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14.1.1 バルカン半島の危機 世界史の教科書を最初から最後まで



ヨーロッパの強国同士が、それぞれ「強い国づくり」をすすめ、「大きな戦争」が起きないように同盟を結び合い、問題があれば国際会議を開いて解決する。
そうやって強国間の”バランス“をとることで、「平和」を生み出す。


1880年代末、この「列強体制」に基づくバランスが、ガラガラと崩れていった。

そして、見る見るうちに、イギリス・フランス・ロシア vs ドイツ・オーストリアという2つのグループの対立が激化(イタリアはイギリス側にまわる)。



これら強国は、当時支配のぐらついていたオスマン帝国の領土(バルカン半島、北アフリカ、西アジア)に進出しようとして衝突。

なかでもバルカン半島のオスマン帝国領を獲得しようとしていたオーストリアとロシアの対立が決定的となった。


ロシア帝国は、バルカン半島に進出する理由を「スラヴ人の世界をひとつにまとめるため」と宣伝。
バルカン半島側の小国もロシアを”後ろ盾“としてたのんだ。
この「スラヴ人としてまとまろう」という運動が激しくなると、オーストリアはこれを激しく警戒。

オーストリア国内にはチェコ人などスラヴ系の民族がいたからだ。

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対抗して、歴史的に国内外に散らばって分布するドイツ系の人々をまとめようとする運動(パン=ゲルマン主義)を打ち出したオーストリアにとって、ロシアの宣伝する「パン=スラヴ主義」はほかならぬ危険思想だったのだ。


とくにバルカン地域で存在感を増していたのは、かつてのバルカン半島のスラヴ系の強国「セルビア」。

1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命がおこると、オーストリアは管理下にあったボスニア州とヘルツェゴヴィナ州を併合


この2つの州の住民は大部分がスラヴ系で、前からセルビアが編入を望んでいたので、「オーストリアによるボスニアとヘルツェゴヴィナの併合は、スラヴ人の世界への侵略だ!」という反発を生むことに。


1908年の雑誌の風刺画
オスマン帝国のスルタン(右)が、オーストリア(左)によってボスニア・ヘルツェゴビナを、ロシア(中央)によってブルガリアを奪われようとしている。バルカンとアナトリアをまたいでいるオスマン帝国(Turquie)のスルタンは、困ったポーズをとっている。



ロシア帝国はオーストリアへの反感を利用し、1912年にセルビア

ブルガリア

モンテネグロ

ギリシアのバルカン半島にある4国を、オーストリアに対抗する「バルカン同盟」としてまとめさせる。


そして同じ1912年、オスマン帝国が北アフリカをめぐるイタリアとの戦争(イタリア=トルコ戦争)に忙しいスキをねらって、


ロシアをバックにつけたバルカン同盟はオスマン帝国に宣戦。翌1913年に勝利した。


これを第1次バルカン戦争(1912〜13年)という。

しかし、その直後、バルカン同盟の獲得した土地の配分をめぐり、ブルガリアと、セルビア・モンテネグロ・ギリシアの3国が対立。
もう一度戦争となった。
これを第2次バルカン戦争(1913年)という。


バルカン諸国は、それぞれ特定のヨーロッパの強国とコネをもっていたことからなかなか”一枚岩“とはならず、ロシアとオーストリアの対立を背景に、いつ大規模な戦争が起きてもおかしくないような情勢となっていた。


この情勢をたとえた言葉として、「バルカン半島はヨーロッパの火薬庫」という有名な呼び名があるよね。

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バルカン半島は、現代でいうところの ”シリア“ のような状況になってしまったわけだ。




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