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3.2.2 分裂の時代 世界史の教科書を最初から最後まで

北方の騎馬遊牧民が中国の農耕エリアで勢力を伸ばし始めていたころ、中国は大きな危機を迎えていた。



各地で大土地所有者が自前の軍隊を率いてパワーアップし、そのうち華北で有力になった曹操(そうそう、155〜220)の息子・曹丕(そうひ、在位220〜226)が、後漢最後の皇帝に圧力をかけ、周到に皇帝の位を譲らせる(禅譲)という大事件が発生したのだ。


彼は新たな王朝が天命にもとづいていることを強調。王朝の名は(ぎ;ウェイ)であるとした。

しかし、それを認めない長江下流域の孫権(そんけん;スンチュェン、在位229〜252)が(ご;ウー)を、長江上流域の成都を都に長安近くの漢中にかけてを支配した劉備(りゅうび;リウベイ、在位221〜223)が(しょく;シュー)を建てて、「自分こそが皇帝だ」と主張すると、中国は“三分裂”の状態になってしまったんだ。

こうして突入した”三国時代”当初においては、抜きんでた軍事力を持つ魏に対し、蜀と呉が連合して向き合うという形勢となる。
これは蜀の軍師 諸葛孔明の戦略でもあった。
そのクライマックスが、映画『レッド・クリフ』で有名な赤壁の戦いという海戦だ。


しかし、最終的に蜀は魏に滅ぼされてしまう。

蜀はいわば公立高校の“弱小チーム”、魏は強豪の”私立高校“。
”監督“である軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)の壮絶な死ほど、涙を誘うものはない。
中国の正史としては勝者である魏の歴史観から歴史書として『三国志』がまとめられている。
しかし、敗者の蜀の視点から描かれたストーリーのほうが、後世の中国庶民の間で大ヒット。それを史実に合わせた形にブラッシュアップさせた物語が『三国志演義』だ。

ただ、『三国志演義』も100%史実にもとづいて描かれているわけではなく、物語的な要素も含まれている。一見史実に即しているようで脚色も多く、脚色のほうが史実であるかのように広まっていく現象は、日本で言えば司馬遼太郎といったところだろうか。『三国志演義』は日本では吉川英治さんの小説や横山光輝さんの漫画、NHKの人形劇によって受容されていき、『三国志』というタイトルでありながら実は内容が『三国志演義』という”ねじれ状態”がながらく続いたのだ。けれども最近では『正史三国志』の内容が知られるようになり、見直しが進んでいるよ。


さて、勝者の魏もうかうかしてはいられなかった。

将軍である司馬炎(しばえん;スーマーイェン)が皇帝の位を奪い、(しん;ジン、265〜316)という新たな王朝を建ててしまったんだ。
呉を滅ぼして三国時代を終わらせたのは、魏ではなくて晋ということだね。

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だが往々にして、武力で建てた王朝は、武力によって鉄槌を下されるもの。
晋もその例に漏れず、皇帝位をめぐる一族による泥沼の争い(八王の乱)が勃発すると、そこにつけ込み騎馬遊牧民が一斉に中国に侵入。匈奴は山西地方で挙兵し、晋の都である洛陽を占領し、長安も荒らし回った。


こうして滅んだ晋の皇帝一族は、命からがら長江下流域(江南)に脱出。現在の南京(なんきん、ナンジン)である建康(けんこう;ジェンカン)を都に、晋を存続させた。
それ以前の晋を「西」晋、南に移動した晋は位置的に東にあるので「」晋というよ。


この東晋の下で、長江下流域の農業インフラ整備はすすみ、経済的に栄えていくものの、やはり「武力で建てた王朝は、武力によって鉄槌を下される」。

黄河流域の王朝との戦争で手柄をあげた将軍劉裕(りゅうゆう、在位420〜422)が東晋の皇帝をたおして(420〜479)をたてた。これはのちに中国を統一する「宋」とは別物。ちなみに当時の日本列島のヤマト政権の王である「武」が、権威づけのために使者を送ったのは、この宋だよ。

その宋は、に。
斉はに。
そして梁はに――というように、短期間にいくつもの王朝がおこっては滅んでいった。


これら南朝はいずれも都は建康に置かれ、華北の政権との戦争は依然として継続された。
それでも上流階級の心の中にあったのは、自分たちが漢人の伝統文化を守り抜いているというプライドだ。


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一方、華北で「五胡」によっていくつも建てられた政権は、キリ良くピックアップして「五胡十六国」と呼ばれる。
4世紀後半の前秦(ぜんしん)のように一時は南北を統一するんじゃないかという王朝も現れるけれど、南北の対立構図はその後も継続。彼らの記録を見てみると、自分たちは「中国人」なのか、それとも「遊牧民」なのか思い悩む複雑な面も見受けられるよ。


そんな中、5世紀前半になると鮮卑の一氏族である拓跋(たくばつ)氏が建てた「北魏」(ほくぎ;ベイウェイ)という王朝が強大化。
太武帝(たいぶてい;タイウーディ、在位423〜452)のときに華北を統一することに成功した。
孝文帝(シャオウェンディ、在位471〜499)になると、その母の後押しで「いっそのこと”中国人“になっちゃおう」という政策に転換。都は、モンゴル高原に近い平城から、黄河流域の洛陽にうつされ、さらに農地を管理・配分するための均田制や、定住民を管理するための三長制もつくられた。

服装も、乗馬に適した遊牧民の服装(胡服)

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をやめ、ゆったりとした漢服にチェンジ。

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言葉までも中国風にするという徹底ぶり。これを漢化政策というよ。


しかし、「おれたちは鮮卑人だ!遊牧民魂を忘れたのか!」「どうして中国人(漢人)の文化に染まらなきゃいけないんだ!」「中国人(漢人)をひいきしすぎだ!」と、遊牧民出身の軍人の反感は強く、反乱が勃発(六鎮の乱)。

これをきっかけに北魏は東西に分裂して、西魏(535〜556)と魏(534〜550)になってしまう。
さらに西魏は北周(556〜581)、魏も倒されて北斉(550〜577)となるなど、北朝のほうも落ち着かない軍事政権だったんだね。

これらの支配層は基本的に遊牧民色が強かったけれど、さまざまな面で農耕民である中国人(漢人)とのブレンドも進んでいくことになるよ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊