事例:中卒の家系から企業の研究所に就職した発達障害者の話

白饅頭さんが公開されたnoteの記事に以下の引用リツイートをしたところ、白饅頭さんから引用で「note化希望」とのコメントを頂いた。

 自分の中では、単純に「父に感謝! 父ありがとう! 父すごい!」みたいな気持ちぐらいしかなかったので、何で自分のリツイートにそんなコメントをして頂けたのかどうにも分からなかった。色々考えてみたところ、これはもしかしていわゆる「低学歴の世界」から「高学歴の世界」に推移した人間としての実例を求められているのではないかと考えた。
 そこで、ひとまず思いつくまま、自分の話、特になぜそういう推移(脱出とかランクアップとか、そういう表現にはなぜか違和感を感じるので避ける)をしたのか、という部分に関係ありそうな記憶に絞って書き連ねてみたい。

 なお、要因について自身の認識しているものは、一番大きな要因が「父が優秀だったから」。
 二番目の要因が「自分が発達障害だったから」だと思う。


父の優秀さについて


 父のすごさや、父への恩を書き出すときりがないし、そういうことはインターネットに公開するのではなくて、直接本人に伝えるべきかとも思うので、とりあえず自分がなぜ今の状況に至れたかに関係しそうな事柄に絞って書いていきたい。先に言いたいことを書いてしまうと、父が自分を高専、大学、大学院にまで行かせてくれたのは、父が就職したメーカー企業の中で業績をあげ、人脈を築いた結果、学歴が重要だということを強く実感していたからじゃないかと思う。

 父方の祖父母は自分の名前を覚えていなかったが、自分が企業の研究所に就職したとき、その企業名を知ってから、兄弟・従姉妹の中でも自分だけさん付けで呼ぶようになった。つまり父の両親というのは、少なくとも孫達に対してはそういう扱いをするような人間性の人達だったんだろうと思う。
まともに会話をしたことがないので知らないけれども。

 父とはほとんど話をしたことがなく、父に関する情報は母からの伝聞、父と大人の人達の会話内容から類推していることが多い。そういうこともあり、以下の内容は推測だが、恐らく父はその兄弟達の中では一番「能力的に見込みがある」と思われていた様子だった。例えば、祖母が自慢げに、父は近所のガキ大将として取り纏めをしていたことを話していたこともあった。恐らく祖父母は、父が能力的に見込みがあったため、高校に進学するためのお金を工面し、父を高校に通わせたのではないかと自分は考えている。他の兄弟は家業の漁師を継いだり、板前になるなどしていた様だった。

 父は高卒で、大きなグループのメーカー企業に就職した。父は器用で何でもこなせる人だった。そういうこともあってか、技能五輪というものに関わっていた様子だった。詳しくは知らないが、職業技能を競い合う国際的な大会らしい。実家には大量の賞状が飾られていた。父はそこでコーチをして、若手の面倒を見たりもしていた様子だった。度々、自分の実家には知らない成人男性が何人も集まってきて、宴会のようなことをしていた。自分が成長した後で聞いたところ、父の元で訓練をしていた若手達、とのことだった。


 恐らくそういった業務や、ガキ大将気質なこともあってか、父はかなりの人脈を持っていた。父の運転で買物などに遠出すると、運転中にいきなり父が片手を挙げたりすることがあった。みると、隣の車線の車の男性も手を挙げていた。どうやら知り合いらしい。また、歩いているときも、父の名前を呼び止め、駆け寄ってきて挨拶する人が多くいた。若い人から父よりずっと年上の人まで、本当に幅広かった。挨拶が終わると父は「会社の人だ」と簡単に説明する、というのがいつもの流れだった。
 年賀状は、毎年二百枚以上、丁寧に手書きで書いて、一人一人にメッセージを書いて送っていた。帰ってくる年賀状も輪ゴムでまとめられた塊になっていて、父はその一枚一枚に丁寧に目を通して、なにやら分類をしていた。


 恐らくそういう幅広く丁寧な交友関係があったから、「出世して金を稼ぐには、学歴が必要になる」ということの重要性を強く感じていたのだと思う。


自身について


 一方で自分は、当時は名前なんて知らなかったが、就職後のうつ治療の過程で発達障害(ASD強め)との診断をうけるような人間だった。そのため、記憶にある限り幼稚園の頃から空気が読めなかったので、人との交流というのは基本的にいじられ、馬鹿にされ、いじめられることを指していた。そこで、これ以上いじめられないようにと「観察、分析、記憶、実践、修正」ということを身を守るために必死に行っていた。実際に意識していたことは以下の記事に列挙してみている。


 発達障害の特性なのか、もしくはそうやって身を守ろうとしていた時のものの考え方が役に立ったのか、予習、復習は一度もやったことがなく、宿題もほとんど提出したことがないような人間だったが、ペーパーテストに関しては小学ではほぼ全て100点、中学では基本80点以上だった。ちなみに空気が読めていなかったからか、中学まで散発的に色々なグループからいじめを受けていた。

 中学で、「俺は将来医者になる」という意識の高い人から、「見込みがある、一緒の塾に来ないか」と誘われてそこに通うようになった。そこはハチマキをする系のスパルタ塾だった。塾長がとても強面で恐ろしい人間で、本人は否定していたが、これは地元ヤクザのシノギではないかと思っていた。塾でまともに勉強したお陰か、県で偏差値トップの高校に行ける程度まで仕上げてもらえた。特に希望もなかったので、ぼんやりとその高校を受けるんだろうなと思っていた。


 そろそろ志望校を確定するような時期になって、塾長と生徒と親で三者面談をすることになった。その場で父が「高専に行かせようと思っているんです」と口にした。そのときの自分の県における高専の偏差値ランキングは、大体3,4番目ぐらいだったかと思う。塾長は「何を考えているんだ! もったいない!」と激高した。少なくとも見た目はヤクザの塾長の恫喝に対して、父は冷静に「勉強するうちは高い偏差値の所を目標にさせておいたんです。実際の就職を考えた場合、高専のほうが都合がいいでしょう」など、何か交渉のようなことをしていた。別に父と自分の間でトップの高校を目指すなんて話は一つもなかった。自分はその時初めて聞いた。そして激高したヤクザのような塾長ととても饒舌にやりとりする父は、今まで見たこともないような穏やかな表情で、冷静に、丁寧に塾長と話をしていた。最初の方のやりとりですでに自分は理解出来ていなかったので、ただ隣に座って縮こまっていた。後で塾長は塾生達の前で「あんなに思慮深い親御さんは見たことがない! 俺も視野が狭かった! 本当に勉強になった!」と父を絶賛していたことが嬉しかったのを今でも強く覚えている。


 恐らく父は、こういうやりとりをずっと企業の中でしていった結果、信頼を勝ち取り、人脈を広げて行ったんだろうなと思った出来事だった。


家庭の金銭面について


 幼い頃の暮らしは、決して貧しくはなかったが、裕福でもなかったと思う。子ども達は小遣い無し、菓子厳禁、誕生日・クリスマスの祝いも小規模(鶏の唐揚げが出ていた)で、プレゼントも一切無し、といった感じだった。いや、一度だけ誕生日プレゼントを貰ったことがあって、それは500円の手のひらサイズのボールだった。誕生日当日ではなく、誕生日の月だったことを思い出した母が、買物先で食材のついでに買ってくれたものだった。


 なんとなく金がないのは肌で感じていたので、中学で卓球部のとき、県大会にも行っていたが、道具は入部したときのものを3年間使い続けた。本来、少なくとも玉を打ち返す部分であるラバーは消耗品なので、プロの場合は数日で取り替えるようなものだが、家にはその金がないだろうと考えて3年間同じラバーを使い続けた。他の部員は適度に変えていた。ただ、一応自分が一番強かったお陰か、特に道具について文句を言われることはなかったのは幸いだった

補足:運動について


 発達障害の人は運動が苦手だと言われる。
 実際小学生の時は自分はいつも体力測定は下位一桁、ポートボールではいつもゴール役、サッカーではボールに触るなと言われるような状態だった。ただなぜか中学で卓球を始めてから、急に運動が出来るようになった。
 正確には、特定の動作に関して一点突破で出来るようになった。卓球であれば、ラリーをしているときにミスをすると先輩に怒鳴られたため、とにかく絶対に相手に返すという事だけは出来るようになり、その戦略(?)だけで県大会まで進んでいた。部活の顧問が他の部員と対戦相手に関する情報整理をしているところに混ざろうとしたら、「お前に戦略はない」と言われたことを覚えている。
 体育でやるバレー、バスケットなどでも、特定の動作に限っては出来るようになった。バレーであればとにかくボールを拾うこと。バスケットであれば、リバウンドとドリブルカット、パスカット。それ以外は一切出来なかった。例えばドリブルなども出来ず、ボールを持ったら一歩も動けなかった。
ただ、ある時バスケット部の顧問もしていた体育教師に、「お前今からでもうちのレギュラーになれる」と言ってもらえたことは嬉しかった。


高専以降について


 高専に通って、では卒業後の進路をどうするか、という話になったとき、適当にその辺の企業に就職するつもりでいた。しかし父から、「いや、大学は出ておいた方がいい」と言われた。金の心配をすると「貯金があるから大丈夫」と言ってもらえた。そこで、一人暮らしは金がかかるだろうと考えて実家から一番近い大学に編入することにした。また、母親から「あんたは家を出たら絶対帰ってこない。私の老後の面倒はあんたにみてもらうんだから駄目だ」と強い反発を受けたことも理由としてある。
 ちなみに、高専から大学に編入するとき、センター試験を受けなくて済む。もしかすると父は、そこも見越して、就職にも有利、大学進学にも有利な高専を選んでくれたのかも知れない。なぜ父が高専に行くように勧めたのかについて一度も話をしたことがないので分からないが。

 大学在学中の時期に、姉に彼氏が出来た(後に結婚)。その人は九大出身で、自分が大学卒業したら就職するつもりだと言うことを知ると、「できるだけいいところの大学院を出た方がいい」と言われた。ただ流石にもうそんなお金はないだろうと父に相談すると「何とかなるから大丈夫だ」と言ってくれた。そこで東工大の大学院に入学した。この時は父も母を説得してくれたので、奨学金とバイトで一人暮らしを始められた。

 就職活動では、福利厚生がしっかりしていて、残業もしないで済むということで、とある企業の研究所に就職した。新入社員として同期達や先輩方と顔合わせをしたとき、周りには当たり前のように東大、阪大、早稲田、慶応ばかりで、違う世界に来てしまった感覚になった。
 実際の所、高学歴の世界というものに潜り込めたということだったんだろうと思う。強く感じた印象として、皆の所作がいちいち上品でなんというか貴族っぽい感じがあった。自分なんかがそんなところにまじっていいものかと落ち着かなかった。

 その後については、配属されたところが超長期計画の絶賛炎上中プロジェクトで、その業務内容が自身の発達障害との相性が悪く、メンタルを崩してうつになり、休職した。以後も復職、休職、復職……と繰り返したが、体力のある企業だったので首も切られず、今も在席させてもらっている。


まとめてきな


 自分がなぜ高学歴の世界に推移したのか、ということに関しておおよそ以下が理由だと思っている。
・父がメーカー企業に就職し、膨大な人脈を築いた結果、経験的に学歴が重要であると認識してくれていたこと。
・学歴のためには金が必要であること。
・その金を貯めるため、日々の生活を節制していたこと。
・自身の発達障害特性のお陰で、勉強だけはある程度できたこと。

 書いていないが、その他にも影響していたこととして以下の事があると思っている。
・父はいつもダイニングで本とノートを開いて勉強する背中を見せていてくれた。
・父の大量の本が詰められた本棚が目に付くところにあり、そこでいろいろな本を読むことが出来た。
・父の本棚にあった「頭の体操」シリーズを読みあさったお陰で、色々な思考の訓練が出来た。
・父が血を吐いてトイレ一面が血まみれになり、救急車で運ばれた。ストレスによる胃潰瘍だと知り、そこまでして自分達のために働いていてくれたことへの感謝と、それに応えたいという気持ちの芽生え。
・父がまったく別種の業務内容の部署に異動した直後、父は食事中に箸でつかんだものを手が震えて取りこぼすほど疲弊していたのに、一切弱音を吐かず、人にあたることもせず、淡々と取り組む意志の強さ。

 などの影響もあって、自分が今の状況になれたのだと思っている。

 「自分頑張りました!」アピールは見苦しいのでできるだけそういった記述をしないように意識はしたものの、まじっていたら申し訳なく思う。また、一応それぞれの進学・就職にあたって、自分なりに必死に努力はしたつもりではいる。ただ、なんとなく思っているのは、そもそも日常生活のコミュニケーションがひどく頭を使うものなので、それが考える訓練となり、勉強系においてある程度成果が出せたのではないかと時々思う。


 これを読んでくださった方の中には、もしかしたら「結局、親が優秀じゃなければ高学歴の世界には推移できないのか」とか「だから発達障害の奴らには教養や品性のない奴が多いんだ」といったことを思われる方もいるかもしれない。

 これはあくまで自分の場合、というただの事例の一つにしか過ぎないということは分かって頂きたいと思う。
 この記事を根拠に一般化はできない。


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