見出し画像

3.2.5 朝鮮と日本の国家形成 世界史の教科書を最初から最後まで

「朝貢」関係は、"中華安全保障体制"

中国が秦と漢のような皇帝によって統一されると、周辺にいた民族の支配層たちは、皇帝によって自分のポジションを認めてもらう形で、ライバルたちを蹴散らそうとして。

まさに、虎の威を借る狐といったところ。

中国に”家来申請”を出して”承認"されれば、攻め込まれる可能性は低くなるし、経済的にも中国の富の”おこぼれ”にあずかることができる。

ただし、そのためには、ちゃんと中国の要求する「文明的なおつきあいのマナー」を身に付けないと、申請は”却下”されてしまう。

遣隋使

奈良県の飛鳥に都を置いていた(わ)の政権も、実はのちにこの「マナー」をわきまえていなかったことから、おつきあいを築くことに一度失敗しているんだ。

中国の皇帝の”設定”はこうだ。

***

「中華」の設定

皇帝は、世界の中心「中華」にいる。
周辺のやつらは野蛮な「夷狄」だ。
かわいそうに。
「文明」ってやつが何たるか、
「夷狄」が頼み込んできたならば教えてやろう。

その際は、その者がどのような位にあるかを明示した上で、
貢ぎ物を差し出せ。

そしたら、その者を皇帝の”家来”としてやろう。
ランクに応じて、中華の役人と同じ印綬(いんじゅ)をやるから、
大切に保管しておくようにな。

貢ぎ物を持ってきたら、
そのごほうびに倍返しにして”おみやげ”を授けよう。
国に持って帰って、仲間や家来に分けるがいい。


画像7

***

周辺の”野蛮”な民族が、貢ぎ物を持って中華の皇帝に持っていくことを朝貢(ちょうこう)という。

皇帝が無事周辺諸国を従わせることができたとすれば、周辺の物資が平和的に中国に集まってくることになるよね。

財宝をめぐる無用な争いもなくなるわけだ。

ランクに応じた序列もハッキリするしね。

たとえば使節が都に到着したときには、結婚式の席次のように、どの国の使節がどこに座って…というような席次が決まっていたんだよ。

となれば、無用な争いもなくなる。


ちょっと言い過ぎではあるけど、「中華」を中心とする国家関係のあり方は、国際間の秩序を守るという意味では、現代でいう「国連」のような枠組みみたいだね。
ただし「国連」とまったく違うのは、あくまで「中華」に位置する皇帝の支配する中国が"一番偉い"っていうところだ。

この国際的な体制を認めさせるためには、中国の皇帝が、周辺の諸民族を黙らせることができるだけの圧倒的軍事力を確保している必要があるね。だからこうした東アジアの秩序のあり方は、時代によっても中国の王朝によっても、ちょっとずつ変化していったんだ。

このへんに注意して、今後の中国の国際関係について見ていこうね。


***

さて、具体的に当時の東アジア周辺にはどんな国があったのだろうか。

まずは朝鮮半島周辺から見ていこう。

朝鮮半島の北方、中国の東北地方の南部には、ツングース系の民族が狩猟採集を中心とする生活を送っていた。
そのうちの一団が、前1世紀(今から2100年ほど)になると、高句麗(こうくり;コグリョ)という国家を建設。

画像1


馬と弓矢をつかいこなすハンターたちだから、軍事力も高く、朝鮮半島北部に支配領域をのばしていた前漢と対立。
八王の乱によって混乱していた晋の盲点を突き、4世紀初め(今から1700年ほど前)に武帝という皇帝が建てていた楽浪郡を滅ぼしてしまうんだ。
朝鮮半島北部に支配エリアを拡大させ中国の皇帝に衝撃を与えた。


一方、朝鮮半島南部では、韓人が各地に小さな王国を築いていた。しかし、高句麗の迫る危機に際して、東南部には新羅(しらぎ;シルラ)、西南部には百済(くだら;ペクチェ)という王国がまとまっていったよ。なお、最南部の加羅(伽倻)というところは、日本列島の人々との関係も強い場所だったけれど、日本勢力も含めた争いの後、最後は新羅・百済に分割されてしまった。

こうした国々は、先ほど説明したように中国の王朝に朝貢しようとするのだけれど、めんどうなことにその中国の王朝は、南北に分裂し、さらに北部の王朝は東西に分裂しているという始末。
どの王朝が統一することになってもいいように、外交関係に気をつかわざるをえなかったんだ。
そういうわけでさまざまな文化が朝鮮半島に流入。儒教、漢字を受け入れた。とくに仏教は国が保護して栄えていくよ。



さて、日本列島でも稲作のスタートによって富の蓄積がおこり、各地に有力な支配層が出現。
3世紀(今から1800年ほど前)ともなると、あの有名な邪馬台国(やまたいこく)が、西日本を中心に広い範囲の有力者を束ねていたようだ。
残念ながら日本側の記録がのこされていないので、中国側の史料によれば、邪馬台国の女王は卑弥呼(ひみこ)といって、239年に魏に使節を送ったらしい。そして銅鏡を"おみやげ"として授かったという。その証拠に、この頃の中国で製造された銅鏡はたしかに各地で発掘されている。

その後、4世紀(今から1700年ほど前)になると、奈良県あたりの勢力がヤマトの王権としてさらに広い範囲を束ねた。
5世紀になると、中国の南朝の歴史書の中にヤマト王権の王の名前も「倭国(わこく)の王」という形で登場するよ。
中国に”おうかがい”を立てることで、国内の勢力や朝鮮半島の国々に対して、自分の権威に箔をつけたかったわけだね。

倭国は朝鮮半島への進出もねらい、加羅や百済と結んで、南下する高句麗と戦ったこともあったようだ。このときのことが、中国の吉林省にある高句麗の広開土王(こうかいどおう、在位391~412)の碑文に記されていると考える学者もいる。

画像5



そういうわけで朝鮮半島との交流がさかんだった日本には、仏教儒教漢字などの「中華」の文化が流れ込んで来た。金属の加工、瓦屋根の建築物、高級織物など、最先端のテクノロジーも一緒に伝わってきた。
たとえば7世紀前半(今から1400年ほど前)の仏像(百済観音像)の様式には、はっきりと朝鮮半島の百済の影響が見て取れる。

画像6


その洗練された思想といい、不思議でいかつい複雑な形の漢字といい、当時の倭国の人は、さぞかしびっくりしたことだろう。



新しい技術や文化が流れ込むと、社会は往々にして混乱する。

「変わるべきか」それとも「現状維持」か。

その答えを出さざるをえない時が、やがてやってくる。

その時とは、隋(ずい;スイ)王朝による中国統一、つまり中国の分裂状態の終結だったのだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊