7.2.1 清朝の中国と隣接諸地域 世界史の教科書を最初から最後まで
農民反乱のリーダー 李自成(リーツーチァン;りじせい)が明(ミン)を滅ぼすと、「順」(じゅん)の皇帝に即位することを宣言。北京を中心に新たな王朝を建設しようとする。
しかしその頃、万里(ばんり)の長城の東の端にある関所「山海関」(シャンハイグァン;さんかいかん)のゲートでは大変なことが起きていた。
北方から清軍が押し寄せていたのだ。
緊迫化する事態を受け、「山海関」の防備を担当していた明の武将 呉三桂(ウーサングイ;ごさんけい、1612〜78年)は次のように判断する。
降参して李自成の政権のいうことを聞くぐらいなら、清を山海関のゲートから導き入れ、代わりに李自成をやっつけてもらったほうがマシだ。
こうして開け放たれた山海関の扉を、清の皇帝 (じゅんちてい;イジシュンダサン、在位1644〜1661年)の摂政(摂政。サポート役)であったドルゴン(1612〜50年)ひきいる大軍が次々に通過。
そのまま李自成の軍をやっつけて北京を占領。
都も現在の瀋陽(しんよう)から北京にうつされた。
つまり、明を倒したのは清ではなく、李自成。
その李自成を倒したのが、清だったということになるね。
***
清軍は、明の配下にあった漢人の武将たちの協力を得る形で、南部に逃れた明の皇帝一族による亡命政権(南明(なんみん;ナンミン))や農民反乱軍(大西など)を倒しながら、中国全土に支配エリアを広げていった。
漢人の武将たちは“ごほうび”に、中国南部の雲南、広東、福建の支配をまかされた。特に関所をひらき清軍を北京に導いたに呉三桂(ごさんけい)には、格別の功績が認められた。
彼ら“寝返った” 漢人武将たちは、のちに中国の歴史において“売国奴”(国を売った悪者)のレッテルを貼られることになるんだ。
しかし、陸の支配がひと段落しても、まだ海の様子はさわがしいまま。
1661年に、海賊グループを率いる鄭成功(ヂァンチァンゴン;ていせいこう)が、台湾のオランダ人を追い出すことに成功。
鄭成功は、そこから中国各地に残存する明の皇帝一族たちの亡命政権(南明(ナンミン;なんみん))をサポートしはじめたのだ。
これに対し第4代の康熙帝(こうきてい;アムフラン=ハーン;エルへ=タイフィン、在位1661〜1722年)は、沿岸部の人々に海賊たちとの接触を固く禁じ、内陸部に移住させた。
康熙帝の肖像画
倭寇たちの物流ルートを遮断し、兵糧攻めにしようとしたのだ。
こうした粘り強い戦争の末、1683年に鄭氏一族は降伏。
ついに台湾も清朝にくだることとなる。
それ以降、台湾には清朝南部から中国人の移住が進んでいく。
特に福建(ふっけん:フージエン)の福州(ふくしゅう;フーヂョウ)や広東(かんとん;グヮンドン)の潮州(ちょうしゅう;チャオヂョウ)の人や、
客家(ハッカ)と呼ばれる人々
の移住が多く見られた。
それに対し、マレー=ポリネシア系の先住民族たちは、山地を中心に生活を営み、しだいに生活エリアが狭まっていくこととなる。
さて、こうして清朝は、
故郷の東北地方(のち満洲と呼ばれた)、
モンゴル高原(2代目のときに南部のチャハル、4代目のときに北部のハルハ)、
中国本土(3代目のときに一部、4代目のときに漢人の功労者に与えた南部(三藩(さんぱん))を没収した)、
台湾(4代目のとき)を含む広大なエリアを支配する国家に成長。
遊牧民エリアに加え農耕民エリアも支配する、スケールの大きな国となったのだ。
清朝皇帝が訪問した内モンゴル(モンゴル南部)の様子。ここで巻狩り、暴れ馬乗り、モンゴル相撲といった国家的イベントをひらき、国威を発揚させた。
(イエズス会士カスティリオーネなどの作)
清の君主は、遊牧民に対しては「ハーン」、農耕民に対しては中国歴代王朝を継ぐ「皇帝」の称号として君臨。
だから、いつもは農耕民エリアの北京の宮殿(紫禁城(しきんじょう))で政治をおこなう一方、夏になると遊牧民エリアのクラス北方の離宮(りきゅう)で過ごすのが清朝前半の皇帝の習わしとなったんだよ。
最盛期は4代目康熙帝(カンシーディ;こうきてい、在位1661〜1722年)、
5代目雍正帝(イォンヂァンディ;ようせいてい、在位1722〜35年)、
6代目乾隆帝(チエンロォンディ;けんりゅうてい、在位1735〜95年)の3人。
彼らは独裁的な権力を確立するため、科挙や役人の制度は明の制度を受け継いだ。中国王朝伝統の学問である儒学も積極的に受け入れるとともに、モンゴル人の君主としての称号も持っていた。
しかし一方で、北方の女真人としてのプライドも忘れない。
軍は他民族混ぜこぜの部隊とはせず、漢人は漢人の軍隊(緑営(ルゥーイュン;りょくえい))を設置し、はじめは女真人だけで実施していた「八旗」(バーチー;はっき)を、モンゴル人と漢人に分けて整備し、各所に配置した。
また、政治の中枢部の人事には、女真人(満洲人)だけでなく漢人も採用。その人数は同数だった。
雍正帝は、万事を自ら決裁するため、皇帝直属の諮問機関(政策について協議する機関)として軍機処(ぐんきしょ)を設置し、情報を一括して権力を高めるために利用した。
都合の悪い情報を締め出すため、“公認の考え方”が何かをハッキリさせた。
『康熙字典(こうきじてん)』『古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)』『四庫全書(しこぜんしょ)』といった大規模な編纂事業に学者を動員。
逆にこれらに収録されていない思想は “非公認” 思想ということになったわけだ。
一方、清朝に批判的な言論については厳しく対処をした(文字の獄(もんじのごく))。公文書の中の表現や漢字の使い方ひとつまで、厳しい管理の対象になったんだよ。
また、白蓮教(びゃくれんきょう)などの民間の宗教も、邪教としてきびしく弾圧を受けることとなった。
なお、漢人の男性たちに、「辮髪」(ビエンファー;べんぱつ)という、トップの髪の毛だけ長く伸ばしてポニーテールに結ばせるスタイルを強制。清朝は、漢人による厳しい抵抗を受けつつも、滅亡するまで髪型の強制をやめなかったんだよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊