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史料でよむ世界史 4.3.3 アフリカのイスラーム化


イスラーム教が広がる前のアフリカ


確認できる中でもっとも古いアフリカ人の国は、ナイル川上流にヌビア人の建てたクシュ王国(前920年頃〜後350年頃)だ。現在のスーダンという国に遺跡が残っている。

エジプトの文明の影響を受け、独自のピラミッドも建設し、前8世紀(今から2800年ほど前)にはエジプトの王朝を滅ぼしてしまうほどのパワーを持った。
その後、アッシリア帝国がエジプトを占領すると、ナイル川の上流に撤退。
その後、都をメロエにうつしたクシュ王国はメロエ王国(前670年頃〜後350年頃)とも呼ばれ、やはりピラミッドを建設。鉄器の製造もおこなっていた。

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クシュ王国の勢力範囲は以下のうちどれか(センター試験 1997年 本試験・改)。

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ナイル川沿いに発展のがクシュ王国だね。
a はガーナ王国(後述)、bがクシュ王国、cはモノモタパ王国(後述)。


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ナイル川の下流との貿易だけでなく、紅海との貿易でも栄えたけど、4世紀にはエチオピア高原でおこったアクスム王国(紀元前後頃〜12世紀)によって滅ぼされてしまう。

この王国はナイル川や紅海を通る物流ルートを支配し、インド洋にも手をのばして栄えた。
ユダヤ教徒などさまざまな商人が行き交う中、キリスト教を国の宗教と定めたことでも知られる。
ヨーロッパで主流となっていった教義とは異なる特徴を持つエチオピア正教は、現在でもエチオピアの人々の信仰を集めているよ。

なお、エチオピアのカッファ地方はコーヒーの原産地としても有名だ。



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イスラーム教が西アフリカに広まった


西アフリカはサハラ砂漠が広がる乾燥地帯。そんな荒涼とした砂漠を突っ切って流れる大河 ニジェール川には、古くから商人たちの住む街がつくられた。


サハラ砂漠の岩塩を、南方の金(きん)と交換する塩金貿易で栄たガーナ王国(7世紀頃〜13世紀半ば頃)もそのひとつ(ガーナといっても、現在のガーナという国はこの王国にちなんで付けた名前であり、直接的な関係はない)。マンデ人の一派の建てた国だ。

ガーナ王国に関する記録は、イベリア半島で活躍したバクリーという学者が1067年に地理書にあらわれる。


「ガーナの都は平原にある二つの町からなっている。一つはムスリムの住む大きな町で、12のモスクがある。ムスリムたちはそのうちの一つで金曜日の礼拝のために集合する。......王の町はここから6ミール(★1)のところにあり、「ガーバ」という。.......王は宮廷と多くの丸い屋根の家をもち、それらはすべて市壁のような囲いで囲まれている。王の町の周囲には丸屋根の建物と森や茂みがあり、呪術師と宗教祭祀を司る男たちが住んでいる。そこはまた偶像や王の墓のある場所である。王の通訳、財政を司る役人、そして大臣の多くはムスリムから選ばれる。
(中略)
王は、国に入ってくるロバ一頭分の塩について金1ディーナール(★2)、また国から出ていく塩について金2ディーナールを徴収する。......王国のすべての金鉱で見つかる金塊は王のものとされており、細かい砂金だけが住民のものとされる。」
(『世界史史料2』岩波書店、314頁)
★1 1ミールは約2000メートル。
★2 ディーナールは1ミスカール(約4.72グラム)の重さの金貨

  史料から読み取れることとして適切ではないものを選ぼう。
① 王は塩の輸出入を管理していた。
② ガーナ王国の都は、ムスリムと非ムスリムのエリアに分かれている。
③ ガーナ王国では、おもに塩と金が交換されていた。
④ ガーナ王国では、非ムスリムが迫害されていた。







④が誤りだね。

現在もサハラ砂漠では塩がとれる。
いちど映像を観て、イメージを膨らませておこう。

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しかしガーナ王国は、モロッコから攻めてきたイスラーム教徒たち(ムラービト朝)により1076年(または1077年)によって大打撃を受けることに。
その後は、ニジェール川周辺でもイスラーム教徒の住民が増えていくことになったよ。


そんな中、1240年にはおそらくマンデ人の別の一派によってマリ王国(1240年〜1473年)が建てられる。
トンブクトゥという都市には西アフリカ一帯の商人があつまり、大にぎわいとなった。
イスラーム商人が多く滞在したので、市内には泥でできたモスクも建てられている。

その繁栄について記した史料を読んでみよう。この史料を書いたのは、シリアのダマスクスで生まれたウマリーという人で、マリ王国の王様であるマンサ=ムーサ(マンサ・ムーサー、またはカンカン・ムーサー)と何度も会ったというエジプトの総督から聞いた話にもとづいている。

「私(筆者)が金のできる植物はどんなものかと問うと、彼(総督)は言った。
「それは二種類ある。一つは春に砂漠に雨が降ったあとに見つかるもので、ナヒールのような葉をしていて根が金だ。もう一つは一年中あるもので、ナイルの岸辺のあちこちのわかっている場所にある。......ムーサー王の言うところによると、金に対する権利は自分だけのものであり、その地の住民が盗み取る以外は貢ぎ物として取り立てるのだそうだ。」(『世界史史料2』岩波新書、317頁)

これを読むと、マリ王国では「金がなる植物」があると信じられていたことがわかりますね。

マンサ=ムーサ(在位1312〜37)という王様は、各地を豪華なキャラバンで立ち寄りながら、メッカに巡礼し、その名をとどろかせた。

「......カイロ(★1)の住民たちは、彼らの見たこの人々(マンサ・ムーサの一行)の豪勢な金遣いの話でもち切りだった。......この人〔マンサ・ムーサ〕はカイロで贈り物をばらまいた。宮廷のアミールや王室の役職者で、彼からなにがしかの黄金をもらわなかった者は一人もいない。......彼ら〔マンサ・ムーサの一行〕はエジプトの金の価値を低めるほど金を交換し、金の価格を下落させた。」
★1 カイロ:当時は、エジプトのマムルーク朝の都。(『世界史史料2』岩波新書、318頁)


マリ王国で金がめちゃくちゃたくさんとれる話は、地中海を越えたヨーロッパ世界でも有名だった。

これは14世紀のイベリア半島のユダヤ人によって作成された「カタロニア地図」。

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Public Domain File:1375 Atlas Catalan Abraham Cresques.jpg

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左下をよく見ると、玉座に座るマンサ・ムーサの姿が見える(これは上の地図とは異なる版)。よく引き合いに出される図だから、頭の片隅に置いておくといいだろう。


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1464年にはソンガイ王国(1464年〜1591年)が現在のマリにあるガオという都市を拠点に建てられ、周辺の民族を従えて強大化。
マリ王国と同じくイスラーム教を保護した。モスクにはアラブ人の有名な学者も招かれ、トンブクトゥは一躍アフリカにおけるイスラームの学問の中心地となったよ。

教科書を読んでみよう。

両王国〔マリ王国とソンガイ王国〕の中心都市トゥンブクトゥはニジェール川中流に位置し交易で栄え、ウラマー〔学者〕を集めて学問と文化がおこった。(『新詳 世界史B』帝国書院、H29、87頁

当時のニジェール川流域の王権や人々にとって、イスラーム教は「文明」の象徴でもあったのだ。


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イスラーム教徒は東アフリカの港町に居着いた


アフリカ大陸の北東部(上が北の地図では右上)には、角のように突き出た半島がある。いわゆる「アフリカの角」だ。


「アフリカの角」のインド洋沿岸には、古くからアラビア半島やイランから商人がやって来て、モガディシュ(現在のソマリアの首都)のような港町が作られた。


10世紀以降(今から1100年ほど前)になると、モガディシュよりもさらに南に、マリンディ、モンバサ(現在のケニアにある島)、ザンジバル(現在のタンザニアにある島)、キルワ

といった港町もつくられるようになる。港町にはイスラーム教徒の支配者も現れた、インド洋海上交易の”西の終点“として発達。内陸からは象牙や奴隷、金などが輸出され、インド洋周辺各地の物産が輸入された。



アラブ人の商人が殺到したおかげで、現地の商人がカタコトのアラビア語を自分たちの言葉と混ぜて使うようになった。
これが現在ケニアやタンザニアで話されているスワヒリ語のルーツだ。

ジャンボ!という挨拶で有名だね。


なお、キルワよりもさらに南方でも、象牙の輸出と綿布の輸入の貿易ルートを握った支配者が、11世紀(今から1000年ほど前)にモノモタパ王国を建国している。
この王国は19世紀頃まで繁栄が続き、王都ジンバブエには「石の家」(大ジンバブエ;グレート=ジンバブエ)と呼ばれる巨大な石像建築が多数建てられたよ。


まとめ


最後に現在、イスラーム教徒がどんな地域に多く分布しているのか、分布地図に目を通しておこう。

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CC BY-SA 4.0 File:Africa By Muslim Pop.png

サハラ砂漠一帯(つまり西アフリカ)と、東アフリカの沿岸地帯に多いことがわかるよね。

「イスラームは、西アフリカでは塩金交易、東海岸ではインド洋交易によって広がっていった」(『新詳 世界史B』帝国書院、H29、87頁)ことと結びつけられるようにしておこう。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊