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ニッポンの世界史【第4回】東洋史の「再発見」 : 宮崎市定・古代文明・トインビー

「世界史」には決まりきった構成があると思っていませんか? 
そんなことはありません。その構成は、長い歴史の中でくりかえし定義されなおし、いまなお変身の途上にあります。

日本人の描く世界史には、日本人が世界や歴史を見るときに突き当たる「困難」が色濃く反映されている
そして、日本における「世界史」は、教科書を中心とする”公式”世界史と、それに対抗する”非公式”世界史のせめぎ合いのなかで再定義されてきた

——このような視点から、「ニッポンの世界史」をよみとく文脈を明らかにし、世界史の描き方の現在地を探る試みです。

宮崎市定 「ヨーロッパは後進国だ!」


 戦前の日本における東洋史は、中国史のウエイトが多くの割合を占めていました。
 しかし、いわゆる京都学派の宮崎市定のように、アジアが世界史に果たした役割を重視し、アジアを射程にいれた世界史を描こうとする試みも、すでに戦前からありました。
 たとえば、文部省の要請により宮崎も編纂委員として関わった『大東亜史』(未完)の冒頭部分をもとに戦後刊行された『アジア史概説』は、東洋史の学習指導要領(試案)でも参考図書に挙げられています。
 オリエント、インド、中国という3つの文化圏を結ぶ東西交流が、内陸の遊牧民と海域世界の関係性によって発展していくさまを、見事に描き出したものです。

史上最初に近世に突入したのは西アジアで、その後は宋代、インド、ヨーロッパが続く。


 「ヨーロッパは言うまでもなく、世界全体の中の一特殊地域である」とする宮崎は、1950年に次のように述べています。

ヨーロッパ史の出発は、西アジア史に比べても、東亜[注:東アジア]史に比べても遅かった。殊に現今のヨーロッパの中核をなす西北欧は最も後進国である。それが二つの革命[注:市民革命と産業革命]を経て、他の地域に魁(さきが)けて最近世[注:宮崎の用語。一般的には「近代」]の段階に到達して、全世界に対する指導者の地位に立った。それは彼等が、極めて短時日の間に近世史を卒業し終わりたる結果である。後進国より突如として先進国への転換、この急変したる地位に立って無反省に他の世界の現状を眺め、それを過去に遡(さかのぼ)って類推したところから、種々の誤解が生じ、東洋人自身の見方もこれに誘惑されるのである。

宮崎市定「東洋的近世」1950、『アジア史論』所収(中央公論新社、2002、122-123頁)。太字は筆者


 「西北欧は最も後進国」!
 なんとも挑発的です。

 宮崎によれば、中世から近世への移行が史上はじめてなったのは、西アジアのアラビア人やトルコ人のナショナリズムによってであり、その後、代の中国が近世に移行、次にムガール帝国(1526〜1858)のインドが近世に入り、ようやくヨーロッパが東洋の文化の啓発を受け、ルネッサンス文化近世文化に移行したのは最も遅くの13〜14世紀だったとするのです。


同、11頁。西亜→東アジア→ヨーロッパの順に「近世」に突入している。


 たしかにその後のヨーロッパは産業革命・市民革命を経て最近世に突入し、ほかの文明に対して優位に立つことになります。しかし宮崎によればそれも「ヨーロッパ単独の歴史ではあり得ない」(同、234頁)。

むしろ世界人類は、更に有機的な、一つの生物のごときものと見た方がより適当であるかも知れない。この生物は世界の到る所に根を張っている。一個所で吸収した養分は直ちに他の部分に循環する。東洋で吸い上げられた栄養が、ヨーロッパに集って産業革命、政治革命を惹き起す力となったのである。長い歴史の眼をもって見るならば、この栄養は再び新たなる活力となって世界全体に再分配される日が来ることであろう

同、238頁。太字は筆者

 ともかく、いちはやく生まれたヨーロッパの「最近世」を、これまたいちはやく取り入れたのは日本であり、それが中国をはじめとする他のアジアとの差を生みだした。しかし「日本はその慢心の為めに、東アジアにおける先進指導の地位から、何時(いつ)の間にか後進劣敗の地位に頽落してしまった。しかしながら、戦時・戦後の深刻な苦悩も、最近世史から、来るべき現代史へ飛躍する為めの不可避的な犠牲であったならば、それは全然無意義には終らぬであろう」とします(「世界史序説」1958、上掲所収、43-44頁)。


 宮崎の型破りな見方は、当然西洋史家からの反発を喰らいましたし、「宋代は近世ではなく中世だ」とする東大の「歴研派」東洋史との間に、中国時代区分論争が勃発します(これについては後ほど、マルクス主義が「ニッポンの世界史」に与えた影響をみるところでふれましょう)。

 ですが、占領におかれた日本人が今新たに世界史像をくみあげようというときに、宮崎の所論が与えた影響の大きさは想像するに難くないはずです。


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古代文明の発見と大衆文化


 20世紀に入り、先史時代や古代文明の新発見がつづいたことも、東洋史分野への注目を高めた大きな要因です。
 たとえばクレタ文明のクノッソス遺跡が1900年にイギリスのエヴァンスにより発掘され、1905年にはドイツのヴィンクラーがオスマン帝国領でヒッタイトの都ボアズキョイの遺跡を調査しています。


また、1920年代にはインダス文明のモエンジョ=ダーロとハラッパーの調査がはじまっていますし、すでに19世紀以来マヤ文明インカ文明などアメリカ文明の調査も進展しました。


 さらに、1920年代から1940年代にかけて、東南アフリカでアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石が発見され、最古の人類と目されるようになっていました。中国の殷王朝の都である殷墟は1928年から調査がはじまっています。

 こうして神話や聖書の世界が、史実によって裏付けられるとともに、従来知られていなかった非西洋圏の文明が白日の元に晒されることとなったわけですが、同時にこれらの新発見には「おどろおどろしい古代の神秘」「東洋のロマン」という味付けが加えられ、ハリウッド映画や小説などを通して戦前の日本人にも伝わっていました。

『ミイラ再生』(The Mummy、1932制作・日本公開1933)。1930年代〜50年代にかけてのユニバーサル社によるモンスター映画の一つ。https://www.repre.org/repre/vol31/note/02/


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トインビーの文明史

 一連の発見にも触発され、欧米の歴史学者のなかにも、従来のようなヨーロッパ中心史観に代わる歴史を構想しようとする人も現れます。

 その一人が、大著『歴史の研究』で知られるアーノルド・J・トインビーです。「内的プロレタリアート」「創造的少数者」といった独自の用語が満載の著作自体はあまり読まれることのなくなってしまった歴史家でありますが、「文明」を単位として世界史を論じたトインビーを外しては、やはり「ニッポンの世界史」を考えることはできません()。



 トインビーの歴史観を、紹介者の一人である政治学者・蠟山政道は次のように例えています。

 「いまや脚光をあびて現れるにいたったすべての文明の歴史は、現在生きている文明、あるいはいずれかの国民の現在の状態にまでつづく一筋の続きもののように、整理することはできない。その歴史型は、そら豆の茎の型ではない。むしろ文明の興亡史は、枝をもっている樹木型にたとえねばならない。この歴史型こそ、現代史のもっとも重要な特徴を示すものといえよう。この時代において、西欧文明は、地球上に生き残っている他の文明と衝突するにいたった—イスラム文明とも、ヒンズー文明とも、シナ文明とも、またメキシコ文明とも、その結果、われわれは、この同時に起こった衝突が当事者たちに与えた影響を、比較観察することができた。」

『トインビー』(世界の名著)中央公論社、23頁。太字は筆者による強調。


 この発想を用いれば、東洋史を、そして日本史を、世界史のなかに位置付けることができるかもしれない。
 ——トインビーの見方には、明治以来、西洋の文明を「世界の中心」と仰ぎ見、さらに戦時中にはそこに自らの文明を代入しようとした日本人にとって、当然ハッとさせられるものがありました。
 

 ただし、彼が日本で脚光を浴び、日本人の世界史観に影響を与えるのは1956年の二度目の来日(一度目は太平洋問題調査委員として来日した1929年)時のことになります。

 ですからトインビーに対する「ニッポンの世界史」の反応をみるまえに、ここではまず、1950年代初頭の世界史の構成に計り知れない影響を与えた「マルクス主義」と「近代主義」の歴史観にふれておかなければなりません。

(注)なお、満田剛は宮崎市定ら日本の中国史研究者の中国文明観とトインビーのそれとの類似性を指摘している(同「A. J.トインビー『歴史の研究』における中国文明史観に関する一考察―再考察篇・『図説 歴史の研究』を中心として」『東洋哲学研究所紀要』34、2018、147-165頁)。


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