うつ病がきっかけで100冊の本を読んだ話。
2023年11月15日。うつ病と診断された。
それから読書に拍車がかかり先月100冊を超えた。
これをきっかけに、読んだ本の一覧を残すとともに自分にとって「読書とは」についても一度書き残したい。
どうしてうつ病をきっかけに読書の時間が増えたのか
辛かったという記憶は脳にこびりついているのにそれがどうやってどんな状態に陥ったかは詳らかに表せなくなってきている。
うつ病と診断されて9ヶ月がたった。人との関わり方、社会との関わり方、自然との関わり方、食との関わり方、睡眠との関わり方、そして何より自分との関わり方。
この期間で多くの変化が起きた。自分の身体や心に向き合う大切な時間だったことは間違いない。この変化を下支えしているのはやはり読書だろう。うつ病をきっかけに仕事をやめ、空いた時間の多くを読書に充てた。それは有目的的に、決められた目標や高い志があったからではない。推敲されていない言葉に触れることが苦しかったからだ。僕は現実の言葉を避け、本の言葉に逃げたのだ。
SNSも身のまわりの人間もテレビも、人間はすぐ喋る。
「その言葉を発することで目の前の人間に、社会に、未来に、どんな影響を及ぼすのか考えて、その上でお前は言葉を発したのか?言葉の全てに悩み尽くしたのか?お前の口から出るその一言一言が誰かを傷つけるかもしれない、殺すかもしれないという恐怖と向き合ったのか?それでも話すべき言葉だったのか?」怒りの感情が湧き、体のどこかに「チリッ」という音と共に火花の片鱗が見える。いつも既に間に合わない。
また落ちてゆく。抑えられない苛立ち、上昇する脈拍、呼吸が浅くなり全身から汗が噴き出る。次第に誰かの閉じた口が喋る。視線が喋る。匂いが喋る。全ての言葉に傷付いては居場所を見失う。どこにいても誰かの不用意な言葉に触れてしまう世界に僕はいつも耐えられない。
氾濫する言葉に触れては怒り、傷つき、悩み、自分の殻に閉じ籠り世界への諦めだけが残る。本が必要だった。推敲された言葉が必要だった。そこに触れているときだけ生きれるかもしれないと思える。
その結果の100冊の読書だ。
”読書”とは「本を読んでいる時間のことではない」
インターネットでは本を買わない。書店で表紙に惹かれる瞬間、書店員のポップに興味を持つ瞬間、目当ての本の隣に気になるタイトルを発見する瞬間。この瞬間から読書は始まる。
目次やチラ見した数ページに意気投合を感じ購入を決める。そうやって本棚からの予選を勝ち抜き手元に渡ってくるのだ。
書店を回っている間に買いたい本が予定より増えると再度予選が開催される。残念ながら本棚へ戻された本は家まで来ない。
ようやく家に辿り着いても、積読から脱せず机の上に佇んでいる本もいる。これらの関門を越えてやっと本を開くのだ。ここまでの時間も読書なのだ。
表紙を見る時間も読書時間である。
『推し燃ゆ』のカバーを外した時、本の表紙がピンクではなく青色であることを知り衝撃を受けた。スピンも青色ではないか。なぜ青色が重要なのか、この本を読んでいただければわかろうだろう。この時から、読書とはカバー・帯・カバーを外した表紙・背表紙・スピン・見返し、これらの全てを吟味し意味を探ったり想像することも含むものだとしている。
特にカバーを外した内側の表紙デザインは凝っていることが多い。最近だと漫画『神田ごくら町職人ばなし』の表紙の美しさに衝撃を受けた。物語に出てくる藍染の型紙デザインが施されている。
読了後も読書は続く。読んで特に気に入ったものは本棚の中でも上段の手前側、生活していてよく目に入るところに置いておく。時々手にとって適当に開いたページだけ読み返すこともあれば、背表紙を見ては登場人物が今どこでどう生活をしているか想像するだけで心が救われる瞬間がある。
「痛みの存在証明」としての読書
うつ病になって、読書の素晴らしさとして改めて感じたのは「痛みの存在証明」だ。
僕は本を読んでいて「こんなにも自分と同じ痛みを抱えながら生きている人間がいたのか」と驚くことがある。自分と同じ傷を抱えた人物の物語を読むのは辛い。思い出したくない過去が引き摺り出されたり、気にしないように勤めていたはずのコンプレックスを露呈させられるからだ。
しかし、その登場人物が美しい文章を纏いながら本の中で傷ついているのを目にした時「自分も傷ついていいのだな」と思える。
心の傷は他人には共感されないものも多い。自分は辛いと感じていることを他人に「そんなこと気にしてるの?」と無碍にされると、その傷を抱えていること自体にまた新しい傷口が生まれる。「どうして自分ばかりこんなことに傷ついているんだろう。」「こんなことで傷ついている自分がいけないのではないだろうか。」「自分が大袈裟なだけで本来は存在していない傷ではないだろうか。」
しかし読書を通じて気づく。やはり傷は存在していたのだ。傷ついていいのだ。傷ついたまま生きていていいのだ。
人より多く傷つく人間には「その傷は僕の傷だ。あっていい傷なんだ。」と傷の存在証明が必要なのだ。そうやって初めて自分の傷を大切にとって置けるのだ。
本の「要約動画では代替不可能」なこと
読書について考える時、昨今のタイパ・早送り・要約ブームについて考えることは避けられない。
僕は100冊読んでみて、読書でしかできないことがあると感じた。それは自分の頭で考えることだ。読書の真髄はタイトルで提示される問題提起に対するアンサーを知ることではない。あらすじを知って友達の会話についていけるようになることではない。
例えばうつ病の人に対する接し方について、当事者に言ってはいけないワード・療養におすすめの食べ物・おすすめの運動。こんなものは本を読まなくていいし、調べればすぐに出てくるだろう。情報を知ること自体においては読書の価値はインターネットやファスト動画に代替されていくだろう。しかし、本を2時間かけて読んだ際、少なくとも情報を手に入れたのとは別に、うつ病について2時間考えた自分がいるだろう。僕は、その時間が大切だと感じている。本を読むのは時間がかかる。つまり、その時間だけ他の人より多くその問題やテーマについて強制的に考えさせられる時間が生まれるのだ。
その時間は人間の身体で考えた言葉、行動を読者にもたらす。紙面上に並んだ言葉や行動ではない。五臓六腑からの言葉や行動だ。
本やネット記事を読んで「当事者に言っちゃダメな言葉」として出ていたから言わない人間と、当事者について知り、自分の頭で当事者を想像し、その上で自分の身体で、自分の心で言葉を選んでいる人間は全く異なる。相手にその差はすぐに伝わる。
人との関わり方を情報として手に入れてマニュアル的に行動するためには、タイパを追求し、要約サービスやファスト動画、まとめサイトを見ればいいだろう。しかし目の前の人間と心と心、身体と身体で関わっていくことを選ぶのであれば、読書を通じて自分の頭で考える時間が、僕たちの生活に対してかけがえのないものを与えると感じている。
小説は「共感可能範囲」を広げる
全くもって理解できない意見に遭遇したことはないだろうか。職場でも良い。友人や家族との何気ない会話でもいい。全くもって常識はずれで非社会的、どうしても認められない意見に遭遇したことはないだろうか。そのとき、どうして相手からその意見が出てきたのか理由を尋ねたことはどれほどあるだろう。尋ねたとして、どれほどの時間をかけただろう。
最後の1ページで主人公が殺人を犯す小説がある。普通僕たちは、どうしても殺人を犯すような人間に共感はできないし共感したくもないかもしれない。どれほどの弁解を耳にしても彼らの意見には同意できない。
しかし、小説を読んで、数時間かけて主人公の一生を追体験し、主人公がどんな親のもと、どんな声をかけられながら、どんな人間と出会ってどんな環境で生きてきたのか。これらを全て知った時に、もし主人公の立場で生まれ、同じ境遇で生きてきた時に、最後の1ページ、僕に殺人とは別の判断ができるかどうか自信を持てなくなる。
言葉や行動はその人間が何年、何十年かけて蓄積した経験や思考の最後のひとかけらでしかない。その言葉や行動を眼前にしただけでなぜ 僕等にそれらの良し悪しや妥当性を判断できるだろうか。
本を読了したとき、”嫌悪”という言葉がぴったりの友人の顔が浮かんだことがある。もしかしたらあの人もこういった過去の蓄積があったのかもしれない。その時初めて友人の見えない部分を想像した。僕たちが見えていないところに何があるのか僕たちは何も知らない。
せめて僕たちができることは、僕たちの見えていないところで僕たちの想像を絶することが起きているかもしれないということを考えるだけだ。その限りある想像の幅を少しだけでも広げられるのが小説だと思う。
100冊の本を読んでみて
100冊の本を読んだ。そして、この期間はどんな本を読むときでも「うつ病」「これからの人生」「自分のような人間が少しでも幸せに生きるためには」こういったキーワードが脳裏にある状態で読書を続けていた。その上で自分が大事だと感じたことはこれだ。
「自分から生まれた豊かさを知ること」
他者やから社会から植え付けられた豊かさではなく”自分から”と言うのが重要な点だ。
豊かさや幸福を考えたときに、どういった点が思い浮かぶだろうか。SNSで承認されること・恋人がいること・お金があること・容姿がいいこと・仕事で成績がいいこと・趣味が充実していること・家族との良好な関係・学歴がいいこと。
なんでも良いが、そのうち、自分から生まれたものはどれほどあるだろう。他者や社会で豊かとされていることをなんとなく受け入れているものはどれだろう。その豊かさは本物だろうか。幻想だろうか。
自分から生まれた本物の豊かさを知ることは間違いなく自分の心を豊かにする。そして心の豊かさは、他者に対する優しさにも繋がらないだろうか。
100冊の読書をする中で、「優しさ」を選書の際の一つの基準としていた。脳科学や人類学、生物学、あらゆる角度から優しさについて考えてみた中で今の僕の結論としては「自らの豊かさが担保されていない人間から他者への優しさは生まれない。」
加えて、先述したSNSや恋愛、容姿や金銭的な豊かさは相対評価の世界であり上限がなく、満足できないことも多い。つまりそれらを人生の豊かさとして定義している場合多くの場合は満たされず、その結果心のゆとりを持つこと、ひいては他者への優しさを持つことはできない。
多くの人間がここに陥り、他者への想像をやめ、自己防衛に必死になった結果いつも誰かを傷つけているのが今の僕たちだと思っている。
他者や社会に決められた豊かさを追うことをやめ、自分にとっての豊かさとはなんであるか立ち止まる時間をとることが自分にとっても他者にとっても重要なことだと感じている。
しかし、資本主義、経済成長は立ち止まることを許しはしない。一瞬の隙間にすら入り組んでくる広告は次から次へと新たな欲望を仄めかしては金銭と時間と心の消費を求める。意識せずに生活すれば消費と承認欲求の濁流に飲み込まれてしまう社会であることはすでに多くの人が気づいているだろう。
だからこそ意識的に立ち止まり目の前に暗示されている豊かさ本当に豊かなのか考える時間をとる必要があると思う。
読書を通じて、知ることで、自分の頭で考えることで、得るものはたくさんあった。この時間を生かして僕はこれからも自分にとっての豊かさに気づく時間を大事にし、心のゆとりと他者への優しさを持てる人間でありたいと感じている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?