヒンドゥー教の神々に対する信仰のほうが強まっていくよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊