見出し画像

2.3.6 秦の統一 世界史の教科書を最初から最後まで

戦国時代を終わらせ、中国を統一に導いたのは秦の始皇帝だ。



一時は“極悪非道”の皇帝というイメージが強かったけれど、最近では原泰久先生の漫画『キングダム』によって、智略を尽くす聡明な面や、人間的で情熱的な側面も取り上げられるようになっているよね。

彼ははじめから皇帝を名乗っていたわけじゃない。

前221年に秦を統一するまでは、ほかの国の君主と同じように「王」を名乗っていたんだよ。

もとの名は「政」。

政は統一を果たすと、家来たちの意見を聴いた上で、「王たちを従えているんだから、王ではもはや満足できない。「光り輝く神」という意味をもつ「皇帝」の称号を使おう」と決断した。

で、自分自身が最初の皇帝だから、始皇帝(シーフアンディー)というわけだ。在位は前221〜前210年(今から2200年ほど前)のことである。

画像3

始皇帝は中国全土を直接コントロール下におさめようとし、軍隊や役人を中央から直接派遣した。

特定の文書に関しては文字を小篆(しょうてん)という字体に統一し、半両銭という貨幣も発行した。

また始皇帝は法家をブレーン(政治的な相談相手)にしたので、ライバルであった儒家を弾圧。前漢の時代の歴史家 司馬遷(しばせん)の『史記』によれば、儒家は穴埋めにされ、儒学や政府が禁止した書物は燃やされたということだ(焚書・坑儒(ふんしょこうじゅ))。

画像4

統一した勢いに乗って各地に進軍し、まだ「中国」文化を受け入れていなかった長江の南方の人々を征服し、南海(現在の広州)などの3郡を置いている。



しかし、北方の騎馬遊牧民たちは始皇帝にとっても手強かった。

馬が乗り越えられないように、長城という防衛のための壁を整備した(写真はかん)。ゼロから建てたわけではなく、戦国時代に各国がすでに建設していたものをつないだのだ。

画像6

始皇帝は対外戦争や土木工事を急速に進めるとともに、各地をパレードしたり聖地をめぐったりして、みずから絶対的なパワーを人々に誇示しようとした。等身大の兵士像を並べた墓である兵馬俑(へいばよう)も圧巻だ。

画像7


しかし秦に征服された6つの国の反感は根強く、始皇帝が亡くなると陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)による農民反乱をきっかけに、各地で反乱が勃発。秦はわずか15年で滅んでしまう。

画像8

各地の反乱勢力の中からのぼりつめたのは、庶民出身の劉邦(りゅうほう、リウバン、前247〜前195)と、南長江流域の楚の名門出身の項羽(こうう、シアンユー、前232〜前202)だった。

2人の陣営は4年間激闘を繰り広げる。その間のストーリーは、「国士無双」「左遷」「背水の陣」「乾坤一擲」「捲土重来」「四面楚歌」「虞美人草」のように、たぶんどこかで聞いたことのあるような有名なことばのルーツとなっているよ。

結果的に、器がデカく部下のマネジメントに優れた劉邦が勝利。
項羽の敗因は、ケチで疑り深く部下の信頼が得られなかったということになっている。

始皇帝のはじめた「皇帝」という称号をうけついで、前202年に皇帝に即位した。
皇帝が死後贈られた名前は高祖(こうそ、ガオズー)だ(死後に贈られる称号のことを謚号(しごう)というよ)。

画像9

王朝の名前は「」(かん、ハン)とされた。

漢字のことを「漢」字というように、この漢王朝の時期に、古代中国で生まれたさまざまな要素がいったん集大成されていくことになる。

途中、クーデターによっていったん滅んでしまうけれど、すぐさま復活。
今では、前半の約200年を区別するために「漢」、後半の200年を「漢」と呼ぶことが多いよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊