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afterコロナに思う、オンライン化とアウラの喪失へのまなざし

「アウラ」。

コロナ禍にこの言葉がずっと頭のすみっこでくるくると回っていた。遠くで聞こえる音のように、意識すれば確実にあるけれど、意識しないと忘れていてふとした瞬間にまた思い出して考える。

「アウラ」とは、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin)というドイツの哲学者の著書で彼が使用した言葉だ。

10年以上前に学んだ彼の著作『複製技術時代の芸術』の大学講義をおぼろげながら思いだす。

「アウラ」とは端的にかなりざっくり言うと「時空」を1回限りで共有する体験のことを言うと記憶している。(ベンヤミンはこれを芸術、音楽の体験を主として論じた。オーケストラや絵画を生で体験することなど。)

ベンヤミンは、1936年にこの論考を発表。当時はまだ複製技術、つまり印刷技術と大量生産が未発達だったがその発展と共に人々は自らの好きなシチュエーションで体験できるようになる。(彼の想定どおり、モナリザなどの絵画がコピーされたTシャツが売れたり、マリリンモンローのブロマイドが大量に印刷されて売れたり、好きな時に音楽を楽しめる音楽プレイヤーが爆発的に訴求したりなど、実際に複製技術は発展した)

そうなると、体験の価値はさがり、体験の中にある「アウラ」価値は相対的に下がってしまう。

何より、大衆は便利で手軽な複製品の、つまりコピーされたアウラのない芸術作品や音楽を消費することが当たり前になる。

この話を今のコロナ中に置き換えると、印刷・コピーどころの騒ぎではなくデジタルで「ライブ配信」や「オンライン会議」などで擬似リアルを体験できてしまう中、体験の価値がまた大きく変わっている。

「アウラ」は今どうなってる?

複製技術・大量生産・大量消費の発展により、「アウラ」がどうなったかというと、生き残っている。と言える。

それこそ大学時代に周囲が熱狂していた夏フェスなどの「音楽フェス」、プロ野球や甲子園にラグビーといった「スポーツ試合」、チケットが完売続出の劇団四季などの「舞台」、近頃やたらと人が集う「都会のハロウィン」、祇園祭・阿波おどり・よさこい祭り・ねぶた祭りなど地方・地域の「伝統祭り」、テレビで観戦する「スポーツバー」、銭湯で純烈などが熱狂されてるように小さな施設での「超近距離ライブ」など枚挙にいとまがない。

これらすべて、そのとき、その瞬間に自主的に集まった人たちが1つの何かを共有する、つまり「時空の共有体験=アウラ」が存在している。やはり目には見えない「アウラ」に人が言語化できない欲求を満たす「なにか」があり、それを求めて人々は集まって体験を共有するのだろう。

しかし、それもコロナ以前の話であって、今は「時空の共有体験=アウラ」に欠かせない「集まる」ことが禁じられてしまった。それに伴ってあらゆる、ライブやお祭り、クラブにバーや飲食店などが中止・自粛になっている。

そこから生み出されたオンラインコミュニケーションは、ビジネス現場だけではなく祖父母と孫、離れて暮らす恋人、学校生活など日常にまで一気に広がりつつある。去年の暮れまで「ZOOM」なんてみんな知らなかったはずだがあっという間にテレビ番組でも使われるようになった。

これだけ急速にデジタルコミュニケーションが浸透すると、「アウラ」は失われるのではないか?

葬儀と法要のアウラ

私は「供養」の領域で二十歳そこそこから10年ほど活動している。

お寺の法要などの宗教儀礼や葬儀でも「3密阻止」の原則は例外なく働き、オンライン法要、オンライン葬儀といった「オンライン◯◯」がある種のムーブメントだ。

ベンヤミンは礼拝的、芸術作品には「礼拝的価値」と「展示的価値」があると言っていた。礼拝的価値には「魔術的機能」が,展示的価値には「芸術的機能」があるとも。

そういう意味では、日本の法要や葬儀といった冠婚葬祭儀礼には多くの場合「仏教」という「魔術的機能」が存在し、「葬式仏教」「檀家離れ」と言われて久しい今でも数や形に多少の変容はあっても人が集い、宗教者が儀礼する「法要」や「仏式葬儀」が2020年まで続いてきたのだから好むと好まざるとにかかわらず、あらためて宗教価値が産業とは一線を画するものだと感嘆する。

しかし、この「オンライン化」の流れで再び「葬儀」や「法要」、ひいては仏教的な弔いの価値が問われている。

「いまここで共有」してきた、お寺の雰囲気、僧侶の読経の声、親族や旧友で集まるあの独特の雰囲気、線香のかおりにお寺独特の匂い。そして何より「故人の思い出を共有する」という体験。

音楽や芸術作品のように以前は「読経」や「経典」が檀家、家族も僧侶と共有できる体験価値だったがいまは「共有」できる人も減っている。読経中にただ手を合わせてじっと終わるのをまつだけで同じように読経を唱えることができる若い人がかつてと比べて何人いるだろうか。

私は神道と仏教が混じった地域で育ったので、祭事で祝詞を唱える共有体験も、法事で読経を唱える共有体験もしっかりと自分の中にあり、その心地よさを知っている。けれども同世代で共有できた試しがない。

話を戻すが、それでもなお、そこに宗教者による宗教儀礼があることで「故人を思って集まる」葬儀・法要自体には価値が残り続けてきたがそれすらもオンライン化し、供養においても「アウラの消失」がおきてきている。

アウラを意識して気づいたこと

自分の中で「アウラ」がちらついていたのでここまで書いてみたが、私が問いたかったのは「アウラを失うとどうなるのか?」だったのだと気づいた。

例えば、3密制限の中で集まることを規制された社会がアフターコロナも続き、「意味」や「価値」がなければ集まってはいけない社会になったら?

たしかに、仕事の「伝達」「打ち合わせ」「意思決定」においてはオンラインで問題ない、というかリアルよりもスピード感はでる。

一方で仕事中のたわいない与太話やランチ中の悩み相談、その人が醸し出す雰囲気や「あ、みんな集中してるな」とおもう気配や一体感。

音なきところに音が聞こえる。ともいうが、話してなくてもその人の雰囲気で感じる「感情」や「体温」は必ずあり、それによって知らず知らず自分も良くも悪くも影響を受ける「時空の共有体験」がたしかにあると思う。

「アウラ=時空の共有体験」ともいえるこれらはごっそり抜け落ちる。そこには経済的価値はないかもしれないが、経済を成り立たせるための生産性に大きく影響する「心理的安全」には影響すると思う。

「つながっている」「わかりあっている」という心理は「わからないから聞こう」「失敗しても次またトライすればいい」といった相手に否定されない前提の心理で働ける職場は結果的にイノベーションを生み出すし、働くヒトも生き生きと働くだろう。それは家族でも恋人でも同じこと。

一方で、なんのために仕事をしているのか?なぜ働くのか?を問うてただ仕事をしてお金をもらえれればいい。という人は心理的安全すら不要かもしれないし、むしろこの状況で無駄な会議ややりとり、飲み会がなくなって快適かもしれない。

ただ、人とのつながりや職場の人間関係をふくめた仕事に価値を感じている人からすればそれこそ「コロナ鬱」になるかもしれないし、あるとおもっていたつながりがないことに気づいて転職を考えるかもしれない。

アウラの喪失から考えるafterコロナ

その人とっての「アウラ=時空の共有体験」がなんだったのかを考え、それがなくて寂しい、調子がでない、辛いと感じるのであればそれは自分にとって価値ある「時空の共有体験」であったのだろう。

むしろ、アウラの喪失感を感じられるものは3密制限がゆるんだafterコロナでは反動でいっきにもりあがるだろう。

一方で喪失したことで快適になって「不要だった」と感じられるものは淘汰されていくだろう。

企業でいえば通勤や無駄な会議、意味のない慣例化された作業など。そこで変われない組織は優秀な人材や心理的安全性に貢献していたキーパーソンが離れて結果的に会社もなくなってしまうかもしれない。

本質を見極めて、変容できるものは生き残るだろうし、そうでないものは淘汰されていく。まるっと自然の摂理がここでも適応される。

それは、先に書いた「葬儀」「法要」でも同じことなのかもしれない。

今、業界では「リアルの法要はなくなるのか?だったらオンライン化だ!」「いや、オンライン化してしまうと価値が下がって今後法要をしてもらえなくなるんじゃ・・・」といった議論になっている。

しかし、afterコロナの時代においてそもそも檀家・信徒、そして仏の教えに縁ある人々にとって「法要」「葬儀」の「アウラ=時空の共有体験」が価値あるものであったならオンラインだろうとリアルだろうと続いていくし、結果的にお布施も納められるはずだ。

そもそもの「法要」「葬儀」の「アウラ=時空の共有体験」に価値がなかったのであればそれはオンライン化しようがしまいが失われてしまう。

結局は、僧侶や我々事業者がしっかりと喪主・遺族と向き合い、「アウラ=時空の共有体験」の価値を最大化できてきたか?

「法要をやってよかった」

「葬儀をやってよかった」

「あなたに出会えてよかった」

そう感じてもらえる「時空の共有」に貢献してきたか?を突きつけられているのかもしれない。

これだけ価値観が個人化した世の中ですべての人にとって仏教や葬儀儀礼が必要だとは言えない。

でも、たしかに誰かにとって、特に故人を思う誰かにとって「宗教儀礼」が癒やしや救いを与える現場に私はなんども遭遇してきたし自分も体験した。

その価値を改めて見極め、いかにしてコロナ禍でもafterコロナでも必要とされる人々のもとへ届けるために、自分たちの行いを開いていけるのか?

価値の変容がこれだけ大きく変わる中で、ただじっとまっていてもよくて現状維持、悪ければ衰退する。必要としている人がいると仮定したうえでオンラインもそのためにツールとして使っていくのは賛成だし、これまでまったく外に発信してこなかったのなら、むしろ活用すべきだ。

実際に、私の会社でも社内で価値はなんなのか?を議論し、LINEを活用したオンラインサービスを開始したが、日経新聞や時事通信にもとりあげられたりと話題にはなった。

ただ、なんでもかんでもオンライン化するのは違うとおもうし、実際に私は慎重になっている。

自分たちで価値をあいまいにしたままオンラインにこれまでやってきたことをそのまま載せてしまうのでは、「オンライン化」という流れに流されるだけで結果的に誰にも価値を届けられずベンヤミンが危惧したように「複製技術として消費」されて終わってしまうかもしれない。

ただ、まだ出会っていない、必要としてくれている誰かに価値を届けるために工夫をしながらオンライン化を存分に使い倒したいと思っている。

そんなことを自戒をこめて思いつつ、afterコロナの社会を進んでいきたい。

あとがき

タイトルも決めずに書き出したが書ききって、書きたかったことがやっと分かったのでタイトルがやっと決められる。笑




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