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『もるうさあ』 最終話

8.○○のはなしと【もるうさあ】
(もるうさあ 一週間後)

 電車は進む。僕も揺られながら終着駅まで運ばれていく。故郷の海の匂いは、こんなにも濃かっただろうか。
 告白が怖いのはその先が未知だからだ。告白の先には暗闇がある。
 しかし、これから僕は告白をやり遂げなければならない。そして今、この電車がトンネルを抜けたように、その先の未知へと進んでいく。

 観光列車である『○○のはなし』は、東萩駅から新下関駅までの日本海添いを走る。僕たちは洋風の車両に乗り、海を眺めるベンチ席である8Aと8Dに座っている。車窓は動き続ける青と緑と光のキャンバスだ。アオキは先ほど長門駅で買った魚串をツマミに長門峡を口にしている。ブロンドでストレートの髪が潮風に揺れている。アオキは謎の多い人間だが、悪いヤツではない。同期では一番期待されている人間だ。

 僕たちはスマホのアプリを開発する会社に勤めている。しかし【もるうさあ】の影響で、一か月の特別休暇となった。
「折角の機会だから休暇にする。その代わり、それぞれがどこかへ出かけ、その報告書を作成、提出するように」
社長の鶴の一声だった。表向きは、世の中が【もるうさあ】で非常事態になり、仕事が利益に繋がらないという理由。しかし社長の真意は、自分が7月中は日本を離れアメリカに避難したいからだった。オカルト好きな社長は【もるうさあ】という終末思想を信じていた。
 社長と同じように海外に避難する同僚も多かったが、僕はこの機会に生まれ故郷の山口県に帰ろうと思った。僕は【もるうさあ】の正体を知っている。詳細は分からないが、【もるうさあ】は父親が僕のために企画してくれたイベントだ。
 僕は20年ぶりに山口に戻ってきた。
 職場で旅の手配をしていると、アオキも山口県に行くことを知った。いつもモニターに向かって仕事ばかりしているアオキに社内チャットすると、「木戸孝允が我が師」という理由だった。僕たちは画面上でのやりとりはしたことがあるが、実際に話をしたことはない。だからあまり期待はせず、電車が関係するアプリを作っていたアオキにこの列車に乗ることを誘ってみた。すると、なんとアオキが承諾した。この列車は原則ペアシート。実際にアオキが話に乗ってくるとは思っていなかった。アオキは人とのコミュニケーションを避ける。社内でも誰かと話をしているのを見たことがない。パソコン画面上のコミュニケーションはするが、声は返事くらいしか聞いたことはなかった。
「いいところだな」
「うん」
アオキはそう呟いてから席を立った。
 この電車に乗ってからも、アオキは返事しかしない。極端にコミュニケーションが苦手らしい。よくこの列車に乗ってきてくれたと思う。
 しかし、僕はその理由を知っている。それは、アオキもおそらく僕と同じような秘密を持っているということだ。アオキは、僕と話がしたいのだと思う。互いにしか分からないものを、僕たちは抱えている。きっとアオキもいつ話を切り出そうか考えて戸惑っているに違いない。その証拠に日本酒をすでに2本飲み干している。僕もアオキも、互いの秘密を打ち明けるためにこの列車に乗っている。『○○のはなし』なんて、これほど真剣な話をするのに相応しいシチュエーションはない。
 波打ち際は水が一瞬白くなる。それを見て子どもの頃は、海が陸に塩をばらまいていると思っていた。もう十年以上海に入っていない。しょっぱい海水のあの、鼻の奥を痺れさせる感覚を思い出そうと、深く息を吸った。

 額の半分を丸い海中メガネに入れて、子どもの僕らは波に揺られていた。その色は海の中にだけあった。光の網と一緒に揺れる紫水晶の海藻。青いレーザーを発する魚。背中を太陽に焼かれながら、互いに美しい宝を見つけて仲間を呼び、手柄を競った。
 ケンタは2つ上の小2、その弟のダイゴ、僕が同い歳で、僕の弟の晋作。波打ち際では白くしょっぱくなった海底の砂を掴み、ぶつけあった。ケンタは両手で砂を掴んで投げてきた。僕も真似をして投げるが力が足らずに上手く投げられない。それが悔しかった。僕はケンタに負けたくなかった。頬に当たった砂が口に入った。泣いてしまうと負けてしまうので、涙をこらえて砂を噛み、ケンタに体当たりした。海に倒れ込む。耳元でボコボコと泡が鳴った。
 海水浴後のおにぎりはこの世で一番美味かった。普段は食べない梅干もこのときだけは爽快で、体が回復していくのが分かった。互いに日焼けした上半身を並べて、4人で海を見ていた。

 アオキが日本酒を買って戻ってきた。
 僕は砂浜にあの頃の僕たちがいないか探した。
「小さい頃はよく海で遊んだよ。でも、幼稚園までだけどな。小学校から、僕は東京の祖父の家の養子になったから。東京は基本プールだよな。関東の海水浴場なんて、ただ海を見に行く感じだ。そしてあの混雑。なんなんだろうな。花火の上がらない花火大会に来てるような虚しい感覚」
 アオキは海を見ながらプラスチックの御猪口に酒を注ぐ。僕も揺れ続けている海を見ながら話す。
「ずっと水に入ってないな。海には行かないし、僕はプールにもずっと入らなかった」
波の音は、耳とは違うところからも体の中に入ってくる。
「嫌だったんだよな、水着が」
青い空に一つだけ浮かんでいる雲は、間違えてそこに現れているようだった。孤独な雲は何かに寄り添いたいらしく、太陽に近付いていく。アオキは「うん」と言って御猪口を手に取った。アオキの喉を日本酒が通る音がした。
「親父は、僕を田舎よりも都会に置くべきだと判断した。ちゃぶ台で向かい合って、『お前は進んだ人間だ』って言われたのを僕は覚えている。親父は時の流れみたいなものを見極める才能がある。僕が頑なに女の子用の水着や服を拒絶していたのをよく見てたと思うよ。僕自身よりも親父は僕の本質を、その時点でよく見抜いていた」
 僕は小学校から祖父の家の子どもになった。名字が変わり、弟や母親と一緒に住めなくなったのは悲しかった。でも、スカートを履かなくても学校に行けるのには安心した。私立の一貫校に入り、そのまま大学を卒業した。出会いに恵まれ、僕のことを理解してくれている友人がたくさんいることは、僕の人生において一番幸せなことだ。
「まぁ、いまでも自分の性別みたいなものは良く分からないけどな」
「うん」
アオキはテーブルに肘をついて海を見ていた。鼻が高く、目にはカラコンを入れているから、海外ブランドのモデルみたいだ。人差し指のリングには薄青の宝石が付いている。
「でも、だからどうだっていうのはない。よく分からない。ただ現時点では社会的に、僕は『進んだ人間』だから、色々とこっちが気を使って大きいものに合わせるしかない」
人はそれぞれだ。誰一人として同じ人はいない。しかし、大きな括りでしか人は判別できない。複雑なことは難しい。難しいことは疲れる。疲れることはみんな嫌いなんだ。
 きっとアオキは辛いことをたくさん経験してきた。何度も葛藤して、近付こうと努力して、でも上手くいかなくて。だから他人と関わることをあきらめてしまった。掴むところがない壁を、越えることはできない。
 海を見ているアオキの横顔を眺めていると、眼鏡をかけたおばあさんが僕たちのテーブルに何かを置いた。
「おすそわけです」
それは『チーズころん』という個包装された丸いかまぼこだった。
「あんた、さっきからずっと日本酒ばっかり飲んでから」
肩に触れられたアオキは明らかに戸惑って目を泳がせていた。
「そうなんですよ、コイツ。でも、山口のお酒が本当に美味しかったみたいで」「そうなんよ。獺祭が有名やけど、美味しいお酒がいっぱいあるんよ」
僕が「ありがとうございます」と言うと、アオキも頭を下げた。そしておばあさんはアオキを外国人のモデルであると勘違いしたまま、他の乗客におすそわけを配りに行った。
 僕はいただいたかまぼこを口にして、その美味しさに目を丸くした。アオキにも勧め、ちょうど来ていた販売員からちょんまげビールを買った。かまぼこを口にしたアオキもその味に目を丸くしたので、僕は笑った。するとアオキは表情を変えずにただじっと僕を見た。それは僕を試す眼だった。孤独な人間の眼だった。

 大学では演劇に打ち込んだ。人前で堂々と叫び、感情的になれることが楽しかった。一つの生き物として、解放された気がした。許された気がしていた。
 12月にはクリスマス公演として近くの教会で演じる機会があった。僕はサンタクロースに扮した。芝居の後は子どもたちにプレゼントとしてお菓子を配った。そのとき、柱の陰に隠れてプレゼントを取りに来ない女の子がいた。
「メリークリスマス」
僕がその子に近付くと、女の子は、
「来るな」
とこちらに両手を向けた。
「お前はニセモノだろう」
彼女の眼は敵を見ていた。サンタの格好をしたニセモノを警戒していた。
僕はじっと彼女の眼を見つめながら、「うん」と頷いた。そして、
「だから、もらえるものは遠慮なく、もらって良いんだよ」
プレゼントを差し出した。

 アオキと同じ眼をしていた少女を思い出してしまった僕は、「これ、ビールにも最高に合うわ」とわざと暢気な声を上げた。沖に浮かんでいる船がイワシ漁をしている想像もして、気を紛らせた。
「【もるうさあ】の正体、僕知ってんだ。アオキは何だと思う? 【もるうさあ】って」
アオキは口を閉じたまま、首を傾けた。
「もう知ってるかもしれないけど、僕の本当の父親さ、総理大臣やってんだよ。それでさ、前に電話があって、それはもう、一年くらい前になるかな」
アオキはそのことを知っていたみたいだった。
「ずっと前に、『僕はクリスマスが嫌いだった』って言ったことがあって。それは、僕の家にサンタクロースが来なかったからなんだよ、東京に住むようになってから。それを父親はずっと覚えててくれたみたいで。この【もるうさあ】が話題になる前、父親が、『サンタクロースがすべての人の元に来るような世界を目指したいよな』って言ったことがあって」
僕はちょんまげビールを手に取る。アオキはじっと僕を見ている。
「山口県ってさぁ、祭りとか、イベントがあるたびに、もちまきをすんだよ。知ってる? もちまき。家が建つときとか、棟上げ式だっけ? もちを撒くんだよ。山口県では」
「なんか和歌山県とかも、もちまきが盛んらしいわよ。でも、山口ではもちまきの世界大会があるからね。うちが一番」
おばあさんがまた違うおすそわけを持ち微笑んでいた。
「【もるうさあ】って、本当は、盛大なもちまきイベントらしいですよ、僕が聞いた話」
「そうなの? 大阪の人工流星の会社が謝罪会見してたじゃない。あれが本当じゃないの?」
「あと、政府が金融操作のために終末論をでっちあげたって話もあるぞ」
おばあさんの旦那さんも話に入ってきた。彼は『チーズころん』を持っている。「いろんな噂がありますよね。実際は全部政府が動かしているんでしょうけど、自衛隊も動いて近隣の国にも食べ物が、飴とかお菓子とか、もちまきが行われていたみたいなんですよ」
「へぇ~、でも、そっちのほうが素敵かも」とおばあさんは微笑みながら、「じゃぁ、私も撒いちゃお」と和菓子をテーブルに置いた。僕は礼を言いながら先週上野公園で僕のところに降ってきた、土に還る紙飛行機の話をした。その中には飴玉が入っていた。
 アオキに【もるうさあ】についてどう思うか聞きたかったが、少し頬を赤くしながら酒を注いでいたからやめた。
「本当のところは分からないけどな」
僕もビールを飲んだ。そしてこの真相をいつか政府が報告するようなことがあるのだろうか考えた。政府は世論を見極める。世論の波が良いときに、それに乗る。親父は、勝負のコツは後出しのジャンケンだと言っていた。今の世の中、何が正しいかなんて、誰にもわからない。何が起こっているのかなんて、誰にもわからない。
 すべてが【もるうさあ】みたいなものだ。今の時代は【もるうさあ】に溢れている。だけど僕たちにできるのは、自分のいる、自分の目の前の世界を大切にすることだけだ。
 ビューポイントに付いたらしく。しばらく停車するというアナウンスが入った。
「綺麗やのんた」
とアオキの隣でおばあさんが車窓から身を乗り出した。
「のんた?」
とアオキが頬を紅くして首を傾げてこちらを見た。
「だね~、みたいな意味だよ。方言」
 僕は海を眺めた。
「綺麗やのんた」
水面が光っていた。
「ずっとこうして見ていたいな」
駅ではなく、線路の上で止まっている電車。レールの上の、また動き出すまでのひととき。この特別な時間に、なぜか僕は、人生で一番悲しかったときのことを思い出した。

 駅で、小学生になる僕は母親と弟と別れた。新幹線に乗れることになんの感慨もなく、春休みの行楽客の声など耳に入らず、背中に背負った新品のランドセルはただの重りでしかなかった。誰が悪くて、何のせいで、僕は家族と別れなければならないのか。怒りと悔しさと情けなさと、言い表せないほどの感情が渦巻いた。そして感覚は麻痺して、僕はカラッポになった。無力な個体。僕は海を漂う発泡スチロールだった。
 発車のベルが鳴った。 
「ママ」と呼ぶ自分の声が他人の声のように聞こえた。僕は窓の外に向かって泣き叫んだ。僕の温かい場所が奪われる恐怖に慄いた。いつものように顔を歪ませて泣く弟。弟が叫ぶ僕の名前は、世界の外側から聞こえてくるようだった。僕に伸ばされた小さな手。弟は母親が両手で抱きかかえた。母親が泣いているところを始めて見た。
 姿が見えなくなっても、窓の外に向かって僕は2人を呼んでいた。僕はその場所から逃げ出すために、頭をずっと窓に押し当てた。今にも僕は窓を突き抜け、首を絞める寂しさから解放されると信じた。
 父親はずっと黙って僕のうしろに立ち、僕の肩に触れていた。

「ではそろそろ出発いたします。お席にお戻りください」
アナウンスが流れた。
 いつの間にかアオキが席にいなかった。振り返るとおばあさんが戻ってきた。しかしアオキの姿はない。立ち上がって隣の車両を覗く。売店に行っているのだろうか?
「みなさん、お戻りでしょうか」
アオキの席に鞄が無いことに気付く。と同時に、列車の外で右手を上げているアオキが目に入った。
「何してんだよ」
窓から顔を出して呼ぶがアオキは何も答えず、こちらに背を向けて海の方へ歩き出した。
「待て」
僕は慌てて車両の先頭へ行き、ここで降りることを一方的に伝えて飛び出した。「おい、どこ行くんだよ」
足元でバラストが崩れる。ヤツは振り返らない。
「何だよ、何してんだよ」
 草むらを抜けると海に出た。砂浜に入る。粒の荒い砂。そして、その上にはアオキの服が脱ぎ捨ててあった。ヤツは海の中にいて、水面に顔だけを出してこちらを見ていた。髪の先端は水に触れていた。
 僕は一度空を見上げ、その青さを確認した。そしてアオキを見た。
 アオキは立ち上がった。海の中、ちょうど足の付け根までの深さのところにアオキはいた。
「進んだ文明のアクセサリーみたいなもんだ」
しょうがないから僕も服を脱いだ。そして海に入った。
「勝手に電車から抜け出しやがって。これからどうすんだよ」
海水を掴んでアオキに投げつけ、頭を押さえつけて海に沈めてやった。
「金色のクラゲが現れたみたいだな」
とおどけた。
「ディズニー映画みたいだ」
と呟くと、アオキは勢いよく海面から跳びあがり、髪をかき上げながら、
「やめてよ」
と僕に水を掛け返してきた。
 何度か水を掛け合ったあと、僕たちは互いに空に届くほどの水飛沫を上げた。できるだけ高く飛沫を上げ、海と空の青を混ぜてやった。
 僕たちは砂浜に座った。「綺麗やのんた」と二人で海を讃えあってから、僕はアオキを「のんちゃん」と呼んでみた。
「嫌だったら、なんて呼んだらいいか教えてくれ」
「いや、のんちゃんでいい」
海を見ている横顔が、少し微笑んだ。
「のんちゃんさぁ、これからどうするよ。まったく。海岸線を歩いてたら、どこかに辿りつけるんだろうか?」
「私、飲み過ぎて、気持ち悪い…」
僕はまた、裸になって海へ入って行くのんちゃんの背中を見ながら、もう一度、「綺麗やのんた」とつぶやいた。
 口の周りを舐めるとしょっぱくて、何だか嬉しくなった。大の字になって砂浜に寝ると、空は手が届くところにあった。手を伸ばすと、ちょうどそこに、一筋の光が流れた。


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